第11話「洞窟の奥」
デイン村があるグレナム王国から遥か西へ離れた山間部、そのさらに奥深くに、人の目から隠すように造られた洞窟があった。
場所は街道からも近隣の村からも大きく外れている。谷底近くの岩陰にある入口には簡単な幻惑の術が施され、知らずに通りかかった者には、ただの切り立った岩壁にしか見えないようになっていた。
もっとも、辺りには獣道らしいものさえなく、術がなくとも好んで近づく者はいないだろう。その洞窟をかなり奥まで進んだところに、自然にできたとは思えないほど広い空間がある。
外の光など一筋も届かないため、明かりと呼べるものは壁際に据えられた魔石だけだった。青白い光に照らされた室内には木製の棚がいくつも並び、大小さまざまな瓶や壺、奇妙な刻印の入った金属片が所狭しと置かれている。
透明な瓶の中では紫色の液体がゆっくりと泡立ち、別の容器の底には黒い沈殿物が溜まっていた。
部屋の中央には巨大な魔法陣が描かれている。
複雑な線と見慣れない文字が幾重にも重なり、その外周には掌ほどの魔石が等間隔に埋め込まれていた。さらに奥には、人間一人を寝かせるには明らかに大きすぎる金属製の台があり、何かを固定するためなのか、太い革帯まで何本も取り付けられている。
そこで作業をしている者たちは、皆よく似た長いローブを身につけていた。
顔の大半は深く被ったフードに隠れ、互いを名前で呼ぶ者もいない。
一人が机の上へ細長い硝子管を置いた。中には、粘り気のある赤黒い液体が入っている。
「これで四本目か」
「ああ。東側で集めたものまで合わせれば、必要量には近づいている」
「純度は?」
「まだ足りん。混ぜ物が多すぎる」
向かいにいた男が、小さく舌打ちした。
「結局、古い文献に書かれている通りにはいかんか」
「当然だ。記録そのものが完全ではない。二千年前の人間が残した文章だけを頼りに、同じものを作ろうとしているのだからな」
魔法陣のそばにしゃがみ込んでいた別の男が、魔石の位置を調整しながら首を振った。
「同じである必要はない」
その一言に、何人かが顔を上げる。
「必要なのは再現だ。姿も、力も、伝承に記されたものへ近づけばいい。最初から完全なものなど誰も求めていない」
「だが、素体が耐えなければ意味がない」
「だから試している」
男は床から魔石を一つ外し、光に透かすように持ち上げた。石の内部では、細い赤光が脈を打つように明滅している。
「骨格は以前より安定した。残る問題は核だ。力を流した途端に崩壊するようでは使い物にならん」
「次の材料はいつ届く?」
「十日ほど先だ」
「遅いな」
「王国の目を避けながら運んでいるんだ。これ以上急げば、かえって―」
その時だった。部屋の奥ではなく、横手の岩壁から、腹の底へ響くような鈍い音が伝わってきた。
ほんの一瞬、棚に並んだ硝子瓶が震える。
「……何だ?」
話していた者たちが壁を見る。
音がしたのは、洞窟の通路とはまったく違う方向だった。
「岩でも落ちたか?」
「この辺りで崩落はない」
次の瞬間、岩壁そのものが轟音とともに内側へ爆ぜ飛んだ。
「なっ!」
分厚い岩の塊が砕け、大小の破片が部屋の中へ転がり込む。魔術師たちは咄嗟に顔を庇い、何人かは衝撃に押されて後ろへよろめいた。
山肌に、人が悠々と通れるほどの大穴が開いていた。そして、それまで外界から完全に隔絶されていた洞窟の奥へ、昼の陽光が一気に流れ込んだ。
暗闇しか知らなかった石床を、白く眩しい光が真っ直ぐに照らしている。舞い上がった砂埃がその光を受けて金色に輝き、部屋の中に長い光の筋を作った。
魔術師たちは、誰一人として声を出せなかった。
大穴の向こうに、一人の男が立っていた。
赤い髪と、使い込まれた茶褐色の外套。腰には装飾のない一本の剣。
男は岩壁へ向けて突き出していた右腕をゆっくり下ろすと、拳についた石の粉を軽く払った。
その仕草を見て、ようやく一人が理解した。
「この壁を……今、外から殴ったのか?」
男は一度、背後に開いた穴を振り返った。
「他に見えるか?」
誰も答えなかった。穴の外には青い空と山肌が見えている。洞窟の壁を壊した、などという程度ではない。
山の外側から岩盤を拳一発でぶち抜き、この部屋まで穴を通したのだ。
ようやく別の魔術師が我に返った。
「入口は、そちらではないぞ」
「そうらしいな」
「そうらしいな、ではない!」
男は別段悪びれる様子もない。
「外から入口を探したが見つからなかったのでな。こちらの方が早いと思った」
「だから壁を殴ったのか!?」
「大して厚くはなかったぞ」
魔術師たちは揃って穴を見る。どう見ても「大して厚くない」で済ませられる岩盤ではなかった。
赤髪の男は彼らの反応を気にすることもなく、光の差し込む穴から部屋へ入ってきた。
足元で石片が乾いた音を立てる。
初めは何でもないように室内を眺めていたが、床の魔法陣、棚いっぱいの薬品、魔力を帯びた金属片、そして部屋の奥に置かれた巨大な固定台へ視線が移るにつれ、その顔から先ほどまでの軽い表情が消えていった。
赤い瞳が細くなる。
「なるほど」
ゆっくりと魔法陣へ近づき、その縁に並べられた魔石を眺める。さらに机の上に置かれた赤黒い液体へ目を移した。
「何を作ろうとしているのかまでは分からんが……少なくとも、ろくなことではなさそうだな」
「何者だ」
ローブ姿の一人が杖を構えた。男はそちらへ顔を向けた。
「近隣の村から家畜が消えている。街道では旅人が襲われ、森には人を遠ざける術式がいくつも仕掛けられていた」
「それがどうした」
「やったのはお前たちだろう」
返事はなかった。男にとっては、それで十分だったらしい。
「まず、森に仕掛けた術を解け。奪ったものが残っているなら返せ。それからここを引き払え」
言い方は穏やかだった。
まるで村の広場で、小さな揉め事の仲裁でもしているような口調である。
「今後、この辺りで妙なことをしないと約束するなら、我もそれ以上は何もせん」
しばらく沈黙が続いたが、やがて魔術師の一人が低く笑った。
「一人でここまで来て、随分な口を利く」
「一人では何か困るのか?」
その返答を聞いた男の杖がわずかに動く。
「殺せ」
青白い光が走った。
放たれた雷撃は一瞬で洞窟を横切り、赤髪の男の胸へまともに直撃した。轟音と眩い閃光が、薄暗い室内を白く染める。
何本もの硝子瓶が振動で音を立てた。
やがて煙が薄れていく。そこに、男はまだ立っていた。立っていたどころか、外套の胸元に焦げ跡一つない。
男は自分の胸を一度見下ろし、少し不思議そうな顔をした。
「……今のは何だ?」
術を放った魔術師の表情が強張る。
「撃て!」
今度は五人が同時に杖を構えた。
左右から火球が飛び、中央を鋭い氷の槍が走る。
炎が男の身体を包み込み、その足元では石床が白く凍りついた。急激な熱と冷気に晒された棚の瓶が次々と割れ、中の薬液が床へ散っていく。
それでも男は、炎の中から普通に歩いて出てきた。
「待て」
次の術を組み始めた者たちへ、片手を上げる。
「我は話をしに来たのだ」
「化け物め!」
「だから話を聞けと言っている」
床の魔法陣が強く輝き、幾本もの光の鎖が男の両腕と脚へ絡みついた。その時だけは少し興味を惹かれたらしく、男は腕を持ち上げて鎖を眺めた。
「ほう」
術者の顔に、わずかに余裕が戻る。
「無駄だ。それは大型魔獣さえ拘束する術だ。下手に動けば―」
男が軽く腕を開いた。
乾いた音を立てて、光の鎖が一斉に砕け散った。
言葉が止まった。
何人かが無意識に一歩後ずさる。
男はそんな彼らを見回し、先ほどと変わらない声音で言った。
「もう一度だけ言う。奪ったものを返し、森の術式を解いて、ここを引き払え。そうすれば追わん」
「ふざけるな!」
別の魔術師が杖を床へ突き立てた。男の足元から巨大な炎柱が噴き上がり、洞窟の天井近くまで届く。熱風を浴びた術者たち自身が、思わず腕で顔を庇ったほどだった。
炎が収まる。赤髪の男は、今度も同じところに立っていた。外套の裾に小さな火が残っているのを見つけると、それを指先で摘まんで消す。
「……服が燃えるだろう」
少し迷惑そうだった。
その時、一番奥にいた魔術師の様子が変わった。
男をじっと見ている。
人間とは思えない頑丈さ。それ以上に奇妙なのは、その態度だった。
これほどの攻撃を受けていながら、怒るでも身構えるでもなく、いまだにこちらへ立ち退きを勧めている。
魔術師の頭の中で、何かが結びついたらしい。
「……まさか」
声が震えていた。
隣の者が振り返る。
「何だ」
「赤い髪……人の姿……」
「何を言っている」
「古い記録だ。読んだことがある」
その声に反応し、男がこちらを見る。魔術師の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「アゼルグラムの……」
名前を口にするより先に、隣の男がその腕を掴んだ。
「やめろ!退くぞ」
「何?」
「今すぐだ!」
赤髪の男が眉を寄せる。
「待て。まだ話が済んでおらぬ」
魔術師たちは一斉に、懐から取り出した小さな石を床へ叩きつけた。
石が砕け、強烈な紫色の光が部屋いっぱいに広がる。
男の目が細くなった。
「転移か」
紫光の中で、魔術師たちの輪郭が揺らぎ始める。
「待て」
一歩踏み出した時には、もう遅かった。空間が歪み、十数人いた魔術師たちの姿がほとんど同時に掻き消える。
あとに残されたのは倒れた椅子と杖が一本、それに消えかけた転移陣だけだった。
再び静かになった洞窟へ、壁に開いた大穴から風が吹き込んでくる。
そこから差し込む陽の光だけが、さっきまで薄暗かった部屋を明るく照らしていた。
ゼルグは転移陣の跡をしばらく眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……逃がしたか」
追おうと思えば、追えないことはない。
しかし転移先を悟られないよう、痕跡を散らす処理まで施されていた。無理に辿ったところで、途中で見失う可能性が高い。
それより今は、この場所を調べる方が先だった。
ゼルグは改めて室内を見回した。
用途の分からない薬品に、何らかの組織片を保存していたらしい容器。人工的に魔力を送り込むためと思われる管。人間用とは考えにくい大きさの固定台。そして床いっぱいに描かれた複雑な魔法陣。
近くで見るほど、妙なものばかりだった。
ゼルグは魔法陣の中央まで歩くと、腰を落として床に刻まれた文字を指先でなぞった。
「……これは」
術式そのものに見覚えはなかった。だが、魔力をどう流そうとしているのかは分かる。
生き物へ外部から力を与えるための術式だった。
ただし、治療や身体強化といった穏やかなものではない。本来そこにはないものを無理やり形にし、何か別の存在へ作り変えようとしている。
そんな術に見えた。
「何をするつもりだった」
当然ながら、答える者はいない。机の上には何枚もの紙が散らばっていた。大半は魔術式や薬品の配合について書かれたものだったが、その中の一枚を手にしたところで、ゼルグの目が止まった。
粗い線で、巨大な人型らしきものが描かれている。
全身ではない、太い腕の一部。異様に発達した胸部らしき構造。
その中央には、何かを埋め込むためなのか、円形の空洞が描かれていた。
図の脇には、小さな文字が一つだけ記されている。
『素体』
「……素体?」
ゼルグは眉を寄せた。別の紙にも目を通す。
『第一段階、安定せず』
『核との結合率、依然として不足』
『原記録との一致を求める必要なし』
断片的な記述ばかりで、目的そのものまでは掴めない。
ただ、まともな実験でないことだけは明らかだった。
ゼルグは紙を机へ戻した。
「家畜泥棒だけではなかったか」
少し面倒になってきた。近隣の村を荒らしている連中を見つけ、追い払えば終わる。
その程度の用事だと思っていた。
しかし、ここにいた者たちは明らかに別の何かを準備している。
ただの魔術研究ではない。
さらに気になることが一つあった。
自分の姿を見ただけで、正体に思い当たった者がいた。
赤い髪と人の姿について記された資料など、現代ではかなり古い文献を探さなければ出てこないはずだった。
あの者たちは、二千年前どころか、それより遥かに古い時代まで調べている。
午前まで暗闇に閉ざされていた洞窟の床を、外から差し込む陽の光が長く照らしている。
予定では、この用事を済ませたら、そのままデイン村へ戻るつもりだったが、どうやら、その前に調べなければならないことが一つ増えたらしい。
ゼルグは散らばった紙の中から、必要そうなものを何枚か選び取った。




