第6話「春祭りの支度」
翌朝のデイン村は、いつもより早い時間から賑わっていた。
広場では何人もの男たちが長い木材を運び込み、祭りの日に使う仮設の屋台を組み立てている。村道のあちこちには色鮮やかな布が渡され、家々の軒先にも、春の花を束ねた飾りが次々と吊るされていった。
英雄神殿へ続く坂道でも、若い神官や村人たちが朝から忙しなく行き来している。
二日後に迫った、春祭りの準備だった。
年に一度の大きな祭りとあって、普段は静かなデイン村もこの時期だけは様子が変わる。近隣の村や町から商人が入り始め、昨日までは空いていた広場の一角にも、見慣れない荷馬車が何台か停まっていた。
赤髪の旅人は宿を出てしばらく歩いたところで、通りの様子が昨日までとまるで違っていることに気づいた。
何もなかった場所にはいつの間にか木枠が組まれ、若者が脚立の上から建物と建物の間へ長い布を渡している。その下では老婆たちが籠いっぱいの花を仕分け、子どもたちが使えそうな花と傷んだものとを一つずつ選んでいた。
朝から実に賑やかだった。
旅人は道の端に立ち、しばらくその様子を眺めていた。
昨日までは村人が行き交うだけだった広場を、今日は大きな樽を抱えた男たちが横切り、その脇を荷車が通り抜け、さらに後ろから花籠を持った子どもたちが駆けていく。
一度通りの中央に出た旅人も、さすがに邪魔になると思ったのか、すぐに端へ寄った。
「……祭りでもあるのか」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
その頃、クリスティーンは自宅の作業場で最後の布を畳み終えたところだった。
「これで今日の分は終わり?」
「ひとまずね」
母親は織機から立ち上がると、凝った腰を軽く叩いた。
「午後になったら、祭り用の帯をもう一度確認するけど」
「じゃあ、それまで休憩していい?」
「いいよ」
「やった」
クリスティーンは椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。
ここ数日は祭礼用の注文が重なり、朝から織機に向かいっぱなしだった。仕事そのものは嫌いではないが、さすがに長い時間座り続けていると肩も凝る。
外へ出ると、家の前の通りでもすでに飾り付けが始まっていた。
「あ、今年はもうあそこまでやったんだ」
向かいの屋根から広場の方へ、淡い黄色の布が長く渡されている。
毎年見ているはずの景色なのに、祭りの準備が始まると、子どもの頃から決まって少しだけ気持ちが浮ついた。
今年も、いつもの菓子屋は来るだろうか。
去年売っていた蜂蜜入りの焼き菓子は、かなり美味しかった。
そんなことを考えながら広場へ目を向けたところで、見覚えのある赤い髪が目に入った。
「あ」
昨日、自分が転びかけたところを助けてくれた旅人だった。広場の端に立ち、組み上げられていく屋台や、通りへ飾りを取り付ける村人たちを眺めている。
相変わらず目立っていた。
大勢の中にいても頭ひとつ抜けているため、わざわざ探す必要さえない。
クリスティーンは少し迷ってから、その方へ歩いていった。
「こんにちは」
声をかけると、男が振り向いた。
「ああ。昨日の娘か」
「昨日はありがとうございました」
「その礼なら昨日聞いた」
「そうなんですけど」
クリスティーンは笑った。
「ちゃんと名前も聞いてなかったなって思って」
男がわずかに眉を上げる。
「名前?」
「はい。私はクリスティーンです。クリスティーン・ルフェア」
自分の胸元を軽く指しながら名乗った。
「この村で、家族と織物屋をやってます」
「そうか」
男は一度頷き、それきり黙る。クリスティーンも、しばらく待った。
「……それで?」
「何がだ」
「あなたのお名前です」
「名乗るほどの者ではない」
あまりにもあっさり言われたので、クリスティーンは目を瞬いた。
「そんなことあります?」
「旅の途中で数日立ち寄っているだけだ。名を覚えても仕方あるまい」
「でも昨日、助けてもらったし」
「転びそうになった人間を支えただけだ」
「荷車も片手で起こす人が言うと、ちょっと説得力ないですけど」
男の目がわずかに細くなる。
「あの話はまだしているのか」
「村中でしてますよ」
「暇なのだな」
「それ、私も昨日言いました」
クリスティーンが笑うと、男もほんの少しだけ口元を緩めた。
こうして話している分には、やはり怖い人物には思えない。むしろ昨日より、少し話しやすくなったような気さえした。
もう一度名前を聞こうかどうしようかと迷っているうちに、今度は男の方が広場へ視線を戻した。
「それより、これは何の騒ぎだ」
「騒ぎって……」
クリスティーンもつられて周囲を見る。
屋台を組む男たちに、花飾りを運ぶ子どもたち。通りのあちこちでは絶えず声が飛び交っている。
「ああ。春祭りの準備ですよ」
「春祭り?」
「二日後なんです。毎年この時期にやるんですよ」
男は広場の飾りを眺めながら尋ねた。
「春を祝う祭りか」
「そうです。冬が終わって、今年も無事に春が来たことを祝うんですけど……デイン村では、英雄神殿とも関係があるんです」
その言葉を聞くと、男はゆっくりクリスティーンへ視線を戻した。
「神殿と?」
「はい」
クリスティーンは丘の方の神殿を指差した。
「神殿にシスティーン・メイルフィっていう人が祀られてるでしょう?」
男は答えなかった。
もちろん知らないわけではないだろう、とクリスティーンは勝手に思い、そのまま話を続けた。
「昔から、この辺では春の象徴みたいに言われてる人なんです。戦いが終わったあともこの村で人を助けながら暮らしていたとか、春になると村の人たちと一緒に花を飾ったとか。いろんな話が残ってて」
男の目がわずかに細くなった。
「春の象徴、か」
「はい。その存在が春の日差しみたいだったから、とか。誰にでも優しかったから、とか。理由はいくつもあるみたいです」
「なるほどな」
それ以上、男は何も言わなかった。
クリスティーンは気づいていなかったが、返事をするまでにほんの少しだけ間があった。
男の視線も、いつの間にか広場を離れ、丘の上の神殿へ向いている。
「祭りの日には、神殿から広場まで花を飾るんです。昼は屋台が出て、夜になったら音楽と踊りもありますよ」
「随分と賑やかなものだな」
「年に一回ですから」
クリスティーンは楽しそうに語る。
「この辺じゃ一番大きなお祭りなんです。遠くから来る人も結構いますよ」
「そうらしいな」
「宿、もう混んでません?」
「昨日より人が増えたとは言っていた」
「明日はもっと増えますよ」
「それは困ったな」
男が真顔で言うので、クリスティーンはまた笑った。
「人混み、苦手なんですか?」
「得意ではない」
「何となくそんな感じします」
「そう見えるか」
「はい」
即答され、男は少しだけ困ったような顔をした。
その時、大きな花籠を抱えた村の青年が二人の前を走り抜けていった。
「クリスティーン!あとでこっちの方も手伝ってくれよ!」
「はーい!」
返事をしてから、クリスティーンは再び男へ向き直った。
「もしまだ村にいるなら、よかったらお祭りにも来てください」
「私が?」
思わず聞き返した男に、クリスティーンは当然のように頷く。
「はい」
「……何故だ」
「何故って、丁度いるからです」
あまりにも単純な答えだった。男は何も言わず、しばらく彼女を見た。
「嫌なら無理にとは言いませんけど」
「いや」
男はもう一度、広場へ目を向けた。
花を運ぶ子どもたちに、屋台を組みながら言い合っている男たち。女たちは店先に飾りを並べ、遠くには、彼がいまだ一度も近づこうとしない英雄神殿が見えている。
「……二日後だったな」
「そうです」
「その翌日には、村を出るつもりだ」
「あ、もう行っちゃうんですね」
クリスティーンは少し残念そうな顔をしたが、すぐにいつもの表情へ戻った。
「じゃあ、ちょうど最後の日ですね」
「そうなるな」
男はしばらく考えた。元々、祭りを見るためにこの村へ来たわけではないし、大勢の中で騒ぐことにも大して興味はない。それでも、わざわざ断るほどの理由があるかと考えてみれば、特になかった。
「……いいだろう」
クリスティーンの表情がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「ただし、見ているだけかもしれんぞ」
「それでもいいですよ!じゃあ二日後。ぜひ来てくださいね」
「ああ」
満足そうに頷いたところで、家の方から母親の声が飛んできた。
「クリスティーン!休憩長くない?」
「あっ」
振り返る。
「今行くー!」
そう返してから、クリスティーンは男へ軽く頭を下げた。
「じゃあ、また」
数歩走ったところで、ふと思い出したように振り返る。
「今度こそ、お名前教えてくださいね!」
男は返事をしなかった。ただ、少し呆れたような顔で、走っていく彼女を見送っていた。やがて家々の間へ消えていくと、男は再び広場へ目を向けた。
祭りの準備は相変わらず続いている
「春の象徴……か」
誰にも聞こえないほどの声で呟き、男はわずかに笑った。
何を思い出したのか、それを知る者はいない。
ただ、二日後。旅立つ前日の予定が、一つ増えた。




