第1話:忘れられた手紙
ここには、人々の心から掬い上げられた「重すぎる記憶」たちが、革表紙の本となって棚を埋め尽くしている。
私はその管理人――記録保管人。人々の願いを受け、苦痛を灰へと変えることが私の仕事だ。
今日もまた、記憶にから消したい思い出を抱えた人がここへやってくる。
図書館は、常に冷えた空気に満ちている。
ここには、人々の心から掬い上げられた「重すぎる記憶」たちが、革表紙の本となって棚を埋め尽くしている。
私はその管理人――記録保管人。人々の願いを受け、苦痛を灰へと変えることが私の仕事だ。
扉が開き、一人の老婆が足を引きずりながら入ってきた。かつては王城で仕えていたという侍女だ。彼女が差し出したのは、黄ばんだ一冊の日記だった。
「……これを、消してほしいの」
彼女の声は、枯れ葉が擦れるようにか細かった。
私は無言でそれを受け取る。
日記を開くと、そこには若かりし頃の彼女が、当時仕えていた貴公子に抱いた秘めた恋心が綴られていた。
高貴な彼と、身分の低い自分。決して結ばれることのない想いを抱き、それでも隣に仕え続けた数十年。
彼が他の女性と結ばれ、老いていく姿を最期まで見守った彼女の献身。
しかし、その記録には、最後に一つの汚点が記されていた。
彼が最期の瞬間、妻ではなく、密かに彼女の名前を呼んだという記述。
その記憶が、彼女の静かな晩年を蝕んでいた。
「……彼に、愛されていたと知ってしまったことが、苦しいのです。最初から知らなければ、私はもっと幸せに終われたはずなのに」
彼女にとって、その愛の記憶は「救い」ではなく「呪い」だった。
知らなければよかった愛。報われないまま終わるはずだった人生に、最後の一滴だけ混ぜられた余計な毒。
私はペンの先をインクに浸し、儀式を始める。
保管人として、私は一切の感情を排さなければならない。灰にするのは、彼女の苦しみだけだ。
「……作業を始めます」
私の指先から黒い粒子が溢れ出す。
ページに書かれた文字が、まるで溶け落ちるようにインクから離れ、宙に舞う。
彼が彼女を呼んだその一瞬の記憶が、白い灰となって暖炉の中へ吸い込まれていく。彼女の瞳から、少しずつ「彼を愛した記憶」の輪郭が薄れていった。
すべてが終わったとき、彼女の手元にはただの真っ白なノートが残った。
彼女は困惑したように目を瞬かせ、それから何もない空間を見つめた。
「……私、なぜここに来たのかしら?」
「……ただの、古い本を整理するために」
私は嘘をつく。それがこの仕事の掟だ。
彼女はふうと息を吐き、穏やかな顔で立ち上がった。彼女の胸に刺さっていたはずの棘は、もうどこにもない。
扉が閉まり、彼女が去った後、私は暖炉の中に残る灰を掻き出した。
灰は熱を失い、冷たく床に落ちる。
彼女の愛は、こうして世界から抹消された。
私はふと、自分の胸に手を当てる。私にも、いつか消さなければならない記憶があるのではないか。
棚の奥に並ぶ数千の記憶の中に、私の「最後の一行」もまた、いつか刻まれるのを待っているのだろうか。
外では、今日も静かに雪が降り積もっている。
図書館の時計が、規則正しく時を刻む。私はまた、次の記憶を整理するために、次の日記を棚から取り出した。
1話完結の物語です。毎日20時20分に更新します。




