第3話「名も無き旅人」
デイン村へ続く街道を、一人の男が歩いていた。
朝からよく晴れていた空には、昼を過ぎた頃から薄い雲が増え始めている。街道沿いの草を揺らす風も、少しばかり冷たくなっていた。
男は急ぐでもなく、一定の歩調で道を進んでいる。
背の高い男だった。
遠目にも分かるほど肩幅が広く、旅装の上からでも鍛えられた体つきが見て取れる。
燃え盛るかのような色の赤い髪が、風が吹くたび無造作に揺れた。目は切れ長で、瞳も髪色と同じだった。
身につけた茶褐色の外套も新しいものではない。裾や肩には、長く使い込んできた跡が残っている。
腰には素朴な一本の剣。
目立った装飾はなく、王国の騎士が身につける紋章も、傭兵団の印もない。
ただの旅人と呼ぶには少々物々しい格好だったが、本人はそんなことを気にしている様子もなかった。
ふと、道の脇を流れる川へ目を向ける。岸辺は石組みで整えられ、その先には一軒の水車小屋が建っていた。
男はわずかに目を細めた。
「……こちらへ流すようになったのか」
小さく呟く。それだけ言って、また歩き出した。
しばらくすると、畑の向こうに村が見えてきた。
家々の屋根が並び、その背後には緑の丘が続いている。男の目は村そのものより先に、さらに奥へ向かった。
小高い丘の上に、白い石造りの巨大な建物が見える。
英雄神殿だった。
遠くから見ても、辺境の小さな村には不釣り合いなほど大きい。
男は一度だけ、そちらを眺めた。足は止めない、驚いた様子もない。
しばらく見たあと、何でもないものを見るように正面へ視線を戻した。
「随分と大きくしたものだ」
それだけだった。
やがて街道は森を抜け、村へ続く石畳へと変わった。
デイン村には城壁も門もない。
街道の両脇に、古びた石柱が一本ずつ立っている。その間を抜ければ、そこから先が村だった。
男が村へ入ると、近くの畑で働いていた農夫が顔を上げた。少し離れたところでは、薪を運んでいた少年も足を止める。
男は二人へ軽く目を向けただけで、そのまま村道を歩いていった。
「……旅人か?」
農夫が小声で言った。隣で鍬を振るっていた男も、遠ざかっていく背中を見る。
「だろうな」
「グレナム王都から来た騎士じゃないのか?」
「紋章がないだろ」
「じゃあ傭兵か?」
「知らんよ」
二人はそれ以上話さず、また畑仕事へ戻った。
それでもしばらくすると、片方がもう一度だけ街道の方を振り返った。
子どもたちは、もっと遠慮がない。三人で遊んでいたうちの一人が男の前を駆け抜け、そのまま少し離れたところで振り返った。
「でっか……」
隣の子が慌てて袖を引く。
「聞こえるって」
聞こえていた。
男がゆっくりそちらを見ると、三人の子どもが一斉に背筋を伸ばした。
「…………」
男は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ口元を緩め、何事もなかったように歩いていった。
子どもたちは、その背中が少し離れるまで黙っていた。
「……笑った?」
「たぶん」
「怖い人じゃないのかな」
どうやら本人が思っている以上に目立っているらしい。もっとも、本人にはその自覚がほとんどないようだった。
広場まで来たところで、男は足を止めた。
中央には大きな井戸があり、その周りを囲むように店が並んでいる。少し離れた場所には二軒の宿屋も見えた。
男が見ていたのは、井戸でも宿でもない、道だった。
広場から東へ伸びる道。南へ折れる細い路地。その先に架かる石橋。
ゆっくりと周囲を見渡す。
初めて来た土地で道を探しているようには見えなかった。むしろ、知っているものがどれだけ残っているのか、一つずつ確かめているようだった。
「何かお探しですか?」
声をかけてきたのは、荷台に野菜を並べていた中年の男だった。
赤髪の男がそちらを見る。
「ああ。宿を探している」
低い声だった。だが思いのほか穏やかだったため、商人は一瞬だけ拍子抜けした顔をした。
「宿なら、あそこに二軒ありますよ。手前の方が安くて、奥は飯がいい」
「なるほど」
「神殿を見に来たんですか?」
男は丘の上へ一度だけ目を向けた。
「いや」
「違うんですか」
「ああ。旅の途中だ」
それだけだった。
デイン村を訪れる旅人の多くは、丘の神殿を目当てにしている。
わざわざここまで来て、あれほど大きな神殿にほとんど興味を示さない者は珍しい。
中年の男は少し不思議そうな顔をしたが、すぐに肩をすくめた。
「まあ、そういう人もいるか」
「世話になった」
男は礼を言い、教えられた宿へ向かった。
扉を開けると、小さな鈴が鳴った。中には五つほどのテーブルが並んでいる。
昼時を過ぎた食堂では、二人の客が遅めの食事を取っていた。
帳場にいた宿の主人が顔を上げる。
「いらっしゃい」
そして、一瞬だけ目を止めた。大柄な旅人そのものは珍しくない。騎士も傭兵も、英雄神殿のあるデイン村には時折やって来る。
だが、目の前の男はどうにもどちらとも違って見えた。
剣を下げているのに、荒事を求めているようには見えない。旅慣れていることは分かるのに、疲れた様子もない。
何より妙に落ち着いている。初めて訪れた土地で、辺りを探るような目をしていなかった。
「部屋は空いているか」
「あ、はい。空いてますよ」
主人は慌てて帳面を閉じた。
「何泊で?」
「四~五日ほど世話になるつもりだ」
「でしたら二階の端の部屋が空いてます。窓から村がよく見えますよ」
「それで構わん」
男は腰の袋から硬貨を取り出し、宿代を先に払った。主人は受け取った金を確かめる。
「食事は?」
「頼めるなら、夕刻に」
「もちろん。今日は鹿肉の煮込みです」
「それはいい」
あまりにも普通の返事だったので、主人は少し安心した。
見た目から、もっと面倒な客かもしれないと思っていたらしい。
「荷物、運びましょうか?」
「いや。自分で持つ」
男は足元に置いていた革袋を片手で持ち上げた。見た目にもかなり重そうだったが、腕に力を込めた様子すらない。
「……二階、右手の一番奥です」
「ああ」
階段を上っていく背中を見送る。
二階の部屋へ入った男は、荷物を壁際へ置き、外套を脱ぎ、窓を開ける。
主人が言った通り、そこからは村がよく見えた。
広場を行き交う人々と荷馬車、畑、家々の屋根。そしてその向こうには、丘の上の英雄神殿がそびえている。
男は窓辺に立ったまま、しばらく外を眺めていた。
ただ静かに、今そこにある村を見ていた。
やがて丘の上から、神殿の鐘が鳴った。一度。少し間を置いて、もう一度。
男はそこでようやく窓を離れた。
「……数日か」
誰に聞かせるでもなく呟き、椅子へ腰を下ろす。その程度で十分だと思っていた。
旅の途中で、久しぶりに立ち寄った小さな村。
少し休み、見ておきたいものを見たら、また旅を続ける。
少なくとも、この時の彼はそう考えていた。




