はちみつ色の求婚(2)
それは、わたしが七歳になったばかりのある日のことだった。
わたしはその頃からぼんやりとした子で、よく迷子になっていた。
わたしたちの祖国であるアイゼン王国は、広大な領土を持つ大国だ。恵まれた地形がもたらす恩恵もあって、国力は他国を凌駕している。
そんな王国において、国王の側近たる宰相を輩出する侯爵家の令嬢として生まれ落ちたものの、末子だったこともあって表立ってその地位を求められたこともない。
王都ちかくの領地で、気の置けない使用人に囲まれながらのどかな日々を過ごしていた。迷子姫、という困ったふたつ名も、笑い話にしてしまえるくらい平和で起伏のない日々だったように思う。
その日は、出仕した父に連れられて王宮にきていた。まちがっても迷子にならないようにと、執務室の重厚な椅子に囲われ、じっと父の仕事姿を見つめていた。
王宮の中でも、執務の行われる一角はその秘匿性から窓がほとんど取り付けられていない。
分厚いカーテンからこぼれ落ちるかすかな光。こもった空間にただよう紙のにおいとペンが走る音。ひっそりとした話しごえ。
幼いわたしにはそれらはさながらゆりかごのようで、うたたねをする心地でクッションにもたれてこくりこくりと船を漕いでいた。
(……)
誰かから呼ばれたような気がしたのはそんなときだ。
目を開き、きょろきょろとあたりを見渡す。誰もいない。
「……?」
お父さまも部屋にいないことにはそのときに気づいた。きっとお仕事で外に出ているのだろう。
私がいいと言うまで絶対に椅子から立ち上がってはいけないよ、と言い含められていることを思い出す。
でも、さっきの声はどこか困ったふうだった。
幼心に思い出したのは、もうひとつの言葉。
「こうしゃく家のにんげんたるもの」
困っている人を見捨ててはいけないよ。子どもたちにそうつねづね言い聞かせているのも、他でもない父なのだ。
心の振り子がいったりきたりする。迷子になるたびに向けられた、父や母や兄や姉の心配の眼差しがつぎつぎ脳裏に浮かぶ。それで、「椅子に座ったまま父を待つ」に決意が一瞬固まりかけた。……の、だけど。
どうしても気になる。あの声。もしかしたら、泣いているのかもしれない。
要は、迷子にならなければ良いのだ。扉を開けるくらい、そこから、二三歩出るくらいなら、きっと大丈夫なはず。
椅子からおりて、てくてくと扉の方向に向かった。うんと背伸びをしてドアノブに手をかけた。
「うんしょ」
しまった。
しゅくじょとしてはあるまじき言葉づかいだ。
重たい扉を開けるのが億劫でうっかり出てしまった。侍女のマーサがここにいたらぜったいに叱られていた。
慌てて手のひらで口を抑えてまわりを見たけれど、やっぱり誰もいない。ほっとしながら廊下を進む。
ふしぎだな、と思ったのは、王宮にはいつもひっきりなしに人が行き交っているのに、誰とも出くわさないから。しんと静まり返っていて、まるでいつか読んだ絵本のおはなしの中のよう。
ひとっこひとりいなくなったお城の謎を解く、ぼうけんを描いた絵本だ。こんなおはなし女の子が読んではいけないわ、とひとつ上のお姉さまに諭されて没収されてしまったのだけれど。
(おもしろいおはなしだったのにざんねんね)
そんなことを考えているうちに、知らない場所に出てしまっていたらしい。
「……あれ?」
ここはどこだろう。気づけば、木々の緑でいっぱいだ。
さあっと血の気が引く。振り返ったけれど、元来た道ももうわからない。
「まいご……」
またやってしまった。
こうならないようにと、父からきつく言いつけられていたのに。
ぽつんと佇む。遊び慣れた場所でもないから、ほんとうにどうしたらいいかわからない。
かさかさと、草を踏む足音がしたのはそのときだ。
(ゆうれい……!?)
とっさにそう思ってしまったのは、絵本の中にそんな場面があったからだ。
誰もいなくなったお城の一角で、こんなふうにカサカサと音がして振り返ると、そこにはゆうれいが……! というシーン。
実のところそのゆうれいは主人公を助けてくれる良い子だったのだけれど、怖いものは怖いのだ。
背を震わせながら振り返ると、木々の間からふいに影が躍り出た。
「わっ」
声変わりの時期特有のかすれた声も、ほんのちょっとだけそれらしい。でも、ちゃんと手も足もある。ゆうれいじゃなかった。少年だ。
まさかわたしがいると思っていなかったのだろう、まぁるい瞳をこぼれ落ちそうに見開いてわたしを見つめている。
わたしもびっくりしたけれど、それはこの突然の出会いにではなかった。
王宮の奥まった一角。銀の髪に、むらさきの瞳を持つ少年。
心よりも先に体が反応した。
ふわり、頭を下げた。
「はじめまして。わたしは、ばるでるて家のしぇりーともうします」
ドレスの裾をつまんでカーテシーをする。
少年は、息をのんだようだった。
「……君、なんともないの?」
「? はい」
なんともない、というのはどういうことだろうか。よくわからないけれど、怪我もしていないし、病気でもない。
まごうことなく、まいご、ではあるけれど。
このお方に心配していただくような事態ではないはずだ。
「だいじょうぶ、です」
証明するように、手のひらを差し出す。だいじょうぶ、のほかに、この出会いがなんの意図もないことを示すための所作でもあった。
少年はわたしの手を見て、ちいさくため息をついた。
「バルデルテ、か」
「はい。王太子でんか」
不敬にあたらないよう、やや目線を落として告げた。
空気がひりついたのは、一瞬のこと。
でんかはちいさく口角をあげた。
「……私、名乗ったかな?」
「いいえ。でも、知っていました」
「知っていた」
「はい。お父さまから、よくお話を聞いています」
「どんなふうに?」
「え?」
はっとして口をつぐんたけれどもう遅い。聞き返すことも不敬にあたる。マーサから教えてもらっていたのに、またうっかりしてしまった。
「もうしわけありません」
「いいよ。私の聞き方が悪かった。君は、賢いんだね」
そんなふうに言われたことはなかったから、わたしは今度こそ言葉に詰まってしまった。
ふふ、とでんかは気を取り直すように笑った。
「私のことを、どう知っているの?」
「ええと……わたしよりも、さんさい年が上です」
「それだけ?」
「りっぱなお方だと、父は申しておりました」
「ロウが?」
ロウ、は、お父さまの愛称だ。正式な名称は、ロウエン・バルデルテ。お父さまを愛称で呼べるひとはそう多くない。それだけでも、わたしの発言を裏付けるたしかな根拠になる。
「はい。王太子でんか」
「そう」
でんかは複雑そうに笑った。すこし、さびしそうに。
そんな笑い方の似合うお方ではなかったから、わたしはまたたいた。慌てたような足音が背後からした。
「シェリー!」
「お父さま」
はっとして振り返ると、お父さまが息を荒げて駆け寄ってきた。でんかを認めたとたん、庇うようにわたしを腕に閉じ込めた。
「殿下」
お父さまの口調はきびしい。
でんかはため息をついた。肩をすくめるようにして続けた。
「その子は大丈夫。ここに迷い込んできただけだよ」
お父さまがぴくりと眉をあげた。
「……大丈夫、とは」
「言葉通りだよ。その子は、私に見つめられても〝なんともない〟らしい」
「それは」
「さあね」
ふしぎなやりとりだった。
わたしが目を丸くして見守っていると、お父さまがふっと力を抜いた。一歩引いてこうべを垂れた。
「……失礼いたしました。シェリー」
「でんかのおっしゃる通りです。もうしわけありません」
「そうか」
お父さまは、しゅんとしたわたしの頭をぽんぽんと撫でてくれる。
「もう言いつけを破ってはいけないよ」
「はい」
「殿下、それでは失礼いたします」
「ああ。またね」
「……」
でんかの軽口に、お父さまの眉間の皺が深くなる。
お父さまがわたしの手を引く。こっそり振り返ると、でんかがひらひらと手を振っているのが見えた。
そんな出会いを果たしてからすぐ、わたしは殿下と正式な対面の機会を得た。
いまにして思えば、そこにはさまざまな思惑があったように思う。




