第18話「少しくらい、ゆっくり」
昼食を終えて酒場を出た頃には、午後もだいぶ進んでいた。
店先へ出たゼルグは、一度大きく息を吐いた。ようやく腹が満たされたせいか、村へ戻ってきた時より幾分機嫌がよさそうに見える。
その隣を、クリスティーンが歩いていた。
昼食の間だけでも相当な数の質問を浴びせたはずなのだが、まだ聞き足りないらしい。何度かゼルグの方を見ては、何か言いかけて口を閉じている。
二人が村の中央を抜け、英雄神殿の前へ差しかかった時、通りの向かいで店の庇を直していた年配の男が、脚立の上からゼルグを見つけて手を上げた。
「おう、兄ちゃん!」
ゼルグが足を止める。
「今度暇な時でいいから、うちの屋根も見てくれ!」
「何故、戻るたびに仕事が増えるのだ」
「得意なんだろ?」
「得意だと言った覚えはない」
「でも前にあっという間に直したじゃねえか」
ゼルグは何か言い返しかけたが、結局面倒になったらしい。
「……暇ならな」
「頼んだぞ!」
男は満足そうに作業へ戻った。
「もう完全に村の便利屋さんですね」
「笑い事ではない」
「でも、結局断らないじゃないですか」
「大した手間ではないからだ」
「そういうところですよ」
ゼルグが怪訝そうに見る。
「何の話だ」
「何でもありません」
クリスティーンは楽しそうに答え、それ以上説明しなかった。
しばらく歩くと人通りが減り、道の片側には低い石垣、その向こうには畑が広がった。春も深まり、土から伸びた若い芽が風に揺れている。
そこでようやく、ゼルグは隣が妙に静かなことに気づいた。
「先ほどから随分静かだな」
「え?」
「酒場では、こちらが食う暇もないほど喋っていただろう」
「私だって、ずっと喋ってるわけじゃないですよ」
「そうなのか?」
「失礼ですね」
そう返したものの、クリスティーンは少し困ったように笑った。
本当は、ずっと聞こうか迷っていた。昼食の間にも機会はいくらでもあったのに、これだけは何となく切り出せなかったのだ。
少し歩いてから、ようやく口を開く。
「ゼルグさん」
「今度は何だ?」
「今度は……どれくらい、この村にいるんですか?」
何でもない質問のように聞いたつもりだった。だが、最後の方だけ少し声が弱くなった。
ゼルグはすぐには答えなかった。
「さてな。今のところ、数日はいるつもりだが」
「数日……」
「前と同じくらいになるかもしれん」
クリスティーンの肩が、ほんの少し下がる。それを見たゼルグが横目を向けた。
「何か不満か?」
「いえ」
「そうは見えん」
「そんなに顔に出てます?」
「分かりやすいぞ」
クリスティーンは少し唇を尖らせた。
「……また、すぐ行っちゃうんだなって思っただけです」
「旅をしている以上、いずれは出る」
「それは分かってますけど」
「村の者からは、好きなだけいて構わんとは言われているが」
「じゃあ、いてくださいよ」
間髪を入れずに返された。
今度はゼルグが彼女を見る。
「好きなだけいていいって言われてるんでしょう?」
「そうではあるが」
「なら、最初から数日って決めなくてもいいじゃないですか」
「何故そこまで長居させたがる」
聞かれて、クリスティーンは言葉に詰まった。
なぜそこまで、と改めて聞かれると、自分でも上手く説明できない。
ただ、せっかく戻ってきたのに、またすぐ旅立たれるのは何となく面白くなかった。
目の前の男は、長い年月を各地を巡りながら生きてきた。伝承にも、紅き竜ゼルグ・グラヴェルドは大きな戦いの後も世界を見守り続けた、とある。
「そういえば……本には、ゼルグさんがずっと世界を守ってきたって書いてありました」
「随分と大袈裟な書き方だな」
「でも、各地を見て回ってたんですよね?」
「それは事実だ」
「二千年ずっと?」
ゼルグは少し考えた。
「ずっと歩き回っていたわけではない。長く一つの土地に留まった時期もあるし、人里から離れていたこともある。ただ、何か異変があれば見に行く程度のことはしていた」
「じゃあ、その二千年の間に……昔みたいな大きな戦いって、何回くらいあったんですか?」
「昔みたいな?」
「国がいくつも巻き込まれるとか、世界そのものが危なくなるような」
それを聞いて、ゼルグは少し眉を寄せた。
「そこまでのものはないな」
「一度も?」
「二千年前の戦いと並べられるようなものは、一度もない」
国同士の小競り合いなら何度もあった。魔獣が異常に増えた土地もあれば、危険な術へ手を出した者もいる。
しかし、いずれも世界全体へ広がるほどの災厄にはならなかったという。
「じゃあ……基本的には平和だったんですね」
「少なくとも、私が出張らねば世界が滅びるような時はなかった」
「二千年も?」
「人間には長いのだろうな」
「長いですよ」
クリスティーンは畑の向こうへ目をやった。どこにでもある、穏やかな村の午後だった。
「その間も、何か起きてないか見ながら旅してたんですか?」
「気になる話があれば確かめ、必要なら手を貸す。それが済めば、また別の場所へ行く。その繰り返しだ」
「ずっと?」
「結果的にはな」
クリスティーンは少しだけ黙った。
きっとこの男は今と同じように、どこかの道を歩いていたのだろう。異変があれば確かめ、困っている者がいれば手を貸し、それが終わればまた次へ向かう。
本人にとっては、それが普通なのかもしれない。
「……じゃあ、急いで次へ行く必要ってあるんですか?」
ゼルグが彼女を見る。
「どういう意味だ?」
「だって、今すぐどこかで大変なことが起きてるわけじゃないんでしょう?」
そこでゼルグは少しだけ表情を変えた。
「気になることがないわけではない」
クリスティーンも、彼が西の山から戻ったばかりなのを思い出す。
ゼルグは少し先の道を見ながら続けた。
「西で妙な連中を見た。何を企んでいるのかは、まだ分からん。手掛かりも途切れている」
「危ないんですか?」
「その可能性はある。だから忘れるつもりはない」
声に緊張はなかったが、軽く扱っている様子もなかった。
「何か動きが分かれば、その時は行く。必要なら大陸の端でもな」
それから、少し間を置く。
「だが今は、追えるものがない」
クリスティーンは小さく頷いた。
「じゃあ、今すぐ行かなきゃいけない場所は?」
「今の所は、ないな」
「だったら、もう少しここにいてもいいんじゃないですか?」
少しだけ勢いを取り戻す。
ゼルグは答えず、また歩き始めた。
クリスティーンも隣へ並ぶ。
「村の人たちも、いていいって言ってますし」
「あれは仕事をさせる気も混じっているだろう」
「それは……否定できませんけども、それだけじゃないですよ。今日だって、みんな本当に嬉しそうだったでしょう?」
「大袈裟だ」
「入口にあれだけ集まってたのに?」
「暇だったのだろう」
「素直じゃないなあ」
ゼルグが横を見る。
「何か言ったか?」
「何でもないです」
クリスティーンは少し歩調を緩めた。
「ゼルグさんって、いつも次に行かなきゃいけないって思ってません?」
今度はゼルグの返事が遅れた。
「……そう見えるか?」
「ちょっとだけ」
「各地を見て回れば、何か起きた時に早く気づける」
「それは分かります。でも……」
クリスティーンもゼルグの言うことを否定したいわけではなかった。
「それをずっと続けてたら、いつ休むんですか?」
ゼルグが足を止めた。クリスティーンは二歩ほど進んでから気づき、振り返る。
「休む?別に疲れてはいないぞ」
「そういう意味じゃなくて」
案の定、そこから説明しなければならなかった。
クリスティーンは少し考える。
「ずっと”何か起きるかもしれない”って思って次の土地へ行って、その次へ行って……ってしなくてもいいんじゃないですか、ってことです」
「だが、それが私のやってきたことだ」
「だからですよ」
ゼルグの眉が僅かに動いた。
「二千年もやってきたなら、少しくらい違うことしてもいいじゃないですか。例えば、この村で屋根を直したり」
「結局仕事ではないか」
「例えです!」
「悪い例えだな」
「じゃあ昼まで寝るとか」
「そこまで眠くない」
「広場でぼーっとするとか」
「何のために?」
「何もしないためですよ!」
ゼルグは本気で分からないような顔をした。
「何もしないために、わざわざ時間を使うのか?」
「もう!」
クリスティーンは笑いながら額を押さえる。
「じゃあ、普通に村にいればいいんです。朝起きて、ご飯食べて、人と話して、頼まれたら何か手伝って、疲れたら休む」
「それなら今も似たようなことをしているぞ」
「数日だけじゃなくて、もっとです」
クリスティーンの声が、少しだけ小さくなった。
「一週間でも、二週間でも。一か月でも」
ゼルグは黙って彼女を見る。
「……もちろん、行かなきゃいけないことができたら別ですよ」
「その時は行く」
答えは迷いがなかった。
「だが、何もなければ……確かに、急ぐ理由もないか」
クリスティーンが顔を上げる。
「じゃあ、いてくださいよ」
ゼルグは少しだけ目を細めた。
「随分と簡単に言うな」
「だって、せっかく戻ってきたのに、また数日でいなくなるって聞いたら……」
そこで一度言葉に詰まる。
「何だ?」
「だって、せっかく戻ってきたのに、またすぐいなくなるのはつまらないじゃないですか」
「つまらない?」
「そうですよ。祭りだって一緒にいた方が面白かったし、村のみんなだってもう顔を覚えてますし」
ゼルグは珍しく何も返さなかった。
その顔を見て、クリスティーンが微笑む。
「何ですか、その顔」
「……いや」
「二千年どころじゃないくらい生きてるのに、こんなこと言われたことないんですか?」
「こういう言われ方は珍しいな」
それを聞いたクリスティーンがクスッと笑う。
「だから、そんな困った顔をしてるんですね」
「困ってはいない」
「絶対困ってます。顔に出てますよ」
「決めつけるな」
しばらく言い合ったあと、ゼルグは小さく息を吐き、再び歩き始めた。
クリスティーンもすぐに追いつく。
「それで?もう少しいてくれるんですか?」
今度はゼルグもすぐには答えなかったが、前を向いたまま口を開いた。
「……元々、数日で出ると決めていたわけではない」
クリスティーンが顔を上げる。
「では?」
「手掛かりが出れば西の件を追う。そのほかにも、我が行く必要のあることが起きれば行く」
そこで彼女をちらりと見る。
「何もなければ、もう少しいても構わんだろう」
「本当ですか?」
一気に声が明るくなった。ゼルグが僅かに顔をしかめる。
「だから声が大きい」
「だって!」
「今すぐ出る理由もない。しばらくはいる」
「一週間?」
「何故そこで期限を決める」
「二週間?」
「聞いているか?」
「一か月?」
「増やすな」
クリスティーンは楽しそうに答えた。
「じゃあ、しばらくですね」
「それでいい」
「私もそれでいいです」
「何故お前まで許可する側なのだ」
「気のせいです」
ゼルグは呆れたように息を吐いた。
二人が村の中心へ戻る途中、先ほどの男が屋根の上からゼルグを見つけ、手を振った。
「兄ちゃん!さっきの話、忘れるなよ!」
ゼルグが露骨に嫌そうな顔をする。
「ほら。もう少しいる理由、できましたよ」
「やはり仕事ではないか」
「いいじゃないですか。世界を守るより平和でしょう?」
ゼルグは何か言い返そうとして、少し考えた。
確かに、屋根の修理で世界が滅びることはない。
「……まあ、それはそうだな」
クリスティーンが満足そうに鼻歌を奏でる。
ゼルグはその横顔を一度だけ見て、そのまま歩き続けた。
いつもなら、次にどこへ向かうのかを考え始めている頃だったが、今のところ、その必要はない。
ならばしばらく、この村にいればいい。
ゼルグはそう結論づけた。
少なくとも、屋根を一つ直すくらいの時間はありそうだった。




