第2話「英雄の村」
昼を少し過ぎた頃、デイン村の通りは朝よりも人が増えていた。
クリスティーンは出来上がった布の包みを両腕で抱え、その上にミーナから預かった小麦の袋まで載せて歩いている。
家を出た時には大した重さではないと思っていた。
だが、石畳を半分ほど進んだあたりから、じわじわと腕に効いてきた。
「……先に粉屋へ行けばよかったかな」
誰に聞かせるでもなく呟いて、荷物を抱え直す。
春から夏にかけてのデイン村では、村人ではない顔が少しずつ増えていく。
今日も広場には二台の馬車が停まっていた。片方は商人のものらしく、幌の脇に鍋や革袋がいくつも吊り下げられている。
もう一台のそばでは、旅装の夫婦が丘の上を指差しながら何やら話していた。
二人が見ているのは、もちろん英雄神殿だった。
その前を通り過ぎようとしたところで、女性の方がクリスティーンに気づいた。
「あの、すみません」
「はい?」
「神殿へ行く道は、こちらで合っていますか?」
女性が指差したのは、村の北へ伸びる道だった。
「合ってますよ。この先の石橋を渡ったら右です。坂になってるので、そのままずっと上っていけば正面に出ます」
「よかった。ありがとう」
「いえいえ」
クリスティーンが笑うと、隣にいた男性も軽く頭を下げた。
「こちらの方ですか?」
「はい。生まれた時からずっとデインです」
「それは羨ましいなあ」
思いがけない言葉に、クリスティーンは目を瞬いた。
「羨ましい、ですか?」
「だって、あの三英雄が暮らした土地でしょう? 私たちは東の方から来たんですよ。一度は見ておきたいと思っていて」
「ああ……なるほど」
そういうことか、と納得した。他所から来た人と話していると、時々こういうことがある。
クリスティーンにとって丘の神殿は、鐘の音で昼時を知るための建物でもあった。
子どもの頃には、その裏手で友達と追いかけっこをして遊んだこともある。
そこに祀られている三人が、遠く離れた土地では本に載るほど有名な英雄なのだということは知っている。
けれど、どうにも実感が湧かない。
「祭壇の像は本当に大きいのかしら」
女性が夫に尋ねた。
「本で見た限りじゃ、人の三倍以上はあるらしいぞ」
「そんなに?」
二人は楽しそうに話しながら、丘へ続く道を歩いていった。その背中を見送ってから、クリスティーンは小さく笑う。
「……毎日見てると、大きいかどうかも分かんなくなるなあ」
そのまま粉屋へ向かい、ミーナから預かった袋を渡した。
粉屋の主人から、「また婆さんに使われてるのか」と笑われたので、「今日はちゃんと通り道です」と念を押しておいた。
それから少し道を戻り、今度は布を届けるため神殿へ向かう。
マルクというのは、神殿で祭具や備品を管理している男だ。
ルフェア家とは昔から付き合いがあり、春の祭礼が近づくと、祭壇の前に掛ける布や神官が身につける帯の注文が入る。
なぜ自分の家が代々その仕事をしているのか、クリスティーンは知らない。
以前、父親に聞いたことがあった。
「爺さんの頃にはもうやってた」
返ってきたのは、それだけだった。
その祖父も、「俺の親父の頃にはやってた」と言っていたらしい。
結局、誰も始まりを知らない。
それでも今年も、ルフェア家では神殿のための布を織っている。
坂道を上り切る頃には、さすがに息が少し弾んでいた。
「こんにちはー」
挨拶と共に、大きな扉をくぐる。途端に、外の明るさが遠ざかった。
神殿の中はひんやりとしている。
高い天井を支える石柱の間から、ステンドガラスを通った赤や青の光が差し込み、磨かれた床の上にまだらな模様を落としていた。
正面の祭壇へ続く中央通路では、十人ほどの巡礼者が神官の説明を聞いている。
そのさらに奥に、三体の像が並んでいた。
中央に立つ長身の男。
向かって右には、長い髪の女。
左には、剣を腰に下げた若い男。
幼い頃から何度見たか分からない。
クリスティーンは三体の像にほとんど目も向けず、壁際の通路を歩いていった。
「中央におられるのが、ブリシンガー・ヴァルディアです」
神官の声が広い神殿に響く。
「古い伝承によれば、神々より使命を授かり、長きにわたって世界の均衡を守り続けた戦士であったとされています」
巡礼者たちが一斉に像を見上げた。
「そして、こちらが黄金の聖女システィーン・メイルフィ。数多くの人々を救い、戦いの後もこの土地で傷ついた者や貧しい者のために尽くしたと伝えられています」
その横を、黄金の髪を揺らしながらクリスティーンが通り過ぎていく。
祭具室へ向かおうとした、その時だった。
「ねえ」
小さな声がした。
クリスティーンは足を止める。先ほどまで説明を聞いていた一団の中から、五、六歳くらいの女の子がこちらを見ていた。
「どうしたの?」
しゃがんで目線を合わせる。
女の子はクリスティーンの顔をじっと見つめ、それから祭壇を指差した。
「お姉ちゃん、あの人に似てる」
「え?」
指の先にいるのは、システィーンの像だった。
クリスティーンは像を見上げ、それから自分の髪をひと房つまむ。
「ああ、髪?」
「顔も」
「そうかなあ」
「似てるよ」
女の子は妙に自信満々だった。
そばにいた母親が慌てて近づいてくる。
「こら、知らない人にそんなこと言わないの」
「大丈夫ですよ」
クリスティーンは笑いながら立ち上がった。
「この村だと金髪の人、そんなに珍しくないですから」
実際には、そこまで多いわけでもないけれど、わざわざ気にするほどのこととも思わなかった。
母親に手を引かれていく女の子は、それでも何度も振り返り、クリスティーンと像を見比べている。
「似てるのに……」
小さな声が聞こえた。
クリスティーンは少しだけ首を傾げる。
「そんなに似てるかな」
自分ではよく分からない。像のシスティーンは、いつ見ても穏やかに微笑んでいる。
子どもの頃など、ずっと同じ顔で疲れないのかな と本気で思っていたくらいだった。
「クリスティーン!」
奥から太い声が飛んできた。
「あ、マルクさん」
祭具室から現れたのは、白髪交じりの髭を生やした五十代ほどの男だった。
「おお、持ってきてくれたか」
「はい。母さんが、端のところだけ少し織り方を変えたって」
「どれどれ」
机の上へ布を広げる。深い青を基調に、細い金糸が一定の間隔で織り込まれていた。
マルクは端を指で撫で、何度か頷く。
「いい出来だ。祭礼までには間に合いそうだな」
「次の分もすぐ始めるって言ってました」
「助かるよ。この時期は何でも一気に忙しくなる」
外から、鐘を吊るす金具か何かを運ぶ音が聞こえてきた。祭礼まではまだ少しあるが、神殿ではすでに準備が始まっている。
クリスティーンが布を畳み直していると、中央広間から再び神官の声が聞こえてきた。
「ブリシンガー・ヴァルディアは、生涯にわたって私欲を持たず、ただ世界を守るためのみ剣を振るったと―」
マルクがぼそりと言った。
「今年もあの説明か」
「違う話もあるんですか?」
「古い記録なんて山ほどあるからな。書いた人間によって結構違う」
「へえ」
「別の本じゃ、ものすごく無口だったことになってるし、別の本じゃ妙にそそっかしい男だったと書かれてる」
クリスティーンは思わず笑った。
「どっちなんですか、それ」
「知らん」
マルクも笑う。
「二千年近くも昔の人間が、朝飯の時にどれくらい喋ってたかなんて分かるか」
「そりゃそうですよね」
「はっきりしてるのは、ここに住んでいたことと、世界中を旅して戦ったことくらいだ。細かいことは学者に任せとけばいい」
実にマルクらしい答えだった。
「でも、神殿の人がそれ言っていいんですか?」
「俺は神官じゃない。布と蝋燭と屋根の雨漏りを管理してるだけだ」
「便利な立場ですね」
「そうとも」
作業を終えると、クリスティーンは神殿を出た。外へ出た瞬間、午後の日差しが目に眩しかった。
丘の上からは、村全体がよく見える。
小さな家々と畑、川に架かる石橋、森へ続く道、そしてその向こうには、王都へ通じる街道が細く伸びている。
神殿を見るために訪れる者もいれば、ここから別の町へ向かう者もいる。
村人にとっては、毎日見慣れた光景だった。
神殿を訪れる者や商売をしに来る者。ただ一晩、宿を借りるだけの旅人。
デイン村では、誰かがやって来ることなど珍しくもなかった。
だからきっと、次に街道から現れる一人の旅人についても、最初は誰も気に留めない。




