第7話「春の祭典」
祭りの当日、デイン村は朝から人で溢れていた。
前日までにも近隣の町や村から商人や旅人が入り始めていたが、今日はその比ではない。普段なら荷車が一台通っても邪魔にならない広場に、色とりどりの屋台が所狭しと並び、その隙間を巡礼者や家族連れが絶え間なく行き交っている。
焼いた肉の香ばしい匂いに甘い菓子の香りが混じり、酒樽を運ぶ男たちの掛け声の向こうでは、楽器を持った一団が昼からの演奏に備えて音を合わせていた。
村の家々を結ぶように渡された布も、すでにすべて飾り付けを終えている。白や黄色を中心にした春らしい色合いが風に揺れ、英雄神殿へ続く坂道には、昨日のうちに運び込まれた大量の花が道の両脇を彩っていた。
その準備が今年は例年より随分と早く終わったことについて、村人たちの間ではちょっとした話題になっていた。
理由の一つは、もちろん例の赤髪の旅人である。
昨日の昼頃、広場へ祭壇を運び込もうとしていた男たちが、その重さに手を焼いていた。数人で持ち上げようとしてもびくともせず、一度荷物を下ろして人数を集めようかと相談していたところへ、たまたま旅人が通りかかった。
「そこへ置けばいいのか」
そう尋ねるなり、一人で祭壇を持ち上げ、そのまま指定された場所まで運んでしまった。
夕方には夕方で、屋台の骨組みを眺めていた男が、「このまま布を張れば、夜までに倒れるぞ」と突然言い出した。
作業をしていた職人たちは当然ながら半信半疑だった。
「昨日組んだばかりだぞ」
そう言われても男は気にする様子もなく、一本の柱へ手を掛けて軽く押した。
すると接合部から、ぎしりと嫌な音がした。
慌てて調べてみれば、土台の一部が湿った地面へ沈み始めていた。男は近くにあった木材を何本か持ってこさせると、補強する位置まで細かく指示した。
「そこではない。もう一尺外だ」
「ここか?」
「もう少し」
「……あんた、本当に旅人なのか?」
「そうだが」
結局、そんなやり取りをしながら作業は進み、本来なら半日かかるはずだったところが午後過ぎには片付いてしまった。
おかげで朝から働き詰めだった村の男たちは、例年より少し早く酒を飲み始めることができた。
少なくとも彼らにとっては、実にありがたい旅人だった。
もちろん当の本人は、自分が祭りの準備を大幅に早めたなどとは考えていない。
頼まれたから運び、危なそうだったから直した。ただそれだけのことだった。
そして祭り当日の朝。赤髪の旅人は、宿の二階にある自室の窓辺に立っていた。
窓は開け放してあるため、外から聞こえてくる人々の声だけでも、昨日までとは村の様子がまるで違うことが分かる。
宿の前の通りにも人の流れが途切れない。子どもを肩車した父親が歩いていったかと思えば、その後ろから大きな籠を背負った商人が人を避けながら進んでいく。
少し離れた広場では、すでに屋台の火が入っているらしく、屋根の隙間から細い煙がいくつも立ち上っていた。
「……増えたな」
男は窓枠に片手を置きながら呟いた。
昨夜、宿の主人から「明日は朝からすごいですよ」と言われていたが、確かにその言葉どおりだった。
旅人の多い大きな街ならともかく、これほど小さな村にこれだけの人数が集まっている様子は、どこか不思議にさえ見える。
もっとも、祭りの日だけ周辺から人が押し寄せる田舎の村など、それほど珍しいものでもない。長く各地を歩いてきた男は、それくらい知っていた。
ただ、自分からその人混みへ入っていこうという気には、あまりなれなかった。
昨日、クリスティーンには祭りを見ると約束しているとはいえ、昼頃になって人の流れが少し落ち着いたところで歩いてみれば、それで十分だろう。
そんなことを考えながら、男は窓の外を眺め続けた。
朝食の時にも、宿の主人から、「せっかくなんだから、早く行けばいいでしょう」と言われている。
男が「人が多い」と答えると、祭りなんだから当たり前ですよと笑われた。
そんなことは言われなくても分かっている。その当たり前が少々面倒なのだ。
広場へ目を向ければ、昨日自分が補強した屋台もきちんと立っている。布を張ったことで横から受ける風は強くなっているが、あれなら問題ないだろう。
そんなところばかり見ているあたり、本人に祭りを楽しむ気がどれほどあるのかは怪しいところだった。
しばらくすると、宿の前で誰かが足を止めた。
初めは特に気にも留めなかったのだが、その人物は宿へ入るでもなく、道の端へ少し移動すると、こちらを見上げた。
そこで窓辺の男と目が合った。黄金色の髪と深く青い瞳。
昨日と同じ娘、確か名はクリスティーンだった。
今日はいつもより少し明るい色の服を着ていて、髪の横には小さな白い花まで飾っている。祭りに合わせたものなのだろう。
クリスティーンは男を見つけるなり顔を明るくし、何のためらいもなく大きく手を振った。
「こんにちはー!」
通りを歩いていた何人かが振り返った。男は窓辺に立ったまま、黙って彼女を見る。
クリスティーンはまるで気にしない。
「お祭り、始まってますよー!」
「……見れば分かる」
二階からの声は届かなかったらしい。
「えー?」
さらに大きな声が返ってきた。男は小さく息を吐いた。
こちらの反応から何かを察したらしいクリスティーンだったが、諦める様子はまったくなく、今度は両手を口元へ添えた。
「一緒に巡りませんかー!」
声が通りいっぱいに響いた。宿の前を歩いていた者だけでなく、向かいの屋台にいた男までこちらを見る。
さすがに男もわずかに眉を寄せたが、下ではクリスティーンが変わらず笑っている。
その顔には遠慮もなければ、相手の機嫌を探るような様子もない。昨日助けてもらった旅人が、祭りの日にもまだ村にいる。
一人でいるなら誘ってみよう。おそらく、本当にその程度の理由なのだろう。
男は仕方なく窓から少し身を乗り出した。
「昨日、見ているだけでも構わんと言っていただろう」
今度は声が届いた。
「言いましたけど!」
クリスティーンは上を見たまま答える。
「部屋から見るとは思ってませんでした!」
宿の前にいた老人が思わず吹き出した。男がそちらを見ると、老人は慌てて顔を背ける。クリスティーンはそんな様子を見て、ますます楽しそうに笑った。
「せっかく来たんですから、少しくらい一緒に見ましょうよ!」
「人が多い」
「祭りですから!」
朝、宿の主人にもまったく同じことを言われた。男が露骨に困った顔をすると、クリスティーンはそれを見逃さなかった。
「もしかして、本当に人混み苦手なんですか?」
「得意ではないと言ったはずだ」
「大丈夫ですよ。空いてるところから案内しますから」
「そこまでして見るものなのか?」
「見てから決めてください」
返事は早かった。男はしばらく黙って彼女を見下ろした。クリスティーンは通行人の邪魔にならないよう道の端へ寄りながら、それでも変わらず窓の方を見上げている。
昨日、「ぜひ来てくださいね」と誘われて、「いいだろう」と答えたのは自分だ。
約束した以上、このまま部屋に閉じこもっているのも気分が悪い。それに、明日には村を出るつもりなのだから、数時間くらい付き合ったところで何かが変わるわけでもない。
「……待っていろ」
そう言って窓から離れると、すぐ下から、
「はーい!」
と明るい声が返ってきた。
男は外套を手に取り、腰の剣を確かめてから部屋を出た。階段を下りていくと、帳場にいた宿の主人が顔を上げる。
「お出かけですか?」
「ああ」
主人は入口の外をちらりと見た。そこでは金髪の娘が男を待っている。
「なるほど」
何やら納得したように頷かれ、男は足を止めた。
「何だ」
「いえ、別に」
どう見ても「別に」という顔ではなかった。
「祭り、楽しんできてください」
男は少し怪訝そうな顔をしたものの、それ以上問いただすこともなく扉を開けた。
外へ出ると、クリスティーンがすぐにこちらを向いた。
「来てくれた」
「約束したからな」
「てっきり断られるかと思いました」
「なら何故呼んだ」
「来てくれるかもしれないからです」
あまりにも当たり前のように言われ、男は一瞬返事に困った。
「……変わった娘だな」
「そうですか?」
どうやら本人にはまるで自覚がないらしい。クリスティーンは気にする様子もなく、広場の方を指差した。
「じゃあ、まず市場の方から行きましょう。朝のうちなら、まだ歩きやすいですから」
男は目の前を行き交う人の群れを見た。
「これでまだ、か」
「昼になったらもっと増えますよ」
「……そうか」
声に少し後悔が滲んだ。
クリスティーンは笑う。
「大丈夫です。はぐれないようについてきてください」
「私が?」
思わず聞き返した。自分が迷子になることを心配されたのは、いつ以来のことだろう。そもそも、そんなことを言われた記憶自体がほとんどない。
「はい」
クリスティーンはいたって真面目だった。
「この村の道なら、私の方が詳しいですから」
男はしばらく何も言わなかった。
間違ってはいない。少なくとも、今のデイン村については。
「……分かった」
「じゃあ行きましょう」
クリスティーンが人混みの中へ歩き出し、男も少し遅れてその後を追う。
こうして赤髪の旅人は、来るつもりなどほとんどなかった春祭りの人混みへ、自分の足で入っていくことになった。




