第4話「ただの旅人」
翌朝、赤髪の旅人は日が高くなる前に宿を出た。
特に急ぐ用事があるわけでもないらしく、村の通りを気の向くままに歩いている。
朝食の席でも、宿の主人から「せっかく来たんだから神殿くらい見ておいた方がいい」とまた勧められたのだが、本人は「気が向いたらな」と答えただけだった。
どうやら、本当にあまりその気がないらしい。
昨日から何かと村人の視線を集めていることにも、どうやら本人はまだ気づいていない。広場を抜け、南側の畑へ続く道へ差しかかった時だった。
前方から大きな物音がした。木材が激しく軋んだかと思うと、続いて重いものが石畳へ倒れ込む音が響く。
「うわっ!」
声のした方を見ると、一台の大きな荷車が道端で横転していた。
どうやら前輪が石畳の窪みに乗り上げ、そのまま均衡を崩したらしい。
荷台には穀物を詰めた麻袋や木箱が山ほど積まれていたが、幸い下敷きになった者はいなかった。ただ、御者の方は驚いて暴れる馬を落ち着かせるので手いっぱいだった。
すぐに近くにいた男たちが駆け寄ってくる。
「馬を外せ!」
「その前に荷台を起こせるか?」
体格のいい男が四人、横倒しになった荷車の側面に手を掛けた。
「せーの!」
掛け声に合わせて一斉に力を込める。
しかし荷車は鈍く軋んだだけで、ほとんど動かなかった。
「重てぇな……!」
「先に荷物を下ろした方が早い!」
そんな声が飛び交う中を、赤髪の旅人がちょうど通りかかった。大柄な姿に一瞬だけ目を向けたものの、今は人を選んでいる場合ではない。
「すまん、あんたも手ぇ貸してくれないか」
「これか?」
「ああ。五人なら少しは……!」
男が言い終える前に、旅人は荷台の縁へ片手を掛けた。そして、そのまま何気なく腕を持ち上げる。
ゴトン、と重い音がした。
横倒しになっていた荷車が、そのまま起き上がった。
「…………」
四人の男が黙った。御者も黙った。
赤髪の男だけが何事もなかったようにしゃがみ込み、荷車の下を覗き込んでいる。
「車軸は無事だな。前輪も割れていない」
「……ああ」
「なら問題ない」
それだけ確認すると、男は荷車から手を離した。
「あ、あんた……」
御者が何か言おうとした頃には、もう旅人は歩き始めている。
残された四人は、元通りになった荷車と、遠ざかっていく大きな背中をしばらく交互に眺めていた。
「今、片手だったよな」
「……だったな」
誰もそれ以上は言わなかった。
少なくとも本人にとっては、人助けと呼ぶほど大したことではなかったらしい。そのまま何事もなかった顔で、村の南へ向かって歩いていく。
しばらく進むと、通りの端に小さな露店が見えてきた。
並べられた籠の中には、乾燥させた草や木の実、小瓶に詰めた粉末などが所狭しと並んでいる。店番をしているのは、腰の曲がった老婆だった。
旅人はその前を通り過ぎようとして、ふと足を止めた。
籠の一つに目を留める。
「これは、どこで採った」
老婆が顔を上げた。
「ん?」
男が指差していたのは、細長い灰緑色の葉だった。
「ああ、それかい。北の森だよ。最近じゃあんまり生えなくなってねえ」
「北の森?」
旅人は一本取り上げると、指先で葉を軽く擦り、その匂いを確かめた。
「……なるほど」
「薬草に詳しいのかい?」
「多少はな」
老婆は笑った。
「そいつは熱冷ましだよ。煎じて飲ませるとよく効く」
ところが、男は葉から目を離さないまま首を振った。
「そのままでは駄目だ」
「え?」
葉を裏返し、細い葉脈を指先で示す。
「これはまだ若い。ここに白い筋が残っているだろう。この時期のものには、根から上がった毒がわずかに残っている」
老婆の顔から笑みが消えた。
「毒?」
「死ぬようなものではない。ただ、熱を出している者に飲ませれば胃を傷める」
男は籠の中から何本か取り出し、一枚ずつ確かめていった。
「三日ほど水に晒してから陰干しにすれば使える。急ぐなら茎を捨てて、葉だけを一度湯に通せ。それから乾かせばいい」
老婆はしばらくぽかんとしていた。
「……そんな話、聞いたことないよ」
「今はそうなのか」
あまりにも何気なく返された言葉に、老婆が眉を寄せる。
「今は?」
「いや」
旅人は葉を籠へ戻した。
「昔はそうしていた」
「昔って、あんた幾つだい」
「さてな」
老婆は冗談だと思ったらしく、声を立てて笑った。
「見たところ、私よりは若いじゃないか」
男も、それにつられるようにわずかに笑っただけだった。
そこへ店の奥から若い女が出てきた。
「おばあちゃん、これどうするの?」
手にしているのは、小さな青い花の束だった。
老婆が振り返る。
「ああ、それは捨てようと思ってたんだよ。去年から薬に使えなくなっちまってね。乾かすと全部黒くなるんだ」
赤髪の男が花を見る。
「見せてくれ」
若い女は少し戸惑ったものの、そのまま束を差し出した。
旅人は茎を指で押し、次に花弁の根元を確かめる。
「育てた場所を変えただろう」
老婆が目を丸くした。
「……去年から畑の東側へ移したけど」
「土が合っていない。これは石灰の多い土地では育たん」
「そんなことまで分かるのかい?」
「茎が硬すぎる」
男は一本だけ茎を折った。
断面は、本来なら白いはずのところがわずかに黄色く変色している。
「昔は川沿いで育てていたはずだ」
「いやいや、昔って……」
老婆はそこで言葉を止めた。何か思い当たったらしい。
「そういえば、爺さんの頃は川の近くに畑があったって聞いたことがあるね」
「なら戻せばいい。水はけが良すぎる場所より、少し湿った土の方が育つ」
「肥料は?」
「要らん。むしろやるな」
「どれくらい間隔を空ければいい?」
「一尺半ほどだな。密集させると根が腐る」
聞けば聞くほど答えが返ってくるものだから、老婆の方もいつの間にか完全に商売人の顔になっていた。
しばらく質問を続けたあと、とうとう真顔で男を見る。
「……あんた、本当に何者なんだい」
男の方は、むしろ質問の意味が分からないという顔をした。
「旅人だ」
「旅人はそんなこと知らないよ」
昨日から何度目になるのか分からないやり取りだった。
男がそのまま立ち去ろうとすると、老婆が慌てて呼び止めた。
「ちょっと待ちな」
乾燥させた果実をいくつか袋へ放り込み、そのまま差し出してくる。
「持ってきな。金はいらないよ」
「別に何かを貰うつもりで言ったわけではない」
「知ってるよ。だからやるんだ」
男はしばらく袋を見ていたが、やがて受け取る。
「……では、ありがたく貰おう」
「それでいい」
老婆は満足そうに笑った。
男が立ち去ってから、店の奥にいた若い女がそっと尋ねる。
「知り合い?」
「今日初めて会ったよ」
「じゃあ誰?」
「知らないねえ」
老婆は腕を組み、遠ざかっていく赤い髪を眺めた。
「ただ、薬草を売って五十年になる私より詳しい旅人なんて、初めて見たよ」
昼を過ぎる頃には、その話はすでに村のあちこちへ広がり始めていた。
話す人間が変わるたびに細かいところは少しずつ違っていたが、結局のところ、誰もが同じ結論に辿り着いていた。
どうやら、昨日村へやって来たあの男は普通の旅人ではないらしい。
当の本人は、そんな噂が立っていることなど知る由もない。
ちょうどその頃、広場の食堂で昼食を取っていた。
出されたパンを手で千切り、煮込み料理に浸して口へ運ぶ。
しばらく黙って食べていたが、皿が半分ほど空いたところで店主を呼び止めた。
「これはなかなか旨いな」
「そりゃどうも」
店主は少し嬉しそうに笑った。
男は食事を終えると普通に代金を払い、礼を言って店を出ていった。




