第16話「帰ってきた旅人」
ゼルグがデイン村を発ってから、およそ二週間が過ぎた。
昼を少し回った頃、南側の街道沿いで荷物を運んでいた男が、ふいに手を止めた。
遠くから、一人の旅人が村へ向かって歩いてくる。
しばらく目を細めていた男は、やがて相手の髪の色に気づいたらしい。
「おーい!帰ってきたぞ!」
突然の大声に、近くにいた者たちが一斉に振り向いた。
「何が?」
「あの兄ちゃんだよ。赤髪の!」
その一言で、何人かがすぐに街道の方へ顔を向ける。
「本当か?」
「どこだ?」
「ほら、あそこだよ!」
指差された先に見える人影は、まだ随分と小さい。それでも近づいてくるにつれ、周囲の旅人とは明らかに違う背丈が目立ち始めた。
肩には旅荷物を掛け、使い込まれた外套をまとっている。陽を受けた髪は、遠目にも分かるほど赤かった。
間違いない。
少し前までこの村に滞在し、荷車を片手で起こし、祭りでは楽団相手に妙な踊りを始め、名前すらろくに名乗らないまま西へ去っていった旅人だった。
「本当に戻ってきたぞ!」
その声につられ、さらに人が集まってくる。
ゼルグが村の入口へ着いた頃には、本人の予想を遥かに上回る人数が待ち構えていた。
さすがに足を止める。
「……何だ?」
「何だじゃないよ!」
真っ先に寄ってきた男が笑いながら腕を叩いた。
「戻ってきたじゃねえか!」
「戻るとは言っただろう」
「いや、お前の言い方だと半分くらい戻ってこないと思うだろ」
ゼルグは眉を寄せた。
「何故だ」
「"確約はできん"なんて言うからだよ!」
言われても、本人にはいまひとつ納得できないらしい。
別の男が横から顔を出した。
「西の山はどうだった?」
「特に変わったことはない」
そう答えてから、ほんの少し考える。厳密には、かなり色々あった。
ただ、それを村で説明する必要もないだろう。
「腹は減ってないか?昼まだなら何か食っていけよ」
「それは助かる」
今度は返事が早かった。
「結局そこかよ!」
周囲から笑い声が上がる。
旅先で何があったかより、昼飯の誘いに一番素早く反応したことについて、当人だけは何の疑問も持っていないようだった。
そんなやり取りをしながら、ゼルグはデイン村へ入っていった。
赤髪の旅人が帰ってきたという話は、そこからあっという間に村中へ広がった。
「戻ってきた!?」
織物を畳んでいたクリスティーンが勢いよく顔を上げた。
母親が驚いて手を止める。
「誰が?」
「あの人!」
「あの人って誰よ」
「赤い髪の!」
それだけ言うと、クリスティーンは持っていた布を机へ置いた。
「あ、ちょっと行ってくる!」
「また?」
母親がそう言った時には、もう扉が閉まっていた。
村の中央まで来れば、どこにいるのか探す必要すらなかった。
人が集まりすぎている。
その中心から、聞き覚えのある低い声が時折聞こえてきた。
クリスティーンは人の隙間から覗き込む。
いた。
ただでさえ周囲より頭一つ高いため、人だかりの中でも簡単に見つけられる。
「……ほんとに帰ってきた」
そう呟いた時、自分が笑っていることに気づいた。
帰りにまた寄るとは言っていた。だから、戻ってくる可能性は高いと思っていた。
それでも実際に姿を見るまでは、どこか半信半疑だったのだろう。
何しろ今となっては、彼女の中であの男はただの旅人ではない。
おそらく、古い伝承に名を残し、二千年前の英雄たちと実際に言葉を交わしていた紅き竜その人なのだから。
それなのに、姿を見つけた瞬間に湧いたものは畏れでも緊張でもなかった。
単純に、嬉しかった。
「ゼル―」
名前を呼びかけそうになり、慌てて口を閉じる。まだ村人の前で大声で呼ぶわけにはいかない。
「ちょっと、すみません!」
人の間を抜けようとするが、なかなか前へ進めなかった。
「おばさん、ちょっと通して!」
「はいはい。そんなに急がなくても、また消えたりしないわよ」
「そういう問題じゃないって!」
ようやく前へ出た頃には、ゼルグは別の村人に捕まっていた。
どうやらすぐに抜けられそうにはない。
クリスティーンは少し離れたところで待つことにした。
人だかりがようやく薄くなったのは、それからしばらく経ってからだった。
ゼルグが一人で宿の方へ歩き始める。
今度こそ、クリスティーンは駆け出した。
「ゼルグさん!」
初めて彼の名前を呼ぶ。その名を聞き、ゼルグが振り返る。
クリスティーンはそのまま彼の前まで走ってきた。
「戻ってきたんですね!」
「ああ」
「本当に!約束通り!」
「そう言っているだろう」
いつも通りの返事だった。
クリスティーンは目の前まで来ると、嬉しさを抑えきれなかったらしく、その場で小さく二度ほど跳ねた。
「よかった!」
ゼルグが少しだけ目を丸くする。
「……そこまで喜ぶことか?」
「喜びますよ!」
「そうか」
それだけ言って、何事もなかったように再び歩き出そうとするが、クリスティーンはすぐに袖を掴んだ。
「待ってください」
「何だ」
「話があります」
「なら歩きながら聞こう」
「人に聞かれたくない話なんです」
ゼルグは少しだけ彼女を見る。
「ほう」
「こっちです」
今度は袖を引いたまま、宿の裏手へ続く細い道へ連れていく。
「おい」
「いいから来てください」
「相変わらず強引だな」
「今はいいんです!」
建物の陰へ入り、周囲に誰もいないことを確認してから、クリスティーンはようやく手を離した。
そして改めて、目の前の男を見上げる。
「……何だ」
「聞きたいことがあります」
「先ほどからそう言っているな」
「いっぱいあります」
「面倒そうだな」
「逃げないでください」
「逃げてはいない」
ここ数日、何度も考えていた。
どこから聞こう。
いきなり名前を出していいのか。
遠回しに確認した方がいいのか。
あるいは、森の神殿について先に聞くべきなのか。
ところが本人を前にすると、そんな段取りは全部どうでもよくなった。
クリスティーンは一度だけ息を吸った。
「ゼルグさん」
「ああ」
自分がその名前を口にしても、本人の顔色はまったく変わらない。
驚くでもなく、警戒するでもなく、ただいつものようにこちらを見ている。
「あなた、本当に……ゼルグ・グラヴェルドなんですか?」
「そうだ」
間髪入れずに返ってきた。
「…………」
クリスティーンは瞬きをした。
「……え?」
「私がゼルグ・グラヴェルドだ」
「認めるんですか!?」
「聞かれたから答えただけだが」
「もっとこう……!」
思わず両手を広げる。
「何かあるじゃないですか!」
「何がだ」
クリスティーンは急に顎を引き、眉間へしわを寄せ、わざと低い声を作る。
「"ふっ……よくぞ見抜いた!"とか!」
あまり似ていなかった。
「……私はそのような喋り方をしているのか?」
「そこじゃないです!」
クリスティーンはすぐ元の顔に戻った。
「雰囲気です、雰囲気!」
「何故そのようなことを言わねばならん」
「だって、二千年前から伝説に残ってる竜ですよ!?」
「厳密には、それより遥か以前から生きているが」
「そこを訂正してるんじゃないんです!」
クリスティーンが勢いよくツッコむ。
自分がこの二週間、どれほど悩んだと思っているのか。
それなのに本人は、近所で自分について妙な噂を聞かされた程度の反応しかしていない。
「というか!あなた、前に"名乗るほどの者ではない"って言いましたよね!?」
「言ったな」
「どこがですか!?」
ゼルグは少し考えた。本気で質問の意味を考えている顔だった。
「別に間違ってはいないだろう」
「間違ってます!」
「自ら名乗る必要がないと思っただけだ」
「そういう意味だったんですか!?」
「他に何がある」
クリスティーンが絶句する。
ゼルグは淡々と続けた。
「正体を隠していたつもりはない。自分から言わぬだけで、相手が分かっているなら否定する理由もない」
「だから名前を呼ばれても驚かないんですか?」
「そうだ」
「…………」
「何か問題があるか」
「ありまくりますよ!」
声が大きくなりそうになり、慌てて口元を押さえる。
クリスティーンは声を落として続ける。
「じゃあ、あの神殿も!」
「神殿?」
「森の奥にある、ものすごく古いやつです。あなたを祀ってる!」
「ああ、あれか」
「知ってるんですか!?」
「知っている」
「行ったことあるんですか?」
「ある」
「いつですか?」
「昔だ」
「それが分からないんですって!」
ゼルグは少し考えた。
「正確には覚えていないな」
「そういうところ!」
また声が大きくなり、クリスティーンは慌てて周囲を見る。
幸い誰もいない。
「中に、あなたに似た男の浮彫があったんです。髪も赤く塗られていて、そのすぐ隣に大きな赤い竜がいて……」
「ああ」
「"ああ"?」
「そうだ」
「もう少し驚いてください!」
「私を彫ったものなら、似ていて当然だろう」
「それはそうですけど!」
言われてみれば正論である。だからこそ腹が立つ。
クリスティーンは一度深く息を吐いた。
何を聞いても、この調子であるが、まだ一番聞きたかったことが残っていた。
少し姿勢を正す。
「じゃあ……本当にドラゴンなんですか?」
今度はゼルグも、少しだけ真面目な顔になった。
「そうだ」
クリスティーンも思わず身構える。
ゼルグは腕を組んだ。
「分類上は竜族、真竜類、ドラコン科に属する。さらに細分すると、古竜系真竜亜目の―」
「違います!」
クリスティーンが再び勢いよく遮った。
ゼルグが口を閉じる。
「何がだ」
「そういうこと聞いてないです!」
「ドラゴンかと聞いたではないか」
「聞きましたけど!」
「だから答えている」
「学術分類を聞きたいんじゃないんです!」
「では何を聞いている」
「だから……その……!」
クリスティーンは両手をバタバタと動かしながら言葉を探した。
「本当に、こう……大きくなって、翼があって、空を飛んで、火を吐く、あのドラゴンなんですか!?」
「そうだ」
「…………」
「その意味なら最初からそう言えばよかっただろう」
「普通は分かるんですよ!」
ゼルグは納得していない顔をしている。クリスティーンは少し頬を膨らませ、しばらくその顔を見上げた。
本当に、この男が森の奥の神殿、その壁いっぱいに彫られていた巨大な竜。二千年前の英雄たちと実際に旅をしていた存在だと考えると、あまりにも現実離れしている。
クリスティーンは思わず吹き出した。
「……何だ」
「いえ」
笑いを堪えながら首を振る。
「なんか……思ってたより普通だなって」
「失礼だな」
「褒めてます」
「そうは聞こえん」
クリスティーンはまだ笑っていた。正体を知ったら、もっと怖く感じるのかもしれない。
竜の浮彫を見上げた時には、実際にそう思ったが、本人を前にすると何も変わらない。
「それで」
ゼルグが言った。
「質問は終わりか?」
「全然です」
即答だった。
「まだあるのか」
「いっぱいあります」
「……先に飯を食わせろ」
「まだ食べてないんですか?」
「戻ってきてからずっと捕まっていた」
「じゃあ、食べながら聞きます」
「何故そうなる」
「いっぱいあるって言ったじゃないですか」
クリスティーンは楽しそうに笑うと、そのまま先に歩き出した。
「さ、行きましょう」
ゼルグは少しの間、その背中を眺めていた。
正体を知れば、もう少し態度が変わるかと思っていた。
怖がるとまでは思っていなかったが、少なくとも妙な遠慮くらいはするかもしれない、と。
だが、どうやら何も変わらないらしい。
「……少しくらいは遠慮すると思ったのだがな」
前を歩いていたクリスティーンが振り返る。
「何か言いました?」
「何でもない」
そう答えて、ゼルグも歩き出した。
クリスティーンはすでに次の質問を考えているらしく、一人で何やら指を折っている。
その様子を見ながら、ゼルグは僅かに口元を緩めた。
少なくとも、自分が何者なのかを知ったところで彼女が変わらなかったことについては、悪い気はしていなかった。




