第19話「織機の修理」
翌日の午後、ルフェア家の作業場には、織機の規則正しい音が響いていた。
通りに面した店の奥、住居との間にある広い部屋には、大小いくつもの織機が並んでいる。壁際には染色前の糸が束ねられ、棚には色ごとに分けられた糸巻きや木製の道具が隙間なく収められていた。
クリスティーンはそのうちの一台に座り、足元の踏み木を一定の調子で動かしていた。
ぱたん、ぱたん、と杼が左右へ走る。
子供の頃から何度となく聞いてきた音だった。
父親から細かいところを注意されることは今でもあるが、普通の仕事なら一人で任せてもらえる程度には慣れている。
少し離れたところでは、父親も別の織機へ向かっていた。
「そっち、あとどれくらいだ?」
「もう少し。今日中には終わると思う」
「明日の午前に間に合えばいい。急がなくていいぞ」
「分かってるって」
糸の張りを確かめながら答える。昨日まではゼルグのことばかり考えていたが、今日は朝から家の仕事だった。本人がしばらく村にいると分かったせいか、不思議と気持ちも落ち着いている。
今日会わなければならないわけでもない。村にいるなら、明日にでも顔を出そうと思っていた。
夕方が近づき、窓から差し込む光が少しずつ橙色へ変わり始めた頃だった。それまで軽快に動いていた織機から、不意に低い音が響いた。
がこん。
クリスティーンの足が止まる。
「……ん?」
慎重にもう一度踏み木へ力を掛けると、今度は木が軋んだだけで、杼が途中から動かなかった。
「お父さん」
「どうした?」
「ちょっと変」
「糸が絡んだか?」
「多分違う」
父親が手を止めてやってくる。クリスティーンは織機の横へ回り、糸や杼を確認したが、目立った引っ掛かりはない。父親もしゃがみ込み、下の機構を覗いた。
「もう一回だけ踏んでみろ。ゆっくりな」
「うん」
踏み木を下げる。途中までは動いたものの、ある位置まで来ると急に重くなった。
「止めろ」
すぐに父親が声を掛けた。
「無理にやるな。余計に噛むかもしれん」
クリスティーンは足を離す。二人で内部を覗き込んでいると、店先にいた母親まで様子を見に来た。
「どうしたの?」
「こいつが止まった」
「また糸?」
「いや、今回は下の方らしい」
父親は木枠の奥へ手を入れ、いくつかの連結部分を順番に確かめていった。クリスティーンも横から覗き込み、気になるところを指差してみる。
「ここじゃない?」
「そこは動いてる」
「じゃあ何だろう?」
「それが分かればもう直してる」
もっともな返事だった。
織機は外から見れば単純な道具に見えるが、内部ではいくつもの木製部品が連動している。どこか一つの位置が僅かにずれただけでも、全体の動きがおかしくなる。
しばらく調べていた父親は、やがて諦めたように息を吐いた。
「……今日は触らない方がいいな」
「直らない?」
「原因が分からんまま動かす方がまずい。明日の分は別の機でやる」
「でも、そっちも仕事入ってるでしょう?」
「仕方ない。少しずらす」
母親が腕を組んだ。
「修理の人は?」
「王都へ行ってる。しばらく戻らん」
「じゃあ、それまで止めるしかないのね」
父親は不満そうに織機を眺めた。
「こんな止まり方は初めてだな……」
その言葉を聞きながら、クリスティーンも横へしゃがみ込む。動かなくなった機構を見ているうちに、ふと昨日の光景が頭へ浮かんだ。
村へ戻った途端、井戸や屋根の修理を頼まれていた赤髪の男。
建物にも道具にも妙に詳しく、大抵のことなら見れば分かると言わんばかりの顔をしている。
「……あ」
クリスティーンが顔を上げる。両親が同時にこちらを見た。
「何だ?」
「直せそうな人、知ってる」
父親が眉を寄せる。
「誰だ?」
「ちょっと呼んでくる!」
「待て、誰を―」
最後まで聞かず、クリスティーンは作業場を飛び出した。残された母親が扉を見つめる。
「……誰のこと?」
父親は少し考えた。
「さあな」
もっとも、勢いよく家を出たはいいものの、ゼルグがどこにいるのかまでは聞いていなかった。
まず泊っている宿へ行ったが不在。井戸の辺りにもいない。英雄神殿の前を通ってみても姿はなかった。
「もう……どこ行ったのよ」
村にいてくれとは言ったものの、一日中同じ場所にいるわけではない。
仕方なく通りを歩きながら何人かに聞いて回ると、ようやく昼頃に市場で見たという話を聞いた。
「何か肉を見てたぞ」
「肉?」
「買ったかどうかは知らん」
「ありがとうございます!」
市場へ向かう。夕方前ということもあり、すでに店じまいを始めている露店も多かった。
大柄な赤髪なら、いればすぐ分かる。そう思いながら果物屋、肉屋、パン屋の前を見て回り、市場を一周しかけたところで、ようやく広場の端にその姿を見つけた。
木製の長椅子に腰掛け、片腕を背もたれへ乗せたまま、市場をぼんやり眺めている。
クリスティーンは思わず足を止め、昨日の自分の言葉を思い出す。
"広場でぼーっとするとか"
「……本当にやってる」
思わず笑ってしまった。
もっとも、本人がそのつもりで座っているのかは分からない。クリスティーンが近づき、周囲が聞こえないぐらいの声量で彼を呼んだ。
「ゼルグさん!」
赤い目がこちらを向いた。
「随分急いでいるな」
「ちょっと来てください!」
「またか」
「またです」
ゼルグは諦めたように少し息を吐いた。
「今度は何だ?」
「織機が壊れました。お父さんでも原因が分からなくて、修理できる人も今村にいないんです」
「それで私を探していたのか」
「直せそうかなって」
「見なければ分からん」
「じゃあ見てください!」
少し考えてから、ゼルグは立ち上がった。
「構わん」
「よかった!」
クリスティーンはすぐ歩き出し、数歩先で振り返る。
「こっちです」
「分かっている。先に行くな」
「急いでるんです」
「織機は逃げんだろう」
「逃げないですけど!」
結局いつもの調子で、ゼルグを家まで連れていくことになった。
ルフェア家が近づくにつれ、クリスティーンは少しだけ歩調を落とした。
考えてみれば、彼を自分の家へ連れてくるのは初めてだった。
祭りで一緒に歩き回り、酒場で昼食まで食べたのだから、今さら気にするようなことでもない。それでも、毎日暮らしている場所へ招き入れるとなると、何となく勝手が違う。
「ただいま!」
扉を開けると、奥から母親の声がした。
「早かったね」
「連れてきた!」
「誰を?」
店の奥から出てきた母親が、クリスティーンの後ろに立つ男を見て足を止める。
ゼルグは軽く頭を下げた。
「邪魔する」
「……まあ」
母親が見上げた。かなり見上げる。
「大きな人だねぇ」
作業場から父親も顔を出した。
「ああ、あんたが例の赤髪の」
「例?」
ゼルグがクリスティーンを見る。彼女は少し視線を逸らした。
「村で有名なんですよ」
「不本意だな」
父親は近づきながら、改めてゼルグの体格を見る。
「本当にでかいな」
「今日はそれを何度も言われた」
その横で、母親は別のところを見ていた。
「それにしても……なんてハンサムなの」
「お母さん!」
クリスティーンが思わず声を上げる。
「何よ」
「本人の前で言わないでよ!」
「褒めてるんだからいいじゃない」
当のゼルグは特に気にした様子もなく、「そうか」とだけ返した。
母親の方が少し面食らう。
「随分あっさりしてるのね」
「何と返せばよい?」
「普通はありがとう、とかじゃない?」
ゼルグは少し考えた。
「……ありがとう」
言われた通りに答える。
「もう、早く織機見てもらおう……」
父親が苦笑しながら作業場へ案内する。中へ入ったゼルグは、並んだ織機や糸束をゆっくり見回した。
「ほう」
先ほどまでとは少し違い、興味を持ったようだった。
「これがお前の家の仕事場か」
「はい。家族みんなで使ってます」
ゼルグは使い込まれた木枠や、壁際に積まれた糸へ視線を移す。
「随分古いものも残っているな」
父親が頷いた。
「古いのは爺さんの代より前からある。部品は何度も替えてるがな」
「なるほど」
クリスティーンは一瞬だけゼルグを見る。昨日聞いた話を思い出していた。システィーンの家も、織物を生業にしていたという。
ゼルグも同じことを考えたのかもしれないが、何も言わなかった。
「壊れたのはこれです」
クリスティーンが問題の織機を指す。ゼルグはまず全体を眺め、それからしゃがみ込んだ。
「止まった時、何をしていた?」
「普通に織ってました。急に変な音がして、それから踏み木が途中で重くなって」
「無理に動かしたか?」
「一回だけ。すぐお父さんが止めました」
「なら大丈夫だろう」
父親も横へしゃがむ。
「俺も一通り見た。糸でもないし、連結も外れてない。歯車も欠けてない」
ゼルグは木枠の下へ手を入れ、いくつかの部品を順に動かした。横へ回り、巻き取り部分を確認し、最後に上部へ目を向ける。
その間、ほとんど迷いがない。
やがて一本の細い軸へ指を当てた。
「……これだな」
「もう分かったんですか?」
「おそらく」
父親も身を乗り出す。
「どこだ?」
「この軸が僅かにずれている。受け側の木が長年削れて、位置が外へ逃げたらしい」
見た目にはほとんど分からない程度の違いだった。
「それだけで?」
「それだけではない」
ゼルグは別の連結部を指した。
「こちらも以前の修理で少し位置が変わっている。それに、この紐も縮んでいるな。どれも一つなら問題にならんが、重なって途中で噛んだ」
「紐って縮むんですか?」
「湿気を吸って乾くことを繰り返せばな」
そう言いながら、近くの工具へ手を伸ばす。
「借りるぞ」
父親が頷くと、ゼルグは軸を一度緩め、僅かに位置を戻した。削れた受け部分へ薄い木片を挟み、小刀で余分な部分だけ削っていく。
作業は驚くほど早かった。数分後、ゼルグは工具を置いた。
「動かしてみろ」
「もう?」
「試せば分かる」
クリスティーンが座り、恐る恐る踏み木を押す。
ぱたんと杼が走った。
もう一度やってみたが、今度も引っ掛からない。
「……直った」
何度か動かしてみても問題はなかった。父親もゼルグが触った部分を確かめる。
「本当に直ってるな……」
「しばらくは使える。ただ、受け側は削れているから、いずれ作り直した方がいい。次はもう少し硬い木を使え。それと、この辺りは時々油を差した方が長持ちする」
父親はしばらく黙っていた。
「……あんた、織機職人なのか?」
「違う」
「じゃあ、何で分かるんだ?」
「見れば分かるだろう」
三人が織機を見て、それからゼルグを見る。
そしてクリスティーンが口を開いた。
「分からないから困ってたんですけど」
「そうなのか?」
「そうですよ!」
父親は呆れたように笑った。
「いや、でも助かった。明日の仕事が止まるところだった」
「この程度なら気にするな」
「こっちにとっては大事なんだよ」
母親も頷く。
「せっかく来てもらったんだし、お礼しないとね」
「別に要らん、礼をして欲しくて直した訳ではない」
「駄目よ。もう夕方だし、ご飯食べていきなさい」
その瞬間、ゼルグの反応がほんの少しだけ変わった。
クリスティーンは見逃さなかった。
「……今、ちょっと嬉しそうな顔しましたよね?」
「していない」
「しました」
母親が笑う。
「たくさん作るから遠慮しないで」
「遠慮する必要があるのか?」
「お母さん、この人、本当にいっぱい食べるから」
「どのくらい?」
「多分、お父さんの三人分くらい」
父親が振り返る。
「そんなに食うのか?」
「腹が減っていれば」
母親の表情が急に真剣になる。
「じゃあ肉、足りるかしら」
「裏に燻製が残ってただろ」
「それも出しましょうか」
気づけば、ゼルグは完全に夕食へ参加する流れになっていた。クリスティーンは直った織機から立ち上がる。
「……本当に食べていくんですか?」
「母上が食べていけと言ったのだろう」
「私のお母さんです」
「知っている」
「なんか変な感じ……」
「何がだ?」
「何でもないです」
ゼルグは気にした様子もなく、修理した箇所をもう一度確認していた。すると今度は父親が、少し離れた古い織機を指差す。
「ついでなんだが、こっちも前から変な音がしててな」
「お父さん!」
「何だよ。せっかく詳しい人がいるんだから」
ゼルグはすでにそちらへ歩いていた。
「どこから音がする?」
「そこ、引き受けるんですか!?」
母親の笑い声が作業場に響く。
結局、夕食の支度が整うまでにゼルグが見ることになった織機は、一台だけでは済みそうになかった。




