第8話「春の輪舞」
結局その日、赤髪の旅人は朝から夕方まで、ほとんどクリスティーンに連れ回されることになった。
最初は市場を少し見て歩くだけのつもりだったはずなのに、焼き菓子の屋台へ寄ったのを皮切りに、旅商人が並べる珍しい品々を見せられ、神殿へ続く坂道では花飾りにまつわる言い伝えを聞かされ、昼を過ぎた頃には、村の子どもたちが始めた投輪遊びにまで巻き込まれていた。
「次、あれ見に行きましょう!」
「まだあるのか」
「ありますよ。お祭りなんですから」
「そうか……」
そんなやり取りを、今日だけで何度繰り返したか分からない。
男の方も初めのうちは半ば呆れながら付き合っていたが、午後になる頃には、クリスティーンが次に何を見つけても大して驚かなくなっていた。
それと同時に、村人たちの態度も数日前とは随分変わっていた。
ほんの数日前までは誰も名前すら知らなかった男なのに、今では広場を歩いているだけで、「おお、赤髪の兄ちゃん!」や「昨日は助かったよ!」などと、あちこちから声が飛んでくる。
最初の頃こそ、そのたびに何とも言えない顔をしていた男も、さすがに午後には慣れてしまったらしく、呼びかけられれば軽く手を上げたり、短く返事をしたりするようになっていた。
もっとも、名前だけは相変わらず誰にも教えていない。
やがて西の空が赤みを帯び始めると、村の中央広場は昼間とはまた違った賑わいに包まれた。
広場の中央には、人の背丈を遥かに超えるほどの大きな焚き火が組まれている。
積み上げられた薪へ火が移ると、乾いた音を立てながら炎が一気に立ち上がり、夕闇の迫り始めた広場を橙色に照らした。
その周囲には長い木製のテーブルが何列も並べられ、村人だけでなく、祭りを目当てに訪れた旅人や商人までが肩を並べて座っている。
卓上には、大皿に盛られた焼き肉や香草をたっぷり使った煮込み、焼きたてのパンに山盛りの野菜、蜂蜜を使った菓子などが所狭しと並び、その隙間を埋めるように酒瓶や酒壺が置かれていた。
昼間から飲み続けている男たちの中には、すでにかなり上機嫌になっている者もいる。
赤髪の旅人も、クリスティーンに連れられて長机の一角へ腰を下ろしていた。
「どうです?」
隣から尋ねられ、男は皿に盛られた肉を一切れ口へ運った。しばらく噛んでから、素直に頷く。
「旨い」
「それだけ?」
「旨いものを旨いと言って、他に何を言えばいい」
「もっとこう、感想とかありません?」
男はもう一切れ肉を取る前に、少し考えた。
「……塩加減がいい、火の通りも適切だ」
「急に料理人みたいになりましたね」
クリスティーンが笑う。男は気にする様子もなく、そのまま二切れ目を口へ運んだ。
朝からあれだけ歩かされていたにもかかわらず、疲れた様子はまったくない。それどころか、途中で何度か「少し休みましょう」と言い出したのはクリスティーンの方だった。
そんな彼女がようやく食事にありついた頃、広場の端から楽器の音が聞こえてきた。
初めに響いたのは、弦を爪弾く軽やかな音だった。それに高く澄んだ笛の音が重なり、最後に大きな太鼓が低く鳴って、一定の拍子を刻み始める。
するとテーブルのあちこちから歓声が上がった。
「始まった!」
クリスティーンが勢いよく立ち上がる。
男はまだパンを手に持ったまま、彼女を見上げた。
「何がだ」
「踊りです!」
視線を広場へ向けると、焚き火の周囲へ人々が集まり始めていた。
若者だけではない。老人もいれば、子どももいる。村人に交じって、見物に来た旅人まで輪の中へ入っていた。
誰かが隣の者の手を取り、その手がまた次の者へ渡されていくうちに、焚き火を囲む大きな輪が出来上がる。
楽曲の調子が少し速くなると、人々はそれに合わせて右へ三歩、左へ二歩と動き、足を踏み鳴らしてから手を叩いた。
次の拍子では隣の者と場所を入れ替わり、そのまま輪全体がゆっくりと回っていく。
きっちりと型の決まった舞踊というよりは、祭りの日に誰でも参加できるよう、簡単な動きを組み合わせた踊りらしい。
少しくらい間違えても、周囲に合わせていれば何とかなる。
「行きましょう!」
クリスティーンが男の腕を掴んだ。
「待て」
珍しく、男が即座に拒んだ。
「何ですか?」
「あの踊りを私は知らぬ」
「大丈夫ですよ。簡単ですから」
「簡単かどうかを決めるのは、知っている側ではないだろう」
正論を返され、クリスティーンは一瞬だけ言葉に詰まった。
「じゃあ、私の真似してください」
「そういう問題では―」
最後まで言わせてもらえなかった。近くのテーブルから、酔いの回った男の声が飛んできた。
「おい兄ちゃん!踊ってこい!」
昨日、荷車の一件を見ていた男だった。
「せっかく祭りに来たんだろ!」
「そうだそうだ、行け行け!」
別のテーブルからも声が上がる。嫌な予感がして男が振り返った時には、もう遅かった。
「ほら、行ってこい!」
「ちょっと待て」
「大丈夫だって!」
背中を押される。抵抗すれば、酔った村人が何人集まったところでどうということはなかっただろう。
しかし、そこまでして拒む気もないところへ、面白がった男たちが次々に寄ってきた。
「待てと言っている」
「平気平気!」
「何が平気なのだ」
とうとう輪の近くまで押し出された。その様子を見て、クリスティーンは腹を抱えて笑っている。
「笑っていないで何とかしろ」
「だって……ふふっ……」
「そもそも、お前が始めたのだろう」
「はい、こっち!」
まったく悪びれる様子もなく、クリスティーンが手を差し出した。
男はその手を見てから、周囲を見回す。どうやら逃げ道はなさそうだった。
「……仕方ない」
諦めて彼女の手を取ると、ちょうど次の曲が始まった。
「まず右です!」
クリスティーンの声に合わせて動き出す。
「三歩進んだら、次は左!」
言われたとおりに動いたつもりだったが、最初のうちはどうしても一拍ずれる。隣の老人と肩がぶつかり、男はすぐに頭を下げた。
「すまん」
「気にすんな!」
次は足を踏み鳴らすところだったが、今度は少し早かった。
「あ、そこは次です!」
「ややこしいな」
「まだ始まったばかりですよ」
クリスティーンは実に楽しそうだったが、男の方は明らかに不満そうだった。
ところが、二周目に入る頃には様子が変わった。
右へ三歩進み、左へ二歩戻る。そこで一度踏み込み、二度手を叩いてから、相手と位置を入れ替える。
先ほどまで男の動きにあった僅かな迷いが、ほとんど消えていた。
三周目にはもう間違えない。
四周目になる頃には、むしろ周囲より僅かに早く次の動きへ入るようになっている。それでも音楽から外れているわけではなく、太鼓の拍子を正確に拾っているため、かえって動きが滑らかに見えた。
「……あれ?」
クリスティーンが横目で男を見る。
「本当に初めてですよね?」
「ああ」
男は踊りながら普通に答えた。
「何故だ」
「もう私より上手いんですけど」
「動きは分かった」
「早すぎません?」
男は答えない。そのうち、広場の盛り上がりに合わせて演奏の速度まで上がっていった。
大きな輪は一度ほどけ、今度は何組かに分かれて向かい合う。相手の周囲を回りながら拍子に合わせて足を交差させ、最後に一度、大きく跳ねるという流れらしい。
男は周囲の動きを一度眺めただけだった。
それで十分だったらしい。
次の拍子で地面を蹴ると、長い身体が周りより明らかに高く浮いた。
「おおっ!?」
誰かが声を上げる。
着地した男はその勢いを殺さず半回転し、すぐ次の動きへ移った。足を交差させながら前へ進む姿は速いにもかかわらず、身体の軸がまるでぶれない。
本人としては、周囲の真似をしているだけなのだろう。しかし、元々の身体能力が違いすぎた。
「ちょ、ちょっと!」
クリスティーンが慌てて追いかける。
「何だ」
「それ、どこで覚えたんですか!?」
「今だが」
「そんなわけないでしょ!」
「何故だ」
「何故って……!」
言い合っている間にも、男は次々と動きをこなしていく。
やがて太鼓がひときわ強く鳴り、今度は若い男たちが順番に輪の中央へ入り、それぞれ好きなように踊り始めた。
「赤髪の兄ちゃん!行け!」
案の定、どこかから声が上がった。男は納得できないという顔をする。
「何故我なのだ!」
「さっきから一番目立ってるからだよ!」
「知らん」
そう答えたところで、結局また背中を押されて中央へ送り出された。
周囲から手拍子が始まる。
男は輪の真ん中でしばらく立ち尽くし、どうしたものかと考えているようだったが、やがて太鼓に合わせて一度強く地面を踏み込んだ。
炎を背にして大きく跳び上がった。
空中で身体を回し、そのまま着地すると、今度は姿勢を低く落として片足を軸に素早く旋回する。
立ち上がると同時に足を踏み鳴らし、続けて左右へ大きく跳んだ。
広場から、一斉に歓声が上がった。
「それ違う!絶対違う!」
クリスティーンが笑いながら叫ぶ。
いつの間にか、祭りの踊りとは似ても似つかないものになっている。
「何がだ」
「そんな動きありません!」
「好きに踊れと言ったではないか」
「限度があります!」
村人たちは大喜びだった。
酒を飲んでいた男たちは机を叩いて笑い、子どもたちは真似をしようとして、その場でぐるぐる回り始める。
しまいには演奏している楽師たちまで面白がったらしく、男の動きに合わせて曲の速度をさらに上げ始めた。
それに気づいた旅人が、演奏者たちへ目を向ける。
「……挑発しているのか?」
楽師は答える代わりに笑い、さらに激しく弦を掻き鳴らした。
男の口元が、僅かに上がる。
「よかろう」
「なんで張り合うんですか!」
クリスティーンの声は、もう周囲の歓声に半分以上かき消されていた。
こうしてしばらくの間、広場で最も目立っていたのは、つい朝まで祭りの人混みへ入ることさえ渋っていた赤髪の旅人だった。
やがて曲が終わると、周囲から大きな拍手と歓声が沸き起こった。
その中心にいた男は平然としており、あれだけ動き回った後だというのに息すらほとんど乱れていない。
対して、その隣へ戻ってきたクリスティーンは、膝に手をついて肩で息をしていた。
「……なんで……私の方が疲れてるんですか……」
「体力が足りんな」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「我は普通に踊っただけだ」
クリスティーンはゆっくり顔を上げた。
「普通の意味、一回ちゃんと考えた方がいいですよ」
クリスティーンは堪えきれず吹き出した。
男も、つられるように小さく笑った。
焚き火の向こうでは、すでに楽師たちが次の曲の準備を始めている。呼吸を整えたクリスティーンが、男の方を見た。
「もう一回行きます?」
男はもう一度、人々が作り始めた輪へ目を向ける。
今度は、さほど長く考えなかった。
「……次は最初から教えろ」
「はい!」
嬉しそうに差し出された手を、今度は抵抗することなく取った。
明日には、この村を出る。
その予定を変えたつもりは、まだなかった。
それでも少なくとも今夜だけは、宿の二階から祭りを眺めて終わるような夜にはならなかった。




