↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/20

第3話「名も無き旅人」

デイン村へ続く街道を、一人の男が歩いていた。


朝からよく晴れていた空には、昼を過ぎた頃から薄い雲が増え始めている。街道沿いの草を揺らす風も、少しばかり冷たくなっていた。


男は急ぐでもなく、一定の歩調で道を進んでいる。

背の高い男だった。

遠目にも分かるほど肩幅が広く、旅装の上からでも鍛えられた体つきが見て取れる。

燃え盛るかのような色の赤い髪が、風が吹くたび無造作に揺れた。目は切れ長で、瞳も髪色と同じだった。


身につけた茶褐色の外套も新しいものではない。裾や肩には、長く使い込んできた跡が残っている。

腰には素朴な一本の剣。

目立った装飾はなく、王国の騎士が身につける紋章も、傭兵団の印もない。

ただの旅人と呼ぶには少々物々しい格好だったが、本人はそんなことを気にしている様子もなかった。


ふと、道の脇を流れる川へ目を向ける。岸辺は石組みで整えられ、その先には一軒の水車小屋が建っていた。


男はわずかに目を細めた。


「……こちらへ流すようになったのか」


小さく呟く。それだけ言って、また歩き出した。

しばらくすると、畑の向こうに村が見えてきた。

家々の屋根が並び、その背後には緑の丘が続いている。男の目は村そのものより先に、さらに奥へ向かった。


小高い丘の上に、白い石造りの巨大な建物が見える。

英雄神殿だった。

遠くから見ても、辺境の小さな村には不釣り合いなほど大きい。


男は一度だけ、そちらを眺めた。足は止めない、驚いた様子もない。

しばらく見たあと、何でもないものを見るように正面へ視線を戻した。


「随分と大きくしたものだ」


それだけだった。

やがて街道は森を抜け、村へ続く石畳へと変わった。

デイン村には城壁も門もない。

街道の両脇に、古びた石柱が一本ずつ立っている。その間を抜ければ、そこから先が村だった。


男が村へ入ると、近くの畑で働いていた農夫が顔を上げた。少し離れたところでは、薪を運んでいた少年も足を止める。


男は二人へ軽く目を向けただけで、そのまま村道を歩いていった。


「……旅人か?」


農夫が小声で言った。隣で鍬を振るっていた男も、遠ざかっていく背中を見る。


「だろうな」


「グレナム王都から来た騎士じゃないのか?」


「紋章がないだろ」


「じゃあ傭兵か?」


「知らんよ」


二人はそれ以上話さず、また畑仕事へ戻った。

それでもしばらくすると、片方がもう一度だけ街道の方を振り返った。


子どもたちは、もっと遠慮がない。三人で遊んでいたうちの一人が男の前を駆け抜け、そのまま少し離れたところで振り返った。


「でっか……」


隣の子が慌てて袖を引く。


「聞こえるって」


聞こえていた。

男がゆっくりそちらを見ると、三人の子どもが一斉に背筋を伸ばした。


「…………」


男は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ口元を緩め、何事もなかったように歩いていった。

子どもたちは、その背中が少し離れるまで黙っていた。


「……笑った?」


「たぶん」


「怖い人じゃないのかな」


どうやら本人が思っている以上に目立っているらしい。もっとも、本人にはその自覚がほとんどないようだった。


広場まで来たところで、男は足を止めた。

中央には大きな井戸があり、その周りを囲むように店が並んでいる。少し離れた場所には二軒の宿屋も見えた。


男が見ていたのは、井戸でも宿でもない、道だった。

広場から東へ伸びる道。南へ折れる細い路地。その先に架かる石橋。


ゆっくりと周囲を見渡す。

初めて来た土地で道を探しているようには見えなかった。むしろ、知っているものがどれだけ残っているのか、一つずつ確かめているようだった。


「何かお探しですか?」


声をかけてきたのは、荷台に野菜を並べていた中年の男だった。

赤髪の男がそちらを見る。


「ああ。宿を探している」


低い声だった。だが思いのほか穏やかだったため、商人は一瞬だけ拍子抜けした顔をした。


「宿なら、あそこに二軒ありますよ。手前の方が安くて、奥は飯がいい」


「なるほど」


「神殿を見に来たんですか?」


男は丘の上へ一度だけ目を向けた。


「いや」


「違うんですか」


「ああ。旅の途中だ」


それだけだった。

デイン村を訪れる旅人の多くは、丘の神殿を目当てにしている。

わざわざここまで来て、あれほど大きな神殿にほとんど興味を示さない者は珍しい。

中年の男は少し不思議そうな顔をしたが、すぐに肩をすくめた。


「まあ、そういう人もいるか」


「世話になった」


男は礼を言い、教えられた宿へ向かった。

扉を開けると、小さな鈴が鳴った。中には五つほどのテーブルが並んでいる。

昼時を過ぎた食堂では、二人の客が遅めの食事を取っていた。

帳場にいた宿の主人が顔を上げる。


「いらっしゃい」


そして、一瞬だけ目を止めた。大柄な旅人そのものは珍しくない。騎士も傭兵も、英雄神殿のあるデイン村には時折やって来る。

だが、目の前の男はどうにもどちらとも違って見えた。


剣を下げているのに、荒事を求めているようには見えない。旅慣れていることは分かるのに、疲れた様子もない。

何より妙に落ち着いている。初めて訪れた土地で、辺りを探るような目をしていなかった。

「部屋は空いているか」


「あ、はい。空いてますよ」


主人は慌てて帳面を閉じた。


「何泊で?」


「四~五日ほど世話になるつもりだ」


「でしたら二階の端の部屋が空いてます。窓から村がよく見えますよ」


「それで構わん」


男は腰の袋から硬貨を取り出し、宿代を先に払った。主人は受け取った金を確かめる。


「食事は?」


「頼めるなら、夕刻に」


「もちろん。今日は鹿肉の煮込みです」


「それはいい」


あまりにも普通の返事だったので、主人は少し安心した。

見た目から、もっと面倒な客かもしれないと思っていたらしい。


「荷物、運びましょうか?」


「いや。自分で持つ」


男は足元に置いていた革袋を片手で持ち上げた。見た目にもかなり重そうだったが、腕に力を込めた様子すらない。


「……二階、右手の一番奥です」


「ああ」


階段を上っていく背中を見送る。


二階の部屋へ入った男は、荷物を壁際へ置き、外套を脱ぎ、窓を開ける。

主人が言った通り、そこからは村がよく見えた。

広場を行き交う人々と荷馬車、畑、家々の屋根。そしてその向こうには、丘の上の英雄神殿がそびえている。


男は窓辺に立ったまま、しばらく外を眺めていた。

ただ静かに、今そこにある村を見ていた。

やがて丘の上から、神殿の鐘が鳴った。一度。少し間を置いて、もう一度。

男はそこでようやく窓を離れた。


「……数日か」


誰に聞かせるでもなく呟き、椅子へ腰を下ろす。その程度で十分だと思っていた。

旅の途中で、久しぶりに立ち寄った小さな村。

少し休み、見ておきたいものを見たら、また旅を続ける。

少なくとも、この時の彼はそう考えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。