第15話「森の奥の神殿」
ゼルグがデイン村を発ってから、数日が過ぎていた。
その間、クリスティーンは仕事の合間を見つけては英雄神殿へ通っていた。
最初は、あの赤髪の旅人について何か分かればいい。その程度のつもりだった。
ところが一冊読めば、注釈に別の書物の名が出てくる。そちらを開けば、さらに古い記録から引用した一節が載っている。
もっとも、読んだ分だけ詳しくなるわけではない。どの資料にも似たようなことが書かれている。
問題は、その先だった。
生涯ほとんど山脈から出なかったと記す本がある一方で、遥か南方で目撃されたという記録もある。
人間との関わりを嫌ったとする説もあれば、後年は人里へ姿を見せることが珍しくなかった、と書いている者までいた。
同じ竜について調べているはずなのに、読み進めるほど人物像が定まらなくなってくる。
「……結局、どれが本当なのよ」
書庫の机に肘をつき、そんな独り言を漏らしたのも一度ではなかった。
ただ、その中に一つだけ気になる記述があった。
現在のデイン村から北西へ入った森の奥に、かつてゼルグ・グラヴェルドを祀った神殿が存在したという。
古い地誌の片隅に、ほんの数行だけ残されていた。
いつ建てられたのかは分からない。少なくとも地誌が編纂された頃にはすでに古びており、その後、現在の英雄神殿が整備されていくにつれて訪れる者も減ったらしい。
そして翌朝、家の仕事を一通り片づけると、水筒と小さな鞄を肩へ掛けた。
親には適当な理由を付けて、それ以上詳しく聞かれる前に家を出た。
別に隠さなければならないことでもない。ただ説明したところで、母親の質問が増えるだけなのは目に見えていた。
それに、自分でもまだ馬鹿げた話だと思っている。人に話すなら、せめて何か一つくらい確かなものを見つけてからにしたかった。
村を出てしばらくは、普段から木こりや猟師が使っている道を歩いた。
畑が途切れ、最後の家並みが木々の向こうへ消える頃には、すっかり森の中だった。この辺りなら子供の頃にも何度か来たことがある。
古い地誌から写してきた簡単な地形図を広げる。
現在の道とはほとんど対応していないが、川と小さな尾根だけは今も変わっていないらしい。
「川がこっちで……この尾根が、多分これ」
紙と周囲を何度か見比べる。
「なら、あっちか」
自信は半分ほどだった。それでも好奇心が勝った。木こり道を外れ、木々の隙間へ入っていく。
念のため、時々目立つ幹へ細い布紐を結びながら進んだ。帰り道の目印にするため、家から余った糸を何本か持ってきていたのだ。
最初のうちは歩きやすかった。
ところが十分、二十分と進むうちに足元の根が太くなり、低い枝を何度も避けなければならなくなった。倒木を跨ぎ、湿った斜面を登っているうちに、森の外から聞こえていた音もすっかり消えている。
一度振り返る。先ほど自分で結んだ白い糸が、少し離れた木の幹に見えた。
道は分かる。
それでも思わず呟いた。
「……思ったより奥なんだけど」
返ってくるのは鳥の声だけだった。
古い本に「森の中に埋もれている」と書かれていたのだから当然といえば当然だが、クリスティーンが想像していたのは、もう少し気軽に見つかる遺跡だった。
これほど奥まで来て何もなければ、さすがに引き返した方がいい。
地誌自体、何百年も前のものだ。神殿がすでに崩れ去っている可能性もあるし、そもそも自分が正しい方角へ向かっている保証もない。
「あと少しだけ」
そう決めて先へ進んだ。
さらに十数分ほど歩いただろうか。木々の間に、不自然なものが見えた。
森には似合わない、真っ直ぐな線だった。
クリスティーンは足を止める。
葉の重なった向こうに、灰色の何かが覗いている。
「……え?」
枝を押し分けながら近づいた。
石だ。それも岩ではない、人の手で積まれた壁だった。
足が自然と速くなる。最後の茂みを抜けたところで、クリスティーンはその場に立ち止まった。
「……うそ」
目の前に、神殿があった。地誌の片隅に「古い神殿」とだけ記されていたものから想像していた規模とは、まるで違う。
正面だけでも、村の家を何軒か横に並べたほどの幅がある。
屋根の大半は失われ、片側の外壁も大きく崩れていたが、残された石柱の太さを見れば、かつては相当な建物だったことが分かった。
蔦が壁を覆い、石の継ぎ目から幹の細い木まで伸びている。崩れ落ちた石材には厚く苔がつき、場所によっては木の根が床そのものを持ち上げていた。
何十年、何百年という荒れ方ではない。
長い時間をかけ、建物と森との境目そのものがなくなりつつある。
クリスティーンはしばらく呆然と眺めたあと、正面へ回った。
扉はとうの昔に失われていた。石造りの入口だけが残り、その奥には薄暗い空間が続いている。
「……本当にあったんだ」
その事実の方が、まず驚きだった。
入口の前で少し迷う。崩れかけている以上、むやみに入っていい場所ではない。
頭上を確認し、今にも落ちてきそうな石がないことを確かめてから、慎重に中へ足を踏み入れた。
「お邪魔します……」
誰に断っているのか分からない。
内部は外から見る以上に広かった。
左右には太い石柱が並び、何本かは途中で折れて床へ倒れている。かつて窓を飾っていたらしい色ガラスもほとんど失われ、枠の隅に残った小さな破片だけが陽を受けて淡く輝いていた。
天井の崩れた場所からは光が差し込み、その下だけ草や小さな花が生えている。
歩くたび、床に積もった枯れ葉が乾いた音を立てた。
祭壇らしいものも半ば崩れており、祈りに使われていたであろう長椅子も形を留めていない。それでも配置を見れば、ここが単なる古い建物ではなかったことは分かる。
かつては大勢の人間がここへ入り、同じ方向を向いて祈っていたのだろう。
クリスティーンは足元に気をつけながら、奥へ進んだ。
やがて、神殿の最奥まで辿り着く。
足が止まった。正面の壁だけが、驚くほどよく残っていた。
細かな傷や欠けはあるものの、壁一面を覆う大きな浮彫は今でも十分に形を読み取ることができた。
下部には、大勢の人々が刻まれている。
膝をつく者、両手を組んで見上げる者、子供を抱いたまま頭を垂れている者。
そして、その視線の先、壁の中央には、一頭の巨大な竜が翼を広げていた。
「…………」
クリスティーンは息を呑んだ。
壁の半分近くを占めるほど大きい。
後頭部へ連なる角。左右へ広げられた翼は、浮彫の端近くまで達している。
石に刻まれた姿でしかない。それなのに、真下に立つと、自分が本物の巨大な生き物を見上げているような圧迫感があった。
鱗まで一枚ずつ彫り込まれている。ほとんど色は失われていたが、窪みに残った古い顔料には赤が見えた。
その中に、ごく僅かだが金色らしい色も残っている。
クリスティーンはゆっくり壁へ近づいた。
「……ゼルグ・グラヴェルド」
自然と名前が口から出た。おそらく間違いない。本の中で何度も読んできた特徴と一致している。
赤と金の鱗を持つ、アゼルグラム山脈の守護竜。
二千年前の英雄たちと共に戦ったとされる存在。
地誌の記述は、本当だった。
クリスティーンはしばらく、その巨竜を見上げていた。書物の中に印刷された名前を読むのとは、まるで感覚が違う。これを彫った人間がいた。この場所まで足を運び、祈った人間たちがいた。
彼らの中には、ひょっとすると実際のゼルグを見た者さえいたのかもしれない。
そう思うと、「伝説」という便利な言葉で遠ざけていたものが、急に現実へ近づいてくる。
やがて視線を横へ移した。中央の竜だけではない。その左右には、いくつもの小さな場面が連なるように彫られていた。
山頂に立つ竜。人々の前へ降り立つ姿。何者かと争っているように見えるもの。長い時間で削れ、何を表しているのか分からなくなっている箇所も多い。
その中の一つに目を向けた時、クリスティーンは動きを止めた。
「……え?」
一人の男がいた。竜の隣に、人間の姿で立っている。他の人物より明らかに大柄で、肩も広い。外套のような衣服をまとい、腰には剣らしきものが彫られていた。
髪の部分には、ごく薄く赤い顔料が残っている。
クリスティーンは少し近づいた。
「……待って」
顔は完全には残っていない。
鼻の先は少し欠け、頬にも亀裂が入っている。彫刻そのものも写実的というより、実物の特徴を少し強調したような造りだった。
それでも目元、通った鼻筋、顎の輪郭、そして、かなり背の高い、がっしりした体格。
嫌というほど見覚えがある。
「いや……でも」
反射的に否定しかけて、言葉が続かなかった。
数日前まで村にいた赤髪の旅人。
あの男に、似ている。単に顔立ちが似ているだけなら、まだ偶然と言えたかもしれない。
だが、ここはゼルグ・グラヴェルドを祀った神殿だ。
その壁に、紅き竜と並んで、赤い髪を持つ大男が彫られている。
古い文献の一部には、その姿を赤い髪を持つ大柄な男と記したものがある。
クリスティーンは浮彫の前から動けなくなった。
「…………」
近くに何か名前が残っていないか探す。
男の足元には細長い石板が彫り込まれていたが、肝心の文字はひどく風化していた。指で埃を払ってみても、いくつかの線が見えるだけで、とても読むことはできない。
この人物については、古い地誌にもわずかに触れられていた。
ただ、名を示す文字が失われていたため、後世の研究者たちも「竜を人の姿で表したもの」「神殿に仕えた守人」など、いくつかの説を残しただけで、結局誰なのかは分からないままだった。
名前さえ残っていれば、すぐ答えが出たのに。
だが、もし読めたとして、本当に自分は素直に信じられただろうか。
クリスティーンはもう一度、男の浮彫を見る。書庫で最初に記述を見つけた時はそんなわけがない、と笑えた。
赤い髪の大男くらい、世界のどこかにはいくらでもいる。怪力なのも、生まれつき身体が丈夫なのかもしれない。
薬草や古い知識に詳しいのだって、長く旅をしていれば覚えることはある。
英雄神殿に興味を示さなかったことも、単にそういうものが好きではないだけ。
一つずつなら、いくらでも理由はつけられた。
だが、それらを全部並べたうえで、さらにこれを偶然だと言えるだろうか。
千年以上も昔からここにあるであろう壁に、自分の知っている男とよく似た人物が彫られている。
しかも、その隣には紅き竜がいる。
「…………まさか」
クリスティーンは壁の中央へ視線を戻した。
翼を広げる竜。次に、その隣の男。
また竜を見る。
もう一度、男を見る。
頭の中で、これまで別々に散らばっていたものが勝手につながっていく。いつものように笑って否定しようとしたが、声に力がなかった。
前なら、そのあとすぐに「ないない」と続けられたのに、今日は出てこない。
やがて、男の姿へ向かって、小さく問いかける。
「……本当に、あなたなの?」
もちろん返事はない。クリスティーンはゆっくり顔を上げ、もう一度、中央の竜を見た。
あれほど巨大なものが本来の姿だというのなら、数日前まで同じ机で食事をしていたことも、祭りの踊りへ無理やり引っ張り込んだことも、今さら妙に現実味を失ってくる。
それなのに思い浮かぶのは、伝説の守護竜らしい荘厳な姿ではなかった。
『"片手で?"』
『"片手で"』
あの何でもない顔である。
「……本当に?」
今度の問いには、少し呆れたような響きまで混じっていた。
信じられない。けれど、もう笑い飛ばすこともできない。
赤髪の旅人へ向けて抱いていた疑いは、この森へ入る前とは明らかに違うものになっていた。




