第1話「デイン村」
かつて、この地方には今とは違う名の国があったという。
昔、王都がどこにあり、どんな旗を掲げていたのか。それを正確に知る者も、今では歴史を専門にする学者くらいしかいない。
古い街道は何度も引き直され、川には石橋が架かり、土地を治める者も幾度となく変わった。
けれど、人が暮らす土地そのものが消えてしまうわけではない。
グレナム王国の西方。
なだらかな丘と森に囲まれたところに、デイン村という小さな村がある。
王都から見れば、ずいぶん辺鄙な場所だった。
大きな市場もなければ、立派な城壁もない。
春になれば畑を耕し、夏には子どもたちが川で遊ぶ。秋になれば収穫物を積んだ荷車が村道を行き交い、冬には雪の積もった家々の煙突から、朝早く白い煙が立ちのぼる。
どこにでもありそうな、静かな村だった。
ただし、デイン村には一つだけ、その規模にはどうにも似つかわしくないものがあった。
村の北側、小高い丘の上には巨大な英雄神殿がある。
英雄を祀る神殿そのものは、グレナム王国に限らず珍しいものではない。遠い国にも、山を越えた先にも、古い伝承と結びついた土地には何かしらの神殿や祠が残っている。
たとえばドワーフたちの暮らす山間の町には、かつて世界を救った英雄と旅をし、その剣を鍛えたと伝えられる名高い鍛冶師、ドゥガル・グリムフォルドを祀った神殿がある。
別の土地では、魔族でありながら人々の為に必死に戦ったカリス・ヴァレインが、灼熱の土地の守護者として祀られていたりする。
長い年月の中で、英雄たちは歴史上の人物というより、その土地の昔話や信仰の一部になっていた。
その中でも、デイン村の神殿は少し事情が違う。人口もさほど多くない辺境の村にしては、妙に立派なのだ。
白い石を積み上げた大きな主殿には高い尖塔があり、正面には太い石柱が何本も並んでいる。
村にある一番大きな建物どころか、大きな街の大神殿に見劣りしない。初めて訪れた者なら、丘の上にそれを見つけた時点で、この村がただの農村ではないと気づく。
ステンドガラスからの光が溢れる厳かな神殿の奥には、三人の英雄の像が安置されている。
世界を救ったとされる銀髪の神に創られし戦士、ブリシンガー・ヴァルディア。
その傍らに立った黄金の髪の聖女、システィーン・メイルフィ。
そして彼の一番弟子として数々の戦いを駆け抜けた若き剣士、バルダー・ガインルフ。
この三人がかつて同じ村で暮らしていたという伝承は、遠く離れた土地にも知られていた。そのため春から秋にかけては、巡礼者だけでなく、旅の途中に立ち寄る商人や物見遊山の旅人までやって来る。
宿屋が二軒もあるのも、村の規模を考えれば少し多い。祭りの時期ともなれば、普段は畑仕事の声ばかり聞こえる村道を、見慣れない馬車が何台も通ることさえあった。
村人にとっては、それも昔からある日常の一部だった。もっとも、神殿そのものは何度も建て直されている。
最初に誰が建てたのか、いつ現在のような大きさになったのか。それを正確に記した資料は残っていない。英雄たちがこの土地で暮らしていたことは確かだとされているが、伝説には、後の世に付け加えられた話も多い。
それだけの時間が過ぎている。
「クリスティーン、そっちの糸、もう少しだけ張ってくれる?」
「はーい。これくらい?」
「そうそう。強すぎると、また切れるからね」
神殿から少し離れた村の中央で、木製の織機が規則正しい音を立てていた。
カタン、カタン、と杼が行き来する。
その前に座っていた少女が、母親に言われたとおり、指先で糸の張り具合を確かめた。
クリスティーン・ルフェア。
この春に二十歳になった、デイン村生まれの娘である。
肩よりも長く伸びた金色の髪が、窓から差し込む陽の光を受けて明るく輝いている。白い肌に、深い青の瞳。
村の娘というより、「王都で売られている物語の挿絵に出てくるお姫様みたいだ」などと言われることもあるが、本人はそういう話にはあまり興味がない。
「これ、今日中に終わるかなあ」
クリスティーンは織機から少し身を引いて、出来上がりつつある布を眺めた。
「できれば午前中に終わらせたいね。午後にはマルクさんのところへ届けないと」
「えっ、今日だったの?」
奥で作業していた父親が顔を上げた。
「昨日言ったぞ」
「聞いてないよ」
「言った」
「聞いてない」
「お前、パン食べながら頷いてただろ」
「ああ……」
クリスティーンは少し考え、やがて申し訳なさそうに笑う。
「それはたぶん、パンの方を見てた」
父親が呆れたように眉を下げ、母親が吹き出した。
こんなやり取りは、この家では珍しくない。ルフェア家は、ずっと昔から織物を生業にしてきた。
何代前からなのかと聞かれると、誰も知らない。祖父も、曾祖父も、そのまた父親も織物をしていたらしい。その程度の話である。
家の納戸には、いつの時代のものとも知れない古い織り柄がいくつか残されている。
特別な家柄だという話を聞いたこともないし、先祖に有名な人物がいたという記録もない。
少なくとも、今のルフェア家の者たちはそう思っていた。
「クリスティーン!」
通りの方から声が飛んできた。
「ん?」
窓を開けると、籠を抱えた老婆がこちらを見上げている。
「あ、ミーナおばあちゃん。どうしたの?」
「悪いんだけどね。帰りに粉屋へ寄るなら、この袋を渡してくれないかい?」
「いいですよ。ちょうどそっちに行くから」
「いつも悪いねえ」
「これくらい大丈夫ですって」
袋を受け取ると、クリスティーンは何事もなかったように織機へ戻った。
母親が横目で娘を見る。
「本当に、頼まれたら断らないんだから」
「だって通り道だもん」
「昨日は通り道でもないのに、子どもの靴を直しに行ってたでしょう」
「……困ってたから」
少しだけ口を尖らせる。母親はそれ以上何も言わず、ただ柔らかく笑った。
昼前には仕事もひと段落した。
クリスティーンは出来上がった布を丁寧に包み、頼まれた袋と一緒に抱えて家を出る。
外はよく晴れていた。春の風が村道を吹き抜け、畑の若葉を揺らしている。
広場では行商人が荷台を広げ、その脇を子どもたちが笑いながら走り抜けていった。
遠くには、丘の上の神殿が見える。
やがて鐘が鳴った。澄んだ音が、春の空気を震わせながら村中へ広がっていく。
クリスティーンは足を止め、ほんの少しだけ神殿を見上げた。
物心ついた頃から、ずっとそこにある景色だった。世界を救った英雄たちが、かつて暮らしていた土地。幼い頃からそう教えられてきた。けれど彼女にとって、デイン村はそんな大げさな場所ではない。
父と母がいて、道を歩けば知っている顔がいる。
朝になれば織機の音が聞こえ、夕方になれば、どこかの家から夕飯の匂いが漂ってくる。
彼女にとってのデイン村とは、そういう場所だ。
「よし。行こっと」
包みを抱え直し、クリスティーンは石畳の道を歩き出す。
丘の上では、古い神殿の鐘がまだ鳴っていた。




