第10話「紅き竜」
デイン村を発ってから、半日ほどが過ぎていた。
街道はすでに村から遠く離れ、周囲の景色も随分と変わっている。畑や牧草地はいつの間にか姿を消し、代わりに深い森が道の両側へ広がっていた。
赤髪の旅人は、相変わらず急ぐ様子もなく西へ向かって歩いている。
祭りの日に聞こえていた音楽も、今朝見送りに集まった村人たちの声も、もうここまでは届かない。
やがて街道沿いに小高い岩場を見つけると、男は道を外れてそこへ上った。木々の向こう、遥か東の方角へ目を向ける。
もちろん、デイン村の姿はもう見えなかった。それでも男は、しばらくその方向を眺めていた。
「……ファルデン村も、変わったものだな」
誰もいない森の中で、初めてその名を口にした。
今の人々がデイン村と呼んでいる土地には、かつて別の名があった。
道は引き直され、川の流れも変えられている。昔は何もなかった丘には、遠くからでも目立つほど巨大な神殿が建ち、家々の位置も、そこで暮らす者たちの顔ぶれも、もはや記憶の中とはまるで違っていた。
当然と言えば、当然のことだった。あれから、あまりにも長い時間が過ぎている。
それでも山の形や森の切れ目、遠くを流れる川の位置まで、すべてが消えてしまったわけではない。目を凝らせば、かつて知っていた土地の名残は今も確かに残っていた。
男はしばらく東を眺めていたが、やがて脳裏に一人の娘の顔が浮かんだ。
黄金の髪に、青い瞳。よく笑い、よく喋り、初対面の旅人に対してさえ妙に遠慮がない。
「クリスティーン・ルフェア……か」
その名を静かに口にする。
似ていた。
最初に顔を見た時から、それには気づいていた。
システィーン・メイルフィに。
ただ、単に顔立ちが似ているというだけではない、困っている者を見れば放っておけず、警戒するより先に声を掛けてしまうところ。何でもない時に見せる表情や、人と話す時の距離の取り方にも、どこか懐かしいものがあった。
もちろん、同じではない。システィーンは、もう少し穏やかな娘だった。
少なくとも、祭りの日に宿の二階にいる者を大声で呼びつけ、一日中村を連れ回した挙げ句、最後には踊りの輪へ押し込むようなことはしなかった。
そこまで思い出して、男はわずかに口元を緩める。
「……あれほど強引ではなかったな」
もっとも、本当に必要だと思った時には、人の話を聞かなくなるところがあった。
そう考えれば、やはりどこか似ている。
だが、なぜあの娘から、これほど強く昔の面影を感じるのか。
単なる偶然なのか。
いや、ゼルグは既に答えを分かっていた。
「……やはり、お前たちの血か」
遠い昔の二人を思い浮かべ、僅かに笑う。
「二千年経っても、妙なところは残るものだな」
来週か、遅くとも再来週にはもう一度村へ寄ると約束した。その時にまた会えばいい。
今は先に済ませるべき用がある。
西の山間部で、少々面倒なことが起きていた。
人里から離れた古い砦跡に魔術師の集団が住み着き、近隣の村から家畜を奪い、旅人を脅し、森の中には何やら怪しげな術式まで仕掛け始めているという。
王国が軍を動かすほどの事件ではない。とはいえ、そのまま放っておけば、いずれ人が死ぬかもしれない。
ならば行って止めればいい。話が通じるなら、それで済む。通じなければ、少しばかり力ずくになるだけのことだった。
「さて……」
男は岩場から周囲を見渡した。街道には人影がない。耳を澄ませても、荷車の軋む音も、馬の蹄も、誰かの話し声も聞こえてこなかった。
さらに意識を森の奥まで広げる。
人の気配はない。
「……もう十分離れただろう」
そう呟くと、男は街道からさらに奥へ入り、木々の切れた広い岩地まで歩いていった。
ゆっくり息を吐く。
次の瞬間、空気が震えた。
最初は、地の底から響いてくるような低い唸りだった。
男の足元に転がっていた小石が細かく跳ね、周囲の草が風もないのに一斉に伏せていく。赤い髪が激しく揺れ、その身体を中心に、目に見えない圧力が空気そのものを押し広げ始めた。
輪郭が変わる。
全身の骨格が軋むように膨れ上がった。背筋がぐっと伸び、胸郭が前へせり出し、肩幅が人のそれとは比較にならぬほど大きく広がっていく。だが、その変化は獣のように前へ落ちるものではない。あくまで二本の脚で大地を踏みしめる、人型のままの変貌だった。
腕は太く、長く伸び、指もまた節を強くしながら巨大化していく。外套も衣服も、全身を包み込んだ赤色の光に呑まれ、溶けるように掻き消えた。その下から現れた肌を、硬質な鱗が首筋から肩、胸、腹、そして四肢へと一気に走るように覆っていく。
燃えるような赤。その一枚一枚には金が差し、光を受けるたび、燃え残った炭火のような深く鈍い輝きを返していた。
人の腕だったものは、見る間に太い筋肉と厚い鱗に覆われた巨大な腕へ変わり、指先からは湾曲した鉤爪が伸びる。胸板は岩壁のように厚みを増し、腹部は引き締まりながらも鋼のような硬さを帯び、二本の脚もまた、巨体を支える柱のごとく膨れ上がっていった。
背中が大きく盛り上がる。
肩甲のあたりから骨が押し出されるように隆起し、次の瞬間、左右から巨大な骨格が突き出した。そこへ皮膜が張り、一気に広がる。
翼だった。
それは獣の前脚が変じたものではなく、あくまで両腕とは別に背から生えた、一対の巨大な翼だった。まだ完全に開ききってもいないのに、その影はすでに周囲の岩場と木々を覆い、あたりの景色を暗く沈ませていた。
変化はなお止まらない。
膨張した体躯はなおも上へ上へと伸び、腰はどっしりと安定し、太い尾が背後へ長く引き出される。それは地を這うための尾ではなく、直立した巨体の均衡を支える、重く強靭な尾だった。
首は獣じみて細長く伸びるのではなく、分厚い肩と胸の上に据えられたまま、より頑丈に、より巨大に作り替えられていく。その先で頭部が形を成した。人の面影など微塵もない、鋭い角を幾本も戴いた竜の頭。だがその位置も向きも、四足の竜というよりは、巨大な戦士がまっすぐ前を見据えるような威容を備えていた。
顎が開く。
その奥には、一本一本が剣のように鋭い牙が並んでいた。
最後に、長大な尾が地を打った。
重低音とともに岩場が揺れ、森の奥から驚いた鳥の群れが一斉に飛び立つ。
もはや、そこに人間の旅人の姿はなかった。
岩場の上にそびえ立っていたのは、直立したまま天空を圧するほどの巨体だった。金を帯びた真紅の鱗に覆われた、圧倒的な二足歩行の竜。巨大な両脚で大地を踏み締め、鋭い爪を備えた両腕を垂れ、背には森さえ影に沈めかねないほどの翼を負っている。
それは獣じみた魔物ではない。
人の形を遥かに超えた先にある、古き時代の威厳そのものだった。
遥かな昔に生き、今では伝承の中でしか語られなくなった存在が、誰にも見られることなく森の奥に立っていた。
ゼルグ・グラヴェルド。
かつてアゼルグラム山脈を守護し、ブリシンガー・ヴァルディアたちと共に戦った古竜。
そして、彼らがとうに歴史の中の存在となった今もなお、あの時代を知る者として生き続けている、紅き竜だった。
ゼルグは首を持ち上げ、西の空へ目を向けた。人の姿で街道を歩けば、目的地までは何日もかかる。
だが、本来の姿なら話は別だ。
「さて……行くか」
低い声が森へ響いた。人間の喉からは決して出せない、地面そのものを震わせるような声だった。
巨大な翼がゆっくりと開いていく。その動きだけで周囲の枝葉がざわめき、地面に積もった枯れ葉が舞い上がった。
一度、翼を打つ。空気が轟音とともに押し下げられ、周囲の木々が大きくしなる。
もう一度。
今度は巨体が地面から離れた。
そして三度目に翼が振り下ろされた瞬間、空気が爆ぜた。
雷鳴のような音が山間に響き渡り、ゼルグの巨体が一気に空へ舞い上がる。
森が急速に遠ざかっていった。
翼を打つたびに高度を上げ、ほどなくして山の頂を越える。
そこからさらに加速すると、眼下を流れる川はたちまち細い銀色の筋へ変わり、森も村も後方へ流れ去っていった。
人間の姿で街道を歩いていた時とは、あまりにも違う。本来の彼に、人間の道を辿る必要などなかった。
宿へ泊まり、馬車の速度に合わせ、何日もかけて目的地へ向かう必要もない。
それでも彼は、そうして旅をしていた。
やがて前方に、幾重にも連なる山々が見えてくる。さらにその奥、小さな谷間から黒い煙が細く立ち上っていた。
ゼルグは僅かに目を細めた。
「……あそこか」
声には緊張も警戒もなかった。近隣の村を脅かしているという魔術師。ゼルグにとっては、旅の途中で片付ける小さな用事にすぎない。
もっとも、その「小さな用事」のために今、自分のもとへ何が飛んできているのか、当の魔術師達だけは、まだ知る由もなかった。
真紅の古竜は翼をわずかに畳み、山々へ向けてさらに速度を上げた。




