第14話「わからん」
翌日の昼過ぎ。
西の山地を抜けた先にある街道脇で、ゼルグは一本の大樹の根元に腰を下ろしていた。
街道とはいっても往来は少なく、荷車が二台並べば窮屈になる程度の土道が林の間を縫っている。風が吹くたびに枝葉の影が地面をゆっくり揺れ、少し離れたところからは沢の流れる音が聞こえていた。
その静かな木陰に、昨日の洞窟から持ち出した紙が何枚も広げられている。
ゼルグは一枚を手に取ってしばらく眺めると、その隣に別の紙を並べた。さらにもう一枚を重ね、今度は最初の紙へ戻る。
そうして、もう一刻近く同じことを繰り返していた。
紙面には複雑な魔法陣の構成図や、見慣れない器具の断面らしい絵がびっしりと描き込まれている。
薬草や鉱物の名ばかりが並んだものもあれば、何かの生物を思わせる図に細かな注釈が書き足されたものまであり、どれも余白を探す方が難しいほどだった。
やがてゼルグは、手にしていた紙を膝の上へ置いた。
「……わからん」
声に出してから、もう一度拾い上げる。
術式そのものが読めないわけではない。むしろ、一つずつ切り離して見れば、大半は何をしているのか分かった。
魔力の性質を変える術、何らかの素材へ力を定着させる処理、薬品を使った調整。それぞれに珍しい部分はあっても、ゼルグにとってまったく未知の技術というほどではない。
書いた者が相当な知識を持っていることも分かる。
問題は、その先だった。
「これをここへ繋いで……その後が、こちらか」
指で線を辿り、別の紙へ目を移す。
しばらくして眉が寄った。
「いや。そうすると、こちらの処理が要らぬな」
もう一枚を引き寄せる。
「ならば先にこれを使うのか……?」
今度は三枚を並べたまま黙り込んだ。
風が吹き、一番端の紙がめくれそうになったので、近くに転がっていた小石を載せて押さえる。
それから、もう一度最初から読み直した。
「…………」
しばらくして。
「やはり、わからん」
先ほどよりも声に苛立ちが混じっていた。難しいから腹を立てているのではない。
書き方の方に問題があると思い始めていた。
「何故、この説明が三枚も後にあるのだ」
誰もいない林の中で、一人で文句を言う。
「ここに書けば済む話ではないか。図の番号まで途中で変わっているぞ」
紙を一枚持ち上げ、そこに並んだ細かな文字を睨む。
「これを書いた者は、自分だけ分かればよいと思っていたのか」
もちろん返事はない。
「前提が多すぎる。説明や図というものは、初めて見る者にも分かるように書くものだ」
そこまで言って、ゼルグは口を閉じた。
小さく息を吐き、資料へ視線を戻した。
少なくとも、分かったことが何もないわけではなかった。
あの連中は、単に薬品を作っていたわけでも、新しい魔法を一つ完成させようとしていたわけでもない。
複数の技術を組み合わせ、何か一つのものへ行き着こうとしている。
紙面には『素体』『核』『定着』といった言葉が何度も現れていた。ただ、それが最終的に何を意味するのかまでは読み取れない。
『素体』と記された図も、人のように見えなくはなかったが、全体像がない以上は断定できなかった。
「……ずいぶんと手の込んだことをしているな」
ゼルグは顎へ手を添えた。昨日の洞窟を思い返す。人里から遠く離れた場所へ研究施設を隠し、幻惑の術まで使って入口を隠していた。
山の麓には金で雇った者たちを置き、自分が現れた途端、研究者たちは資料を捨てて逃げた。
まともな目的なら、あそこまで隠す必要はない。
それに、洞窟で目にした固定台や薬品の量を思えば、昨日持ち出した十数枚が研究のすべてとも考えにくかった。
「ろくなことではない、か」
そこだけは昨日から変わっていない。だが、危険な研究だと分かったところで、今すぐ追える相手がいるわけではなかった。
転移の痕跡は途切れている。洞窟に残っていた資料にも所在地や組織名はなく、誰が研究を命じ、他にどれほどの拠点を持っているのかも分からない。
この状態で大陸中を探し回ったところで、目立つだけで、見つかるものも見つからないだろう。
ゼルグは資料を見下ろしたまま、しばらく考え込んだ。警戒する必要はある。だからといって、正体も分からないものを今すぐ世界の危機だと決めつけるつもりもなかった。
長く生きていれば、怪しげな思想を持つ者も、危険な術へ手を出す者も何度となく見てきた。
そのすべてが大きな災厄へ繋がったわけではないし、逆に最初は些細に見えたものが後になって取り返しのつかない事態へ発展したこともある。
判断するには、まだ材料が少なすぎた。
「今は、動きようがないか」
先ほどとは少し違う声だった。諦めたわけではない。手掛かりが増えるまで、この件を忘れずに置いておく。
少なくとも資料は持っておいた方がいいだろう。あの魔術師たちが別の場所で同じ研究を続けているなら、いずれ似た痕跡が出る可能性もある。
ゼルグは広げていた紙を集め始めた。
順番などほとんど気にせず重ねていたが、一枚だけ端が折れ曲がっていることに気づくと、そこだけは指先で妙に丁寧に伸ばした。
「……これ以上、読みにくくなってはかなわん」
誰に対する文句なのか、自分でもよく分からなかった。
紙の束を書類入れへ収め、革袋の奥へしまう。
立ち上がって肩へ荷物を掛けたところで、ゼルグは街道の先へ目を向けた。
そして、ふと思い出す。
デイン村を発つ朝、黄金色の髪を揺らしながらこちらを見ていた娘の顔。
"待ってますね"
そう言われた。さらに、そのすぐ後には、"絶対ですよ?"とまで念を押された。
ゼルグはしばらく街道を眺めたあと、わずかに口元を緩めた。
「仕方ない。戻ってやるか」
随分と恩着せがましい言い方だった。
もちろん、帰りにもう一度寄ると約束したのは自分である。
それでも、誰かに待たれているから戻るという事実を、そのまま認めるのはどうにも落ち着かなかった。
歩き出しかけたところで、ゼルグはふと足を止める。
「……いや」
ここからデイン村まで、馬を使っても数日はゆうにかかる。徒歩ならもっとだ。
自分なら竜の姿へ戻れば、そんな距離は問題にならない。その気になれば今日のうちに戻ることもできる。
だが、それではさすがに早すぎる。村を発った時、自分は徒歩だった。
西の山地へ向かうと言って出ていった旅人が、翌日に平然と帰ってくれば、誰でも首を傾げるだろう。
そして、おそらく一番最初に首を傾げるのはクリスティーンだろう。
既に、彼女の前では余計なところをいくつも見せている。
「……これ以上増やす必要もないか」
ゼルグは空を見上げた。
雲は少なく、しばらく天気が崩れる気配もない。急いで戻る理由もなかった。それに、途中の町へ寄れば昨日の連中について何か噂を拾えるかもしれない。
旅人を襲っていたという話が本当なら、周辺に別の痕跡が残っている可能性もある。
そう考えると、徒歩で戻ることにも多少の意味ができた。
「人の足なら……まあ、そのくらいか」
今度はそのまま街道へ出た。
帰り道では町にも寄ることにした。食事をし、宿が必要なら泊まり、気になる話があれば聞いていく。
急ぐ必要はない。だからといって、昨日のことを忘れたわけでもなかった。
いずれ、あの紙に書かれていたものが何なのかを確かめる時は来るだろう。
ゼルグはしばらく歩いたところで、一度だけ革袋へ目をやった。
「……次に見る時までには、もう少し分かりやすくなっていればよいのだがな」
当然、紙が勝手に書き直されるはずはない。自分でもそれくらいは分かっている。
小さく笑い、ゼルグはデイン村へ続く道を歩いていった。




