第5話「噂の旅人」
ここ数日、デイン村では妙な旅人の話を聞かない日の方が少なくなっていた。
最初に耳にしたのは、宿に泊まっている赤髪の大男が、せっかくこの村まで来ておきながら英雄神殿にまるで興味を示さないという話だった。
それくらいなら、変わった人もいるものだと思った。
ところが翌日になると、道端で横転した荷車を片手で起こしたという話が加わった。しかも、その前に大柄な男が四人がかりで持ち上げようとして、ほとんど動かなかったという。
その日の夕方には、今度は薬草屋の婆さんが市場で誰彼構わず捕まえて、「あの男、私より薬草に詳しいんだよ!」と興奮気味に喋っていた。
さらに次の朝には、村外れの古い納屋を見ただけで柱の傷み方を言い当てただの、壊れかけた井戸の巻き上げ機を少し触っただけで原因を見つけただのと、話す人間が増えるにつれて噂の方も少しずつ大きくなっていった。
「絶対、半分くらい話盛ってるよね」
クリスティーンはそう言っていた。
もちろん、まったく気にならないわけではない。
これだけ小さな村で、毎日のように名前も知らない旅人の話を聞かされていれば、嫌でも興味は湧いてくる。
とはいえ、春の祭礼を控えたルフェア家は忙しい。神殿へ納める布だけでなく、村の商人からも注文が重なっており、噂の旅人を見るためだけに仕事を抜け出せるほど暇でもなかった。
「赤い髪で、ものすごく大きい人なんでしょ?」
その日の朝、食卓で父親に聞いてみると、「らしいな」と、いかにも興味のなさそうな返事が返ってきた。
「父さんも見てないの?」
「俺も仕事してるんだよ」
「じゃあ、みんな暇なんだね」
「お前、それ市場で言うなよ」
そんな会話をしたのが、ほんの数時間前のことだった。
昼前になると、クリスティーンは両腕いっぱいに布の束を抱え、市場へ向かっていた。
今日中に渡す約束をしていたのだが、最後の一枚に思った以上に時間がかかってしまった。普段なら通りで知り合いに声をかけられれば足を止めるところだが、今日はそういうわけにもいかない。
「まずい、まずい……!」
ずり落ちそうになる布を胸元へ抱え込みながら、石畳の道を早足で進む。市場のある広場までは、もう少しだった。
ちょうどその頃、赤髪の旅人も、クリスティーンの後方から同じ通りへ入ってきていた。
こちらは急いでいる様子もなく、片手に小さな紙袋を提げてのんびり歩いている。袋の中身は、宿の主人に頼まれて買ってきた香辛料だった。
昨日までと変わらず、すれ違う村人の何人かが男へ視線を向ける。
すでに顔を知っている者も増えていた。荷車の一件を直接見ていた男などは、彼が通りかかると露骨に手を止めている。
本人はそれに気づいているのかいないのか、相変わらず何でもない顔で歩いていた。
その少し先を、クリスティーンが横切った。
「あっ、デニスさん!」
市場の入口に知り合いの姿を見つけ、軽く片手を上げる。
その時、足元に落ちていた小さな木片を踏んだ。
「あっ―」
右足が滑った。両腕には布を抱えているため、咄嗟に手をつくこともできない。そのまま身体が前へ傾き、周囲にいた何人かが思わず「あっ」と声を上げた。
その場に居合わせた一人は、後になって何度も同じことを口にすることになる。
赤髪の男は、確かにかなり離れた場所にいた、と。
少なくとも、普通に駆け寄ったところで到底間に合うような距離ではなかった。
ところが、クリスティーンの身体は石畳へ落ちなかった。
バサッとした背中からの突風と共に、背後から回された腕が腰のあたりをしっかりと支えていた。
「……え?」
何が起きたのか分からず、クリスティーンは目を瞬いた。
抱えていた布も落ちていない。ただ足だけが石畳の上で妙な格好になっている。
「大丈夫か?」
すぐ後ろから、低い声がした。
我に返ったクリスティーンが慌てて姿勢を戻すと、支えていた腕も、彼女がきちんと立ったことを確かめてすぐに離れた。
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
振り返る。
最初に目に入ったのは、男の胸元だった。
「……」
思っていたより、ずっと大きい。
少し顔を上げてみたが、それでもまだ目が合わない。
もう少し上を向いて、ようやく男の顔が見えた。
赤い髪に、長旅をしてきたことが一目で分かる使い込まれた外套。顔立ちは整っているものの、黙って立っていれば少々近寄りがたい印象がある。
ただ、こちらを見下ろす赤い瞳には、意外なほど穏やかな色があった。
初めて会った相手なのに、なぜかすぐに目を逸らす気になれなかった。
怖いからではない。むしろ、ずっと遠い場所から来た人を見ているような、妙な感じがした。
何をそう思わせるのかは、自分でも分からなかった。
クリスティーンが黙ったまま見上げていると、男がわずかに眉を上げた。
「どこか痛めたか?」
「え?あ、いえ!本当に大丈夫です」
慌てて首を振る。
「すみません。ちょっとびっくりして」
「そうか」
男はそれ以上気にする様子もなく、足元へ視線を落とした。クリスティーンが踏んだ木片を拾い上げ、道の端へ放る。
「急いでいたようだが、足元くらいは見た方がいい」
「……はい」
至極もっともなことを言われてしまい、クリスティーンは少し恥ずかしくなって、抱えている布へ目を落とした。
「これ、今日中に届けないといけなくて……」
「なるほど」
男も布へ目を向ける。
「織物か」
「はい。うちで作ってるんです」
その時だけ、ほんの少し男の目が布の上に留まった。けれど、何か尋ねるわけでもなく、「なら急いだ方がいいな」と言っただけだった。
そこでクリスティーンは、ようやく気づいた。
赤い髪、大柄な身体、腰の剣に、旅装。
「……あの」
「何だ?」
「もしかして、最近この村に来た旅の方ですか?」
男は少し考えるような顔をした。
「最近と言われても、他にも旅人はいるだろう」
「ええっと……荷車を片手で起こしたっていう」
わずかに男の表情が変わった。
「あれか」
どうやら本人にも心当たりはあるらしい。
クリスティーンは思わずその腕へ目をやった。外套の上から見てもかなり太いことは分かる。
それでも、大男四人が動かせなかった荷車を片手で持ち上げたという話は、やはり俄には信じがたい。
「本当に片手で持ち上げたんですか?」
「倒れていたから起こしただけだ」
「……片手で?」
「片手で」
あまりにも当たり前のことのように答えるので、クリスティーンの方が返す言葉に困った。
「あと、薬草屋のミーナさんより薬草に詳しいとか」
「ミーナ?」
「市場で薬草を売ってるお婆さんです」
「ああ、あの老婆か」
「建物のこともすごく詳しいって」
「少し知っているだけだ」
ここまで聞く限り、どうやら噂の大半は本当らしい。
クリスティーンは改めて男の顔を見た。噂だけを聞いていた時には、もっと恐ろしい人物を想像していた。
傭兵だとか、どこかの国の騎士だとか、とにかく気軽に話しかけられる相手ではないのだろうと思っていたのである。
実際、黙って立っているだけなら十分怖そうではある。けれど、こうして話してみると、どうにも印象が違った。
「……思ってたのと違う」
気づけば口に出していた。
「何がだ?」
「あ」
しまったと思った時には遅かった。
男は怒るでもなく、ただ不思議そうにこちらを見ている。クリスティーンは仕方なく苦笑した。
「最近、村であなたの噂がすごいんです。だから、もっとこう……」
「こう?」
「……怖い人なのかなって」
男はしばらく黙っていた。自分の格好を一度見下ろしてから、またクリスティーンへ視線を戻す。
「怖く見えるか」
「最初はちょっと」
「そうか」
それだけだった。あまりにも素直に納得されてしまい、クリスティーンは思わず笑った。
「怒らないんですね」
「何故怒る必要がある」
「それもそうですけど」
また少し笑う。
男も、それにつられたようにほんのわずか口元を緩めた。その時、市場の方から大きな声が飛んできた。
「クリスティーン!急いでたんじゃないのかい!」
「あっ!」
デニスの声だった。完全に忘れていた。
「すみません、私行かないと!」
布を抱え直して数歩進んだところで、クリスティーンはもう一度振り返った。
「さっきは本当にありがとうございました!」
「今度は足元に気をつけるがいい」
「気をつけます!」
今度こそ足元を確かめながら、クリスティーンは市場へ向かって走っていった。
赤髪の男は、その背中をしばらく見送っていた。走るたび、金色の髪が春の日差しを受けて揺れている。
その姿を追う男の目が、何かを思い出そうとするようにほんの少し細くなったが、何も口にはしなかった。
金色の髪だけではない。先ほど笑った時の顔にも、話し方にも、何か妙な引っ掛かりがあった。
だが、何なのかまでは分からない。
男はそれ以上考えず、手にしていた紙袋を持ち直し、再び宿へ向かって歩き始める。
少し離れた場所では、先ほどの一部始終を目撃していた、デニスを含む村人たちが、まだ同じところに立ち尽くしていた。
「……なあ」
一人がようやく口を開く。
「今、あの人どこから来た?」
「知らん」
「いや、俺ずっと見てたけど、さっきまであそこにいたぞ」
男が十数メートルほど先を指差した。
「だよな」
「走ったのか?」
「走った……んだと思う。でも、気づいた時にはクリスティーンの後ろにいた」
「じゃあ何したんだよ」
誰にも答えられなかった。
ただ、彼が元いた場所ではまだ、土煙が舞っていた。
クリスティーンは、そんな距離から助けられたことすら気付いていない様子だった。
当の本人は、そんなことが話題になっているとも知らず、すでにゆっくりと宿へ戻っていくところだった。
一方、ようやく市場へ辿り着いたクリスティーンは、店先に布を置くなり大きく息を吐いた。
「間に合った……」
「ぎりぎりね」
「ごめんなさい」
店主が包みを確かめている横で、クリスティーンは何となく今来た道を振り返った。
赤髪の男の姿は、もう見えない。
「……あの人だったんだ」
噂に聞いていた、とんでもない旅人。
しかし実際に話してみれば、思っていたよりずっと普通の人だった。
少なくとも、その時のクリスティーンにはそう見えていた。
そして、名前を聞き忘れたことに気づいたのは、それからしばらく経ってからだった。




