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紅き竜と黄金の少女  作者: Waffle87
第一章「伝説の再起」
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第20話「カレー」

織機の修理が一段落した頃には、窓の外もすっかり夕方の色になっていた。

作業場の奥にある扉を抜ければ、そこから先はルフェア家の生活空間だ。短い廊下を挟んで台所と食堂があり、中央には家族三人で毎日使っている木製の食卓が置かれている。


「どうぞ。適当に座ってて」


母親に促され、ゼルグが食堂へ入った。その後ろを歩いていたクリスティーンは、何となく妙な気分になった。


物心ついた頃から使っている、何の変哲もない食卓だった。幼い頃には嫌いな野菜を皿の端へ追いやって母親に叱られ、仕事が忙しい日には父親と三人で遅い夕食を取った。


そのいつもの場所で、今はゼルグが椅子を引いている。見た目だけなら、大柄な旅人を家へ招いただけだ。

けれど、その男の名前は二千年以上前の記録に残り、森の奥には本来の姿を刻んだ神殿まである。


そう考えると、やはり少しおかしい。


「……何だ?」


見ていたことに気づかれた。


「いえ。ちょっと変な感じがするだけです」


「何がだ?」


「あなたが普通にそこにいるのが」


ゼルグは自分が引いた椅子を見た。


「座ってはいけないのか?」


「そういう意味じゃありません」


「なら何だ」


「……もういいです。座ってください」


説明しても、また話が妙な方向へ行きそうだった。ゼルグが腰を下ろしたところへ、父親も作業場から戻ってくる。


「いやあ、助かった。古い方もすっかり音が消えたぞ」


「あれは軸が乾いていただけだ。油を差せば済む」


「それが分からなかったんだよ」


二台の織機をあっという間に直されたせいか、父親はすっかり感心している。

その間に母親は台所へ立ち、夕食の支度を始めようとしていた。


「さて、急がないとね。肉は燻製が残ってたし、野菜も足りそうだわ」


「待て」


ゼルグが立ち上がった。

母親が振り返る。


「何?」


「食事なら、今日は私が作ろう」


三人の動きが止まった。真っ先に反応したのはクリスティーンだった。


「料理できるんですか?」


「できるが」


「……できるんだ」


「何故驚く」


旅をしている以上、自分で食事くらい作るのだろう。ただ、織機を修理した直後に、そのまま夕食まで作ると言い出すとは思わなかった。


母親も苦笑する。


「駄目よ。今日はこっちがお礼するんだから。修理してもらった上に料理までさせたら、何のお礼か分からなくなるでしょう?」


「丁度、試したいものがある」


ゼルグは気にした様子もなく、旅袋を食卓へ置いた。中を探り、小さな瓶を一つ取り出す。

続いて二つ、三つ。

最後には五つほどの小瓶が卓上へ並んだ。


どれにも色の違う粉や乾燥した葉が入っている。黄色いもの、赤いもの、濃い茶色のものまであり、見慣れた調味料とは随分違っていた。


クリスティーンが瓶を覗き込む。


「……何ですか、これ?」


父親まで寄ってきた。


「薬か?」


「食い物だ」


「これを?」


父親が瓶へ手を伸ばす。


「そのまま舐めるな。ものによっては酷い目に遭うぞ」


手が止まった。

ゼルグが一本の蓋を開けると、刺激のある香りがふわりと広がった。

クリスティーンも少し鼻を近づける。


「変わった匂い……」


「全部使うの?」


母親も興味を引かれたらしく、いつの間にか隣へ来ている。


「量は違うが、いくつか混ぜる」


「どこの料理なの?」


「かなり遠い、暑い地方だ。この手の香辛料をよく使う」


ゼルグは瓶を閉じた。


「国が変われば、食うものも作り方も変わる。肉を焼くだけの土地もあれば、香草を大量に入れる土地もある。魚を生で食う者もいるし、何でも油で揚げる地方もある」


「魚を生で?」


父親が露骨に顔をしかめた。


「腹を壊さないのか?」


「扱い方を知っていれば問題ない」


「私は遠慮するわ」


母親は即答した。ゼルグは気にせず、今度は袋から紙包みを取り出す。中には肉があり、さらに数種類の野菜まで出てきた。


母親が目を丸くする。


「随分買ったのね」


「市場で見つけた」


そこでクリスティーンが思い出した。


「そういえば、お肉見てたって聞きました」


「誰からだ」


「市場の人です。探してた時に聞きました」


「何故そんなことまで知られている」


「聞いて回ったからですよ」


ゼルグは少し納得できない顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。

母親は並べられた材料を見ている。


「これ、一人で食べるつもりだったの?」


「そのつもりだったが」


「四人分くらいあるわよ」


「私には少ないくらいだ」


父親がクリスティーンを見る。


「お前、三人分くらいって言ってなかったか?」


「私も甘く見てたかも」


二人の会話をよそに、ゼルグは香辛料の瓶を手に取った。


「これで作る料理を、カレーという」


三人が揃って首を傾げる。


「……かれー?」


クリスティーンが聞き返した。


「聞いたことないな」


父親も瓶を眺める。


「どんな料理なんだ?」


「作った方が早い」


ゼルグは台所へ向かおうとした。

母親がまだ少し迷っている。


「でも、お客さんに台所を使わせるのはねぇ……」


「母さん」


父親が小声で言う。


「俺は見てみたい」


「あなたまで?」


「だって気になるだろ。あんな粉をいくつも混ぜるんだぞ」


「私も見たい」


クリスティーンも手を挙げた。母親は二人を見比べ、最後にため息をつく。


「……分かった。じゃあ今日は任せてみようかしら」


「最初からそう言っている」


「ただし、台所を滅茶苦茶にしないでよ」


「料理を何だと思っている」


ゼルグは袖を軽くまくった。

クリスティーンもその横へ立つ。


「何か手伝います?」


「なら野菜を洗ってくれ」


「はい」


母親は道具の場所を教え、父親は早々に見物する側へ回った。


ゼルグの手際は予想以上だった。

洗った野菜を受け取ると、肉と一緒に迷いなく切り分けていく。鍋を火へ掛け、油を引き、火の通りにくいものから順番に入れていった。


「ちょっと待ってください」


クリスティーンが手元を見る。


「何だ?」


「切るの、早すぎません?」


「これくらい普通だろう」


彼の"普通"は普通ではないことを思い出す。

母親も包丁さばきを見て少し心配そうな顔をしたが、次の瞬間には野菜がほとんど同じ大きさに切り揃えられていた。


「……もう好きにやらせた方がよさそうね」


父親が笑う。


しばらく炒めたところで水を加え、ゼルグは鍋を煮込み始めた。

やがて例の小瓶を持ってくる。

黄色い粉を少し、茶色いものをそれより多めに。赤いものはほんの僅かに加え、さらに二種類ほどを目分量で落としていく。木匙で大きく混ぜた途端、それまでとはまるで違う香りが台所いっぱいに広がった。


「あ……」


クリスティーンが思わず鍋へ近づく。

少し刺激があり、それでいて肉や野菜の甘い匂いも混じっている。初めて嗅ぐ香りなのに、不思議と腹が減ってきた。


母親もすぐ横から覗いた。


「すごくいい匂いね」


父親まで椅子から立ち上がる。


「さっきの粉だけでこうなるのか?」


「肉や野菜の味も混ざっている」


「もう食える?」


「まだだ。少し待て」


「さっきから待ってばかりだな」


「料理とはそういうものだ」


今度ばかりは誰も反論しなかった。

弱い火で煮込んでいるうちに、汁は少しずつ濃くなり、野菜も形を崩していく。色も見慣れた煮込みとは違う、深い茶褐色へ変わった。

何度も鍋を覗きに来る母親を見て、父親が笑う。


「母さん、さっきまで自分で作るって言ってたのに」


「知らない料理なんだから気になるでしょう」


「私もお腹空いてきました」


クリスティーンも言った。

やがてゼルグは味を確かめ、塩を少し加えた。


「こんなものか」


待っていたクリスティーンがすぐ近づく。


「できました?」


「できた」


鍋の蓋を取ると、湯気と一緒に濃い香りが立ち上った。茶褐色の中に肉や根菜が沈み、煮崩れた野菜が全体へ馴染んでいる。


クリスティーンが改めて鍋を見る。


「これが……かれー……なんか、名前まで美味しそうに聞こえてきました」


「まだ食ってもいないだろう」


母親が皿を出し、焼いてあったパンを切った。ゼルグがカレーを盛り、四人で食卓を囲む。ところが、いざ目の前へ置かれると誰もすぐには手をつけなかった。

ゼルグが三人を見る。


「どうした?」


「いや……」


クリスティーンは匙を持ったまま皿を見つめる。


「初めて見るものって、最初の一口だけちょっと緊張するんですよ」


「ここまで見ていただろう」


「それとこれは別です」


「じゃあ俺から食うか」


父親がパンを小さくちぎり、カレーをつけた。

口へ入れ、しばらく黙った。

母親とクリスティーンが揃って父親を見る。


「……どう?」


返事の代わりに、父親は先ほどより大きなパンをちぎった。今度はたっぷりつける。


「お父さん?」


二口目を食べてから、ようやく顔を上げた。


「めちゃくちゃ美味い」


「本当?」


「何だこれ。すごいぞ」


それを聞いて、クリスティーンも恐る恐る一口掬った。

肉と野菜の味が最初に広がり、その後から何種類もの香りと、僅かな辛さが追いかけてくる。

思っていたより味が濃い。それなのにしつこくなく、飲み込んだ直後にはもう次が欲しくなった。


「……何これ」


思わず皿を見る。

もう一口。今度は肉も一緒に食べる。


「美味しい!」


母親も驚いた顔をしていた。


「本当ね。あの粉からこんな味になるの?」


「入れる順番と量で変わる」


「この芋も美味いぞ」


父親はすでにかなりの勢いで食べている。

クリスティーンもパンをカレーへ浸した。


「これも合う」


「土地によっては別の穀物と一緒に食う」


「これ、毎日でも食べられるかも」


「毎日は飽きるだろう」


母親はすでに鍋の方を見ている。


「まだある?」


「十分ある」


「じゃあ、もう少しもらおうかしら」


父親もすぐに続いた。


「俺も」


ゼルグは二人を見た。


「随分気に入ったようだな」


「気に入るわよ、これは。それで、あの香辛料はどこで買えるの?」


「全部この辺りで揃えるのは難しい。一番遠いものは、人の足ならここから半年以上かかる」


母親の表情が曇った。


「……遠いわね」


「王都なら似たものは手に入るかもしれん」


「配合は?」


父親が聞く。


「覚えている」


夫婦が顔を見合わせた。その様子を見て、クリスティーンには次に何が来るのか大体分かった。


「ゼルグさん」


彼に耳打ちする。


「何だ?」


「多分、また仕事が増えますよ」


母親がにこやかに笑う。


「今度作る時、私にも教えてくれない?」


ゼルグの匙が止まった。父親まで続ける。


「俺も覚えたいな」


「お父さん、普段料理しないでしょう」


「これは別だ」


「何が別なのよ」


「美味い」


「理由になってませんよ」


三人のやり取りを眺めながら、ゼルグは小さく息を吐いた。


「……私は何をしにこの村へ戻ったのだろうな」


クリスティーンはすぐ反応した。


「ゆっくりするためじゃないですか?」


「これがか?」


「昨日よりだいぶ村に馴染んでますよ」


「村人になった覚えはない」


「そのうち慣れます」


「勝手に決めるな」


母親が笑いながら、空いた皿をゼルグへ差し出した。


「ほら。作った人ももっと食べなさい」


「言われずとも食う」


「本当に遠慮しないのねぇ」


「遠慮しなくていいと言ったのはそちらだろう」


クリスティーンは笑いながら、自分ももう一口食べた。いつもの家、いつもの食卓、いつもの父と母。そこへ見たこともない料理が並び、向かいには遥か昔から生きる竜が座っている。


昨日なら、まだ少し不思議な光景に思えただろう。けれど今は、ゼルグが普通に父親と料理の話をし、母親におかわりを勧められていることの方が自然に見えてきた。


そんなことを考えながらゼルグを見ていると、向こうもその視線に気づいた。


「今度は何だ?」


「これ、また作ってくださいね」


「母親に教えるのではなかったのか」


「あなたが作った方が早いです」


「結局それか」


クリスティーンは笑いながら、パンをもう一切れ取った。

四人分どころか、それ以上あったはずの鍋は、気づけば半分近くまで減っていた。

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