第12話「山を下りれば」
洞窟に残された資料を一通り確認すると、ゼルグはその中から重要そうなものだけを選び出した。
魔法陣の構造を記した図面に、薬品の配合表。“核”と呼ばれる何かについての記録。そして、巨大な人型の一部が描かれた『素体』の設計図。
合わせて十数枚ほどになる。
どれも断片的で、これだけでは連中が何を作ろうとしていたのかまでは分からない。とはいえ、置いていく理由もなかった。
ゼルグは紙を傷めないよう重ねると、床に落ちていた革製の書類入れへ収めた。先ほど逃げた魔術師の持ち物らしく、ちょうどよい大きさだった。
「これくらいでいいか」
棚にはまだ怪しげな薬品や器具が山ほど残っている。さすがに正体不明の液体が入った瓶まで抱えて山を下りる気にはならない。必要なら、後で改めて調べればいいだろう。
書類入れを革袋へしまい、ゼルグは自分で開けた大穴から洞窟の外へ出た。
山中には、冷たい風が吹いていた。
洞窟があったのはかなり高い場所らしく、眼下には濃い緑に覆われた山肌が幾重にも続いている。その谷間を細い川が流れ、遥か下には山を抜ける古い街道も見えた。
ゼルグは崖際まで歩き、下を覗き込む。麓までは随分ある。人間なら洞窟の入口へ戻り、そこから山道を探して何時間もかけて下りるところだろう。
しばらく眺めたあと、ゼルグは小さく息を吐いた。
「……歩くのも面倒だな」
そのまま崖から飛び降りた。躊躇らしい躊躇はなかった。人の姿をした大男が、数百メートル下の谷へ向かって真っ逆さまに落ちていく。
風を受けた外套が激しくはためき、途中で張り出した岩壁が迫ると、ゼルグは片足でそれを軽く蹴って軌道を変えた。
あとは再び落ちるだけだった。
普通の人間なら、生きて着地する方法を考える以前の高さであるが、当の本人はと言えば、眼下を眺めながら着地点を選んでいた。
やがて地面が急速に迫ってくる。ゼルグは空中で身体をわずかに捻り、両脚を下へ向けた。
山の麓に凄まじい衝撃音が響き渡った。
土と枯れ葉が高く舞い上がり、周囲の木々がざわめく。近くにいた鳥たちは、何事かと一斉に空へ逃げていった。
砂埃が薄れる。
その中心では、ゼルグが片膝をついていた。何事もなかったように立ち上がり、外套についた土を払う。足元の地面は浅く陥没していたが、本人には傷一つない。
そこでようやく、周囲の異変に気づいた。
「ん?」
人がいた。
しかも、一人や二人ではない。木々の間には粗末な天幕が十数張り並び、中央では焚き火が燃えていた。酒瓶や食べかけの肉が置かれた机の周りには、武器を手入れする者もいれば、昼間から酒を飲んでいる者もいる。
ざっと三十、いや、四十人ほど。
そして今は、その全員がこちらを見ていた。
装備に統一感はない。剣、斧、槍、弓。革鎧を着た者もいれば、どこから持ってきたのか分からない古びた騎士鎧を身につけている者までいる。
少なくとも、どこかの王国の兵士ではなさそうだった。
ゼルグは辺りを見渡した。
「……野営地か」
ようやく一人の男が立ち上がった。
頬に大きな傷があり、肩には幅広の剣を担いでいる。この集団の頭らしい。
「お前……どこから来た?」
ゼルグが竜の姿で山へ降り立った場所は尾根を挟んだ反対側だったため、麓の野営地にいた彼らからは見えていなかったようだった。
ゼルグは一度、頭上を見上げた。
「上からだ」
「……上?」
「山の上だ」
男たちもつられて見上げる。
そこにあるのは、ほとんど垂直に近い切り立った崖だけだった。
妙な沈黙が流れる。
「嘘つけ」
「何故そのような嘘をつく必要がある」
ゼルグとしても、それ以上説明のしようがない。
傷の男は、彼の足元に残った陥没を見てから、もう一度崖を見上げた。何か言いたげだったが、結局は諦めたらしい。
「……まあいい」
肩に担いでいた剣を下ろす。
それを合図に、周囲の男たちも立ち上がった。
ゼルグが僅かに眉を寄せる。
「何だ」
「この山に入った奴は通すなって言われてるんでな」
「誰にだ」
「お前には関係ねえよ」
「魔術師みたいな集団か?」
その一言で、場の空気がわずかに変わった。
ゼルグには、それで十分だった。
「なるほど。お前たちも連中の仲間か」
「仲間じゃねえ。金を貰ってるだけだ」
「なら帰れ」
傷の男が一瞬、聞き間違えたような顔をした。
「……何?」
「雇い主なら、先ほど逃げた。ここに残っていても金は出んだろう。荷物をまとめて帰るがいい」
あまりに淡々と言われたせいか、数秒遅れて周囲から笑い声が起きた。
「何だこいつ」
「一人で何言ってやがる」
「頭でも打ったんじゃねえのか?」
ゼルグは少し考えた。
「頭を打った覚えはないな」
「そういう話じゃねえ!」
傷の男が苛立ったように怒鳴り、剣先を向ける。
「金目の物を全部置いて消えな。そうすりゃ命だけは助けてやる」
ゼルグは自分の革袋へ目をやった。中には、先ほど持ち出した資料が入っている。
「これは渡せん」
「なら死ね」
男が手を振った。
周囲にいた者たちが一斉に動き出す。
正面から十人ほどが迫り、残りは左右へ回り込む。後方ではすでに弓へ矢をつがえている者もいた。
ゼルグは、小さく息を吐いた。
「……仕方ない」
姿が消えた。少なくとも、男たちにはそう見えた。
最前列にいた一人が、何が起きたのか理解する暇もなく地面へ崩れ落ちる。
その隣も、ほとんど同時だった。
「なっ!」
声を上げた男が振り向いた時には、背後にいた仲間まで倒れている。
「どこだ!」
「後ろ―」
最後まで言えなかった。首筋に軽い衝撃を受け、そのまま意識を失う。
弓を構えた者は、矢を放つことさえできなかった。手首へ何かが触れたと思った次の瞬間には、身体から力が抜けていた。
斧を振り回した男の脇を、赤い影がすり抜ける。空振りした斧が地面へ食い込み、持ち主はその横へ倒れ込んだ。
ゼルグは、誰一人としてまともに殴ってはいなかった。
顎や首筋、腹部。
人間が死なずに意識だけを失う場所へ、必要最低限の力を与えているだけだ。
彼にとって難しいのは、倒すことではない。殺さないことだった。
「囲め!」
誰かが叫んだ頃には、立っている者はすでに十人にも満たなかった。
その声を上げた本人も、次の瞬間には地面へ転がった。
最後まで残ったのは、頬に傷のある男だった。剣を構えたまま、動けずにいる。
つい先ほどまで四十人近くいた仲間が、一人残らず地面に倒れていた。
死んではいないが、誰一人として起き上がる気配もない。
赤髪の男だけが、少し離れた場所で何事もなかったように外套の袖を直している。
「……化け物」
「今日はそれをよく言われるな」
ゼルグが顔を上げる。
傷の男は、すぐに剣を捨てた。
「ま、待て!」
「何だ」
「俺は雇われただけだ!」
「先ほど自分でそう言っていたな」
ゼルグの姿が僅かに揺らいだ。
気づいた時にはもう遅い。傷の男も、他の仲間と同じように地面へ倒れていた。
静かになった野営地に、焚き火の爆ぜる音だけが残る。
ゼルグは周囲を見渡した。
このまま放っておいても、しばらくは目を覚まさないだろう。
だが、起きたあとで別の誰かから金を貰い、また同じことを始めないとも限らない。
せめて武器くらいは取り上げておくか。
そう考えながら、地面に転がった男たちを見ていた時だった。
ふと、遠い昔の記憶が蘇った。街道を塞ぐならず者。集団で旅人を囲み、人数を頼みに好き勝手をする者たち。
そしてそういう連中から、妙なやり方で戦意を根こそぎ奪っていた一人の男。
ゼルグの口元が、僅かに上がった。
「……そういえば」
遥か昔、似たような真似をしていた小僧がいた。
「たまには、真似をしてみるか」
それからしばらくして野営地から、武器という武器が消えていた。剣も槍も斧も弓も、一ヶ所へまとめられている。
それだけではない。鎧も外套も靴も、ついでに身につけていた衣服まで綺麗に剥ぎ取られ、何本もの縄で一まとめにされていた。
その巨大な荷物は、野営地の脇に生えていた大木の、地上からでは到底手の届かない高さへ吊り下げられている。
そして木の下には、四十人近い男たちが、一糸まとわぬ姿で気絶していた。
ゼルグは腕を組み、その光景を眺めた。
「……なるほど」
少し考える。
「これは確かに、二度目を考えたくなくなるな」
直接小僧がそれをしている所は見ていなく、当時の周囲の話による真似事だが、妙に納得していた。
ゼルグは革袋を背負い直し、街道の方へ歩き始めた。
その時、背後から小さな呻き声が聞こえた。
「う……」
一人が早くも目を覚ましかけているらしい。
ゼルグは足を止め、振り返った。男は朦朧とした様子で上体を起こし、自分の身体を見下ろす。
数秒、固まった。
次に仲間たちを見た。
最後に、遥か頭上の枝から吊り下げられた衣服と武器の塊を見上げる。
「…………え?」
ようやく状況を理解し始めたらしい。
ゼルグは何も言わず、再び歩き出した。
「えっ!?待て!何で!?ちょっ!!服!!服どこだよ!」
背後から悲鳴に近い声が響く。それでも振り返らず、ゼルグは街道へ向かった。
数歩進んだところで、その口元がほんの少し緩む。
「……悪くないな、小僧」
二千年前なら、そう呼べばすぐに何かしら言い返してきた男がいた。
だが今、その声に答える者はいない。
ゼルグは一度だけ空を仰ぎ、それ以上は何も言わず、山を下る道へ歩いていった。




