第20話「カレー」
織機の修理が一段落した頃には、窓の外もすっかり夕方の色になっていた。
作業場の奥にある扉を抜ければ、そこから先はルフェア家の生活空間だ。短い廊下を挟んで台所と食堂があり、中央には家族三人で毎日使っている木製の食卓が置かれている。
「どうぞ。適当に座ってて」
母親に促され、ゼルグが食堂へ入った。その後ろを歩いていたクリスティーンは、何となく妙な気分になった。
物心ついた頃から使っている、何の変哲もない食卓だった。幼い頃には嫌いな野菜を皿の端へ追いやって母親に叱られ、仕事が忙しい日には父親と三人で遅い夕食を取った。
そのいつもの場所で、今はゼルグが椅子を引いている。見た目だけなら、大柄な旅人を家へ招いただけだ。
けれど、その男の名前は二千年以上前の記録に残り、森の奥には本来の姿を刻んだ神殿まである。
そう考えると、やはり少しおかしい。
「……何だ?」
見ていたことに気づかれた。
「いえ。ちょっと変な感じがするだけです」
「何がだ?」
「あなたが普通にそこにいるのが」
ゼルグは自分が引いた椅子を見た。
「座ってはいけないのか?」
「そういう意味じゃありません」
「なら何だ」
「……もういいです。座ってください」
説明しても、また話が妙な方向へ行きそうだった。ゼルグが腰を下ろしたところへ、父親も作業場から戻ってくる。
「いやあ、助かった。古い方もすっかり音が消えたぞ」
「あれは軸が乾いていただけだ。油を差せば済む」
「それが分からなかったんだよ」
二台の織機をあっという間に直されたせいか、父親はすっかり感心している。
その間に母親は台所へ立ち、夕食の支度を始めようとしていた。
「さて、急がないとね。肉は燻製が残ってたし、野菜も足りそうだわ」
「待て」
ゼルグが立ち上がった。
母親が振り返る。
「何?」
「食事なら、今日は私が作ろう」
三人の動きが止まった。真っ先に反応したのはクリスティーンだった。
「料理できるんですか?」
「できるが」
「……できるんだ」
「何故驚く」
旅をしている以上、自分で食事くらい作るのだろう。ただ、織機を修理した直後に、そのまま夕食まで作ると言い出すとは思わなかった。
母親も苦笑する。
「駄目よ。今日はこっちがお礼するんだから。修理してもらった上に料理までさせたら、何のお礼か分からなくなるでしょう?」
「丁度、試したいものがある」
ゼルグは気にした様子もなく、旅袋を食卓へ置いた。中を探り、小さな瓶を一つ取り出す。
続いて二つ、三つ。
最後には五つほどの小瓶が卓上へ並んだ。
どれにも色の違う粉や乾燥した葉が入っている。黄色いもの、赤いもの、濃い茶色のものまであり、見慣れた調味料とは随分違っていた。
クリスティーンが瓶を覗き込む。
「……何ですか、これ?」
父親まで寄ってきた。
「薬か?」
「食い物だ」
「これを?」
父親が瓶へ手を伸ばす。
「そのまま舐めるな。ものによっては酷い目に遭うぞ」
手が止まった。
ゼルグが一本の蓋を開けると、刺激のある香りがふわりと広がった。
クリスティーンも少し鼻を近づける。
「変わった匂い……」
「全部使うの?」
母親も興味を引かれたらしく、いつの間にか隣へ来ている。
「量は違うが、いくつか混ぜる」
「どこの料理なの?」
「かなり遠い、暑い地方だ。この手の香辛料をよく使う」
ゼルグは瓶を閉じた。
「国が変われば、食うものも作り方も変わる。肉を焼くだけの土地もあれば、香草を大量に入れる土地もある。魚を生で食う者もいるし、何でも油で揚げる地方もある」
「魚を生で?」
父親が露骨に顔をしかめた。
「腹を壊さないのか?」
「扱い方を知っていれば問題ない」
「私は遠慮するわ」
母親は即答した。ゼルグは気にせず、今度は袋から紙包みを取り出す。中には肉があり、さらに数種類の野菜まで出てきた。
母親が目を丸くする。
「随分買ったのね」
「市場で見つけた」
そこでクリスティーンが思い出した。
「そういえば、お肉見てたって聞きました」
「誰からだ」
「市場の人です。探してた時に聞きました」
「何故そんなことまで知られている」
「聞いて回ったからですよ」
ゼルグは少し納得できない顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
母親は並べられた材料を見ている。
「これ、一人で食べるつもりだったの?」
「そのつもりだったが」
「四人分くらいあるわよ」
「私には少ないくらいだ」
父親がクリスティーンを見る。
「お前、三人分くらいって言ってなかったか?」
「私も甘く見てたかも」
二人の会話をよそに、ゼルグは香辛料の瓶を手に取った。
「これで作る料理を、カレーという」
三人が揃って首を傾げる。
「……かれー?」
クリスティーンが聞き返した。
「聞いたことないな」
父親も瓶を眺める。
「どんな料理なんだ?」
「作った方が早い」
ゼルグは台所へ向かおうとした。
母親がまだ少し迷っている。
「でも、お客さんに台所を使わせるのはねぇ……」
「母さん」
父親が小声で言う。
「俺は見てみたい」
「あなたまで?」
「だって気になるだろ。あんな粉をいくつも混ぜるんだぞ」
「私も見たい」
クリスティーンも手を挙げた。母親は二人を見比べ、最後にため息をつく。
「……分かった。じゃあ今日は任せてみようかしら」
「最初からそう言っている」
「ただし、台所を滅茶苦茶にしないでよ」
「料理を何だと思っている」
ゼルグは袖を軽くまくった。
クリスティーンもその横へ立つ。
「何か手伝います?」
「なら野菜を洗ってくれ」
「はい」
母親は道具の場所を教え、父親は早々に見物する側へ回った。
ゼルグの手際は予想以上だった。
洗った野菜を受け取ると、肉と一緒に迷いなく切り分けていく。鍋を火へ掛け、油を引き、火の通りにくいものから順番に入れていった。
「ちょっと待ってください」
クリスティーンが手元を見る。
「何だ?」
「切るの、早すぎません?」
「これくらい普通だろう」
彼の"普通"は普通ではないことを思い出す。
母親も包丁さばきを見て少し心配そうな顔をしたが、次の瞬間には野菜がほとんど同じ大きさに切り揃えられていた。
「……もう好きにやらせた方がよさそうね」
父親が笑う。
しばらく炒めたところで水を加え、ゼルグは鍋を煮込み始めた。
やがて例の小瓶を持ってくる。
黄色い粉を少し、茶色いものをそれより多めに。赤いものはほんの僅かに加え、さらに二種類ほどを目分量で落としていく。木匙で大きく混ぜた途端、それまでとはまるで違う香りが台所いっぱいに広がった。
「あ……」
クリスティーンが思わず鍋へ近づく。
少し刺激があり、それでいて肉や野菜の甘い匂いも混じっている。初めて嗅ぐ香りなのに、不思議と腹が減ってきた。
母親もすぐ横から覗いた。
「すごくいい匂いね」
父親まで椅子から立ち上がる。
「さっきの粉だけでこうなるのか?」
「肉や野菜の味も混ざっている」
「もう食える?」
「まだだ。少し待て」
「さっきから待ってばかりだな」
「料理とはそういうものだ」
今度ばかりは誰も反論しなかった。
弱い火で煮込んでいるうちに、汁は少しずつ濃くなり、野菜も形を崩していく。色も見慣れた煮込みとは違う、深い茶褐色へ変わった。
何度も鍋を覗きに来る母親を見て、父親が笑う。
「母さん、さっきまで自分で作るって言ってたのに」
「知らない料理なんだから気になるでしょう」
「私もお腹空いてきました」
クリスティーンも言った。
やがてゼルグは味を確かめ、塩を少し加えた。
「こんなものか」
待っていたクリスティーンがすぐ近づく。
「できました?」
「できた」
鍋の蓋を取ると、湯気と一緒に濃い香りが立ち上った。茶褐色の中に肉や根菜が沈み、煮崩れた野菜が全体へ馴染んでいる。
クリスティーンが改めて鍋を見る。
「これが……かれー……なんか、名前まで美味しそうに聞こえてきました」
「まだ食ってもいないだろう」
母親が皿を出し、焼いてあったパンを切った。ゼルグがカレーを盛り、四人で食卓を囲む。ところが、いざ目の前へ置かれると誰もすぐには手をつけなかった。
ゼルグが三人を見る。
「どうした?」
「いや……」
クリスティーンは匙を持ったまま皿を見つめる。
「初めて見るものって、最初の一口だけちょっと緊張するんですよ」
「ここまで見ていただろう」
「それとこれは別です」
「じゃあ俺から食うか」
父親がパンを小さくちぎり、カレーをつけた。
口へ入れ、しばらく黙った。
母親とクリスティーンが揃って父親を見る。
「……どう?」
返事の代わりに、父親は先ほどより大きなパンをちぎった。今度はたっぷりつける。
「お父さん?」
二口目を食べてから、ようやく顔を上げた。
「めちゃくちゃ美味い」
「本当?」
「何だこれ。すごいぞ」
それを聞いて、クリスティーンも恐る恐る一口掬った。
肉と野菜の味が最初に広がり、その後から何種類もの香りと、僅かな辛さが追いかけてくる。
思っていたより味が濃い。それなのにしつこくなく、飲み込んだ直後にはもう次が欲しくなった。
「……何これ」
思わず皿を見る。
もう一口。今度は肉も一緒に食べる。
「美味しい!」
母親も驚いた顔をしていた。
「本当ね。あの粉からこんな味になるの?」
「入れる順番と量で変わる」
「この芋も美味いぞ」
父親はすでにかなりの勢いで食べている。
クリスティーンもパンをカレーへ浸した。
「これも合う」
「土地によっては別の穀物と一緒に食う」
「これ、毎日でも食べられるかも」
「毎日は飽きるだろう」
母親はすでに鍋の方を見ている。
「まだある?」
「十分ある」
「じゃあ、もう少しもらおうかしら」
父親もすぐに続いた。
「俺も」
ゼルグは二人を見た。
「随分気に入ったようだな」
「気に入るわよ、これは。それで、あの香辛料はどこで買えるの?」
「全部この辺りで揃えるのは難しい。一番遠いものは、人の足ならここから半年以上かかる」
母親の表情が曇った。
「……遠いわね」
「王都なら似たものは手に入るかもしれん」
「配合は?」
父親が聞く。
「覚えている」
夫婦が顔を見合わせた。その様子を見て、クリスティーンには次に何が来るのか大体分かった。
「ゼルグさん」
彼に耳打ちする。
「何だ?」
「多分、また仕事が増えますよ」
母親がにこやかに笑う。
「今度作る時、私にも教えてくれない?」
ゼルグの匙が止まった。父親まで続ける。
「俺も覚えたいな」
「お父さん、普段料理しないでしょう」
「これは別だ」
「何が別なのよ」
「美味い」
「理由になってませんよ」
三人のやり取りを眺めながら、ゼルグは小さく息を吐いた。
「……私は何をしにこの村へ戻ったのだろうな」
クリスティーンはすぐ反応した。
「ゆっくりするためじゃないですか?」
「これがか?」
「昨日よりだいぶ村に馴染んでますよ」
「村人になった覚えはない」
「そのうち慣れます」
「勝手に決めるな」
母親が笑いながら、空いた皿をゼルグへ差し出した。
「ほら。作った人ももっと食べなさい」
「言われずとも食う」
「本当に遠慮しないのねぇ」
「遠慮しなくていいと言ったのはそちらだろう」
クリスティーンは笑いながら、自分ももう一口食べた。いつもの家、いつもの食卓、いつもの父と母。そこへ見たこともない料理が並び、向かいには遥か昔から生きる竜が座っている。
昨日なら、まだ少し不思議な光景に思えただろう。けれど今は、ゼルグが普通に父親と料理の話をし、母親におかわりを勧められていることの方が自然に見えてきた。
そんなことを考えながらゼルグを見ていると、向こうもその視線に気づいた。
「今度は何だ?」
「これ、また作ってくださいね」
「母親に教えるのではなかったのか」
「あなたが作った方が早いです」
「結局それか」
クリスティーンは笑いながら、パンをもう一切れ取った。
四人分どころか、それ以上あったはずの鍋は、気づけば半分近くまで減っていた。




