第21話「名前の由来」
食事が終わる頃には、あれだけあった鍋の中身もほとんど残っていなかった。
父親は最後のパンで皿に残ったカレーまできれいに拭い、満足そうに椅子の背へ身体を預けている。母親は空いた皿を重ねながらも、食卓に並んだ香辛料の小瓶がまだ気になるらしい。
「これ、本当にまた作りたいわね」
「全部揃えるのは少し面倒だぞ」
「近くで手に入るものだけじゃ駄目?」
「似た味にはできる。今日と全く同じにはならんが、それでよければな」
「十分よ。今度、何を買えばいいか教えて」
「その程度なら構わん」
あっさり引き受ける姿を見て、クリスティーンは思わず笑った。村に戻ってきてから、馴染む速度がおかしい。
「どんどん仕事増えてません?」
「誰のせいだと思っている」
「私、今日は織機しか頼んでませんよ」
「そこから夕食まで増えたのだが」
「夕食は自分から作るって言ったじゃないですか」
ゼルグは少し考え、反論を諦めた。
「……それはそうだな」
父親が二人のやり取りを眺めながら笑っていたが、ふと何かに気づいたように口を開いた。
「そういや、あんた」
クリスティーンの手が止まる。何となく嫌な予感がした。
「名前、何ていうんだ?」
やっぱり。
そういえば、両親の前では一度も名前を呼んでいない。
家へ連れてきた時も、村で噂になっている赤髪の旅人だとしか説明していなかった。ゼルグ本人も名乗る様子がなかったので、そのまま夕食まで来てしまったのだ。
父親に尋ねられたゼルグは、しばらく相手の顔を見た。
そして、何でもないことのように答える。
「名乗るほどの者ではない」
「いやいや」
父親が笑った。
「織機を二台も直して、飯まで作ってもらった相手の名前を知らないままってのは変だろ」
母親も皿を持ったまま頷く。
「そうよ。もう家まで来てるんだから、今さら遠慮しなくていいじゃない」
「遠慮しているわけではない」
「じゃあ、何で教えてくれないの?」
ゼルグが黙った。クリスティーンは横からそっと様子を窺う。
おそらく本人としては、本当に名乗る必要がないと思っていただけなのだろう。だが、さすがに同じ食卓を囲んだ相手にまでそれで通すのは無理がある。
ゼルグもそう判断したらしい。わずかに息を吐いた。
「……ゼルグだ」
食卓が静かになった。父親の笑みが止まり、母親も皿を持ったまま目を瞬かせる。
クリスティーンは心の中で、来た、と呟いた。
「……ゼルグ?」
父親が確認する。
「そうだ」
母親が首を傾げた。
「ゼルグって……どこかで……」
数秒後、先に思い当たったのは父親だった。
「ゼルグって、あのゼルグか?」
「え?」
「あれだよ。英雄たちと一緒に戦ったっていう、伝説の―」
「違う!」
クリスティーンの声が食卓に響いた。三人が一斉にこちらを見る。
父親が目を丸くした。
「……何が?」
「え?」
自分でも一瞬固まった。勢いだけで否定してしまったものの、その先は何も考えていない。
ゼルグを見る。黙っている。助ける気はないらしい。
「いや、その……同じ名前なだけ!」
「何でお前が知ってるんだ?」
「聞いたから!」
「誰に?」
「この人に!」
クリスティーンは横のゼルグを指し、一気に畳みかけるように続けた。
「この人のご両親が昔から英雄のゼルグ・グラヴェルドが大好きだったらしくてそれで息子にもあの英雄みたいに強く立派な男になってほしいって願いを込めて同じ名前をつけたそうなんだよ!!!」
一息で言い切った。
食堂に沈黙が落ちる。父親がゆっくりゼルグを見る。
「……そうなのか?」
「そう!」
「お前には聞いてない」
「そうなんだよ!」
「だから何でお前が答えるんだよ」
「知ってるから!」
「さっきから随分必死だな」
「必死じゃないよ!」
母親まで怪訝そうに娘を見ている。
「クリスティーン、ちょっと顔赤くない?」
「さっき走って探し回ったから!」
「それ、もう何時間も前でしょう?」
どんどん苦しくなってきた。クリスティーンは再びゼルグを見る。今度こそ助けてと、目でそう訴えたつもりだった。
ゼルグもこちらを見る。その顔には、どう見ても”別に本当のことを言えばよいのではないか”と書いてあった。
クリスティーンは無言で睨み返した。今それをやられたら、全部終わる。
そんな二人には気づかず、父親は腕を組んだ。
「まあ……英雄の名前を子供につける家はあるか」
「あるわね」
母親も納得しかけている。
「それに、ゼルグって名前、似合ってるじゃない」
本人が聞き返した。
「どういう意味だ?」
「強そうでしょう?」
「名前に強そうも何もあるのか?」
父親はゼルグを上から下まで眺めた。
「しかし、偶然にしては出来すぎてるよな」
クリスティーンの肩が僅かに強張った。
「何が?」
「名前がゼルグ。でかい。赤髪。ものすごく力が強いらしい。見たこともないくらい物知り。織機まで直せる」
母親も続く。
「それに男前」
「それ関係ある?」
クリスティーンが思わず突っ込む。
母親がゼルグを見る。
「でも、ご両親の願い通りにはなったんじゃない?」
「何がだ」
「強くなったんでしょう?」
ゼルグは少し考えた。
「まあ、弱くはないな」
クリスティーンが横で目を細める。
弱くはない。
惑星でも壊せそうな竜が言う言葉ではない。
父親は楽しそうに笑った。
「いい名前をつけてもらったな」
「……そうだな」
ゼルグは否定しなかった。クリスティーンは思わず彼を見る。
実際に誰が名付けたのか、自分は知らない。何しろ今の話は全部、数十秒前に思いついたものだ。
「しかし、ゼルグなんて名前を実際に聞くのは珍しいな」
父親が空いた杯へ水を注ぐ。
「そんなに?」
「そりゃそうだろ。伝説に残ってる奴、ましては竜と同じ名前をつけるのは、結構勇気がいるぞ」
母親も笑う。
「名前負けしたら大変だものね」
「その点、この兄ちゃんなら大丈夫そうだけどな」
ゼルグは何とも言えない顔をした。
「そうか」
クリスティーンはその会話を聞いて、皮肉を感じずにはいられなかった。
本人そのものを相手に、「英雄と同じ名前でも名前負けしていない」と評価している。事情を知っていると、何とも妙な会話だった。
母親は皿を抱えて立ち上がる。
「じゃあ、ゼルグさんね。覚えたわ」
母親は台所へ戻り、父親も食後の茶を用意するため棚の方へ向かった。
二人の注意が逸れたところで、ゼルグがクリスティーンへ顔を寄せる。
「何故、あんな嘘をついた」
「声、小さく!」
クリスティーンが慌てて口元へ指を立てた。
「聞こえますって」
ゼルグも少し声を落とす。
「別に本当のことを言っても構わなかったのだが」
「駄目です」
「何故?」
「お父さんとお母さんが知ったら、絶対誰かに喋ります」
「そういうものか?」
「絶対です」
その時、母親が台所から顔を出した。
「何か言った?」
「何でもない!」
クリスティーンが即答する。母親は不思議そうな顔をしながら、また引っ込んだ。
ゼルグがぼそりと言った。
「今のはお前が大声を出したからではないか?」
「それは置いておいてください」
「都合がいいな」
「とにかく、正体が村中に広まったら大変でしょう?」
「私は別に困らんぞ」
「私が困ります」
「何故お前が?」
「毎日あちこちから人が来るようになったらどうするんですか。”本当に伝説のゼルグなのか”とか、”竜になってみてくれ”とか、”火を吐けるのか”とか」
ゼルグは少し想像したらしい。
「……面倒だな」
「でしょう?」
「なら、しばらく黙っておくか」
「最初からそうしてください」
ゼルグは頷きかけ、ふと何かを思い出したように彼女を見る。
「それより一つ聞きたい」
「何です?」
「私の両親が、英雄にあやかってゼルグと名づけたという話はどこから出てきた?」
クリスティーンは少し目を逸らした。
「……咄嗟に」
「随分と具体的だったぞ」
「自分でもびっくりしました」
「お前は案外、嘘をつく才能があるのかもしれんな」
「全然嬉しくないです、その評価」
ゼルグの口元が僅かに緩んだ。
「今、笑いました?」
「笑っていない」
「絶対笑いました」
「気のせいだろう」
「最近それ多くないですか?」
そこへ父親が茶を持って戻ってきた。
「何の話だ?」
クリスティーンはすぐに姿勢を戻す。
「何でもないよ」
「またそれか」
ゼルグが横から口を挟んだ。
「何?」
「お前は何かある時ほど"何でもない"と言うな」
「ゼルグさん!」
もう名前を隠す必要がないとはいえ、余計なことまで言う必要もない。父親は二人を見比べ、声を上げて笑った。
「お前ら、随分仲いいんだな」
クリスティーンは一瞬だけ言葉に詰まる。
「……村に来てから、何度か話してるから」
「そうかそうか」
父親は深く考える様子もなく、ゼルグの前へ茶を置いた。
「ほら。食後に飲んでけ」
「頂こう」
クリスティーンは小さく息を吐いた。どうやら、ひとまず誤魔化せたらしい。
父親から出された茶を普通に受け取っている。少し前には家の織機を直し、その後はカレーを作り、今では本名まで「伝説の英雄にあやかって両親がつけた」ということにされてしまった。
それでも本人は、特に気にした様子もなく茶を飲んでいる。




