第2話:剣を捨てた騎士
図書館の扉を叩いたのは、全身に古傷を纏った男だった。
かつて王国最強と謳われた近衛騎士団長、今はただ、右腕を失い隠居した老人である。
「……私の記憶を、灰にしてくれ」
彼が差し出したのは日記ではない。使い込まれた剣の柄と、一枚のボロボロの羊皮紙だった。
日記の代わりとして、彼が自身の戦歴と、そこに刻まれた「殺戮の記録」を魔法で封じ込めたものだ。
私は無言でそれを受け取った。
儀式を開始すると、図書館の空気が重く澱む。
視界に、血塗られた戦場が広がる。
彼が守りたかったはずの祖国のために、背に腹は代えられず、非戦闘員さえも斬り伏せなければならなかった惨劇。
同胞が次々と命を落とし、最後には彼だけが生き残ってしまったという、あまりに凄惨な記録。
「毎日、夜が来るのが怖い」
騎士は、震える声を絞り出した。
「眠れば、彼らの断末魔が聞こえる。私が剣を握ったせいで、多くの命が消えた。その記憶がある限り、私は二度と穏やかな眠りにつけない。……すべてを、無かったことにしたい」
彼は、戦い抜いた誇りすらも「呪い」だと感じていた。
私は作業を開始する。保管人の手から放たれた黒い霧が、彼の鮮烈な記憶を浸食していく。
かつて彼が護衛した王女の笑顔、守り抜いた民たちの声、そして彼が愛した部下たちの名前――そのすべてが、彼を苦しめるという理由だけで、忌まわしい「灰」へと変換されていく。
「……っ!」
彼は苦悶の声を上げた。
大切なはずの記憶が消えていく痛みと、それを失うことへの本能的な拒絶が、彼の魂を揺さぶる。
私は目を見開いたまま、手を止めない。
冷徹なまでの事務処理。そのはずだった。
けれど、彼の記憶の深淵に触れたとき、ふと、ある一点に光が射した。
それは戦場ではなく、戦いの合間に彼が見ていた、ある女性の横顔だった。
彼は戦いの中で、自分の中にあった「愛の記憶」までをも、戦場の惨劇と一緒に消し去ろうとしていたのだ。
記憶が消滅する寸前、その女性が彼に微笑みかける幻影が、私の脳裏をかすめる。
それは私が前世で抱いていた感情と、驚くほどよく似たあたたかなものだった。
霧は、そのあたたかな記憶さえも容赦なく黒く塗りつぶしていく。
すべてが終わった。
彼の手元には、意味を失った金属の塊が残された。
「……私は、どうしてここに?」
彼はきょとんとした表情で、私の顔を覗き込んだ。
「何かの依頼をしに来たはずだが……ひどく、心に隙間があるような気がする」
「……あなたは、ただの老人として生きる決意をされたのです」
「そうか……。そうかもしれないな」
彼はどこか晴れやかな、しかしあまりに虚ろな足取りで図書館を出ていった。
騎士としての誇りも、罪悪感も、そして愛した人の面影さえも、すべて燃やし尽くした先にあるのは、ただの「静寂」だ。
私は暖炉を覗き込む。
灰の中に、彼が捨てたはずの「愛した人の横顔」の残滓が、ほんの一瞬だけ、赤い火の粉となって輝いた。
私はそれを、手で掬い取ることなく、そのまま灰の中に埋もれさせた。
保管人である私が、灰を拾うことは許されない。
それでも、私の心臓が、まるで私のものじゃないみたいに、激しく鼓動を打っていた。
あの騎士が愛した人は、今どこで何を思っているのだろう。
記憶を消された騎士を、彼女は許すのだろうか。
私は自分の前世の記憶を、より強く抱きしめた。
消したくない。たとえこの先、どれだけ苦しみが積み重なろうとも、私だけは、私たちが過ごした日々の「記録」を灰にはしない。
図書館の時計が、重苦しい音を立てて時を刻んだ。
次は誰が、何を守るために、自分自身の欠片を捨てにくるのだろう。




