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第81話 私はただ、由梨と向き合いたいの♡

「はい、ちゃんと沙織って呼んで」

「……うん、沙織」

「……なに、由梨」


 少しだけ顎を上げて、冗談めかした声でそう言うと、由梨は一瞬だけ視線を泳がせた。


 瞬きの回数が増えて、唇がわずかに開いたまま、言葉を探すように止まる♡

 耳のあたりが、ほんのり赤くなっていくのが分かってしまって、私は思わず息を飲んだ♡♡


 互いに同じように名前を呼び合うと、言葉のあとに、ほんの短い沈黙が落ちた♡

 その間、由梨の喉が小さく動く♡♡

 呼吸が浅くなって、胸元がきゅっと詰まったみたいに上下するのが、やけに目に入る♡


 その沈黙が、妙にくすぐったくて、先に笑ったのは由梨だった♡

 耐えきれなかったみたいに、肩をすくめて、身体を少し縮める♡♡

 笑いながら、無意識に指先が制服の裾をつまんで、ぎゅっと握りしめていた♡


 それにつられて、私も笑ってしまう♡

 力が抜けたみたいに、肩のこわばりがほどけて、肺の奥から息がふっと漏れる♡♡

 胸の奥がきゅっと締まって、それがすぐに、じんわりとした熱に変わっていく♡


 声を立てるほどじゃない、息が零れるくらいの笑い♡

 お腹のあたりが少しむずがゆくて、背中にかけて微かな震えが走る♡♡

 心臓の音が、さっきより少しだけ近くで鳴っている気がした♡


 名前を呼び合っただけなのに、胸の奥がじんわり温かくなって、その温度が、呼吸に合わせてゆっくり広がっていく♡


 ねえ……お願い……もっと名前を呼んで……蕩けさせて……♡

 私の全部が……可愛いって言ってるの……もう止まらない……♡

 名前を呼ぶたび……もっと好きになってく……♡


 由梨が違うのは、許す側にも、傷つく側にも、居座ろうとしなかったところ。


 由梨は、決して謝罪を受け取ることで上に立とうとしなかった。

「許してあげる私」になろうとしなかったし、

「傷つけられた私」を盾にすることもなかった。


 痛みはあったはずだ。

 戸惑いも、不安も、感じなかったわけがない。

 それでも由梨は、ただ同じ高さで立っていた。


 謝られる側として、でも同時に、関係の当事者として、上下を作らず、勝ち負けを持ち込まない。

 “互いの納得”よりも“関係を継続する意思”を選ぼうとする。


 莉里に絡まれることも、誰かの嫉妬を買うことも、私と関わってしまえば、避けられない。

 それは言い訳みたいに聞こえるかもしれないけれど、私にも由梨にもどうしようもない部分だ。


 他者がどう動くかは制御できない。

 最終的に決められるのは、どう向き合うかだけ。


 だからこの場にあったのは、判断を下すことじゃない。

 誰が正しくて、誰が間違っているかを決める時間でもない。


 どこで傷ついて、どこですれ違って、どんな痛みを、それぞれが抱えてしまっていたのか。

 それを責めるためじゃなく、次に同じ場所で立つために、静かに見つめ合う作業。


 私は、由梨が傷つけられたという事実そのものが苦しかった。

 誰かに何かをされた、という出来事以上に、由梨がその痛みを一人で抱えたかもしれない、という想像が胸に刺さって離れなかった。


 でも由梨は、そんなふうに苦しむ私の姿を見る方が、もっとつらいのだと教えてくれた。

 だからこの謝罪と許しは、そもそも「許す」「許される」という形をしていない。


 どちらかが罪を背負い、どちらかが裁くものじゃない。

 ただ相手に心地良くいてもらうための、微調整。

 噛み合っていなかった歯車を、そっと元の位置に戻すだけの作業。


 だから上下は生まれなかった。

 恩も、借りも、力関係もない。

 どこまでも水平で、対等だった。


 由梨は、私の言葉を“道具”として扱わなかった。

 目の前に並べて突きつけたり、自分の立場を有利にするために使おうとする気配が、まるでない。

 私の言葉を、そのまま受け取って、変に噛み砕いたりもせずに、ただそのまま返してくれた。


 『いいよ、って言っても沙織は気にするんだよね……?』

 その一言を聞いた瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、すっと緩んだ。


 息が、自然に落ちる。

 浅く速かった呼吸が、深くなる。

 肩に入っていた力が抜けて、指先まで強張っていたことに、そこで初めて気付く。


 ああ、私は──由梨に罪を裁かれたかったし、許して欲しかったんだ、と。


 でも由梨は、私の罪だけを拾い上げなかった。

 後悔も、不安も、自己嫌悪も、全部まとめて受け取って、その中から「想い」だけを選び取って、返してくれた。


 だから話し合いは、交渉にならなかった。

 条件も、妥協点も、落とし所もない。

 あるのは、「そう思ってたんだね」という確認だけ。


 心臓の鼓動が、少しずつ落ち着いていく。

 耳の奥で響いていたざわめきが、遠のく。


 思いは、どうしても一方通行になりがちだ。

 相手を大事に思えば思うほど、相手が傷つく可能性を考えてしまって、それだけで胸の奥が、きり、と痛む。


 その痛みから逃げたくて、「じゃあ自分だけが傷つけばいい」と、安易な自己犠牲に飛びつきたくなる。でもそれは、優しさじゃない。

 相手から選ぶ権利を奪う行為で、結局は、相手を信じていないのと同じことだ。


 信じてほしいのに、相手にされてないのかも。

 そういう感覚が胸に残ると、人は弱くなる。


 理由も、証拠も、はっきりした拒絶があるわけじゃない。

 ただ、相手の一言や沈黙の隙間に、「本当は信用されていないんじゃないか」という影が差し込む。


 その痛みが、じわじわと胸の内側に溜まっていくと、つい、相手を責める言葉が浮かんでしまう。


 どうして分かってくれないの。

 どうして信じてくれないの。

 でもそれは、相手を大切に思っていないからじゃない。


 むしろ逆だ。


 どちらも相手が大切で、どちらも失いたくなくて、想いが強ければ強いほど、傷は深くなる。

 理解しようとすればするほど、「それでも信用されていないのかもしれない」という疑いが消えなくなる。


 それは、相手を疑っているからじゃない。

 裏切られる前提で構えているわけでもない。

 ただ──信じたいからこそ、怖くなる。


 信じて、もしそれが返ってこなかったら。

 信じ切った先で、否定されたら。


 その痛みを想像するだけで、胸の奥がひりつく。だから人は、確かめたくなる。

 

 でも、確かめるのは怖い。


 『……沙織ちゃんは、何が恐いの?』

 こんな問いは、本当なら投げられない。


 引っかかりを感じても、気付かないふりをして、流してしまう方がずっと賢い。


 だって、普通に聞けば──

 相手の内面に土足で踏み込む行為になる。


 問い方ひとつで、責めているようにも、試しているようにも聞こえてしまう。

 だから多くの人は、聞かない。


 でも、由梨の問いにはそんな圧がなかった。

 問い詰めるような聞き方じゃない。

 正解を求める声でもない。


 ただ、少し距離を縮めて、こちらを覗き込むみたいな問い。答えを引き出すためじゃなく、

 そこに何があるのかを、知ろうとする問いだった。


 そして同時に、それは──。

 「私自身が、自分の答えを見つけるための問い」でもあった。


 由梨は、きっと明確な答えを期待していなかった。

 言葉に整えられた理由や、納得できる説明を求めていたわけじゃない。


 ただ、私のことを知りたかっただけ。

 怖がっている私も、疑ってしまう私も、それでも信じようとする私も。


 由梨は、そこに条件なんて付けなかった。

 正しいかどうか。扱いやすいかどうか。

 そういう前提を、全部取っ払って、ただ「沙織」という人間を、そのまま見てくれた。


 無条件の承認って、何でも許されることじゃない。逃げ道を与えられることでもない。


 ただ──。

 ここにいていい、と思わせてくれること。


 それでも、やっぱり相手のことは知りたいと思ってしまう。

 どれだけ受け入れてもらえても、どれだけ肯定されても、知らなければ、その人の輪郭は曖昧なままだ。


 無条件の肯定は、たしかに救いになる。

 私という存在そのものを否定されない安心感は、何よりも温かい。

 それは、私そのものを信じてくれているからこそ生まれるものだと思う。


 でも同時に、どうしても問いが浮かぶ。

 ──なぜ、そう思えるの?

 ──なぜ、私を信じられるの?


 理由が欲しいわけじゃない。

 理屈で縛りたいわけでも、疑いたいわけでもない。


 ただ、相手がどこを見て、何を感じて、それでも私を選んでいるのかを知りたいだけ。

 無条件の好意は、嬉しくて、手離しがたくて、ときに依存に近い甘さを持っている。

 

 でも──。

 私を知ろうとしないまま差し出される好意は、どこか空虚にも感じてしまう。


 触れているはずなのに、触れられていない。

 見られているのに、見られていない。

 そんな感覚が、胸の奥に薄く残る。


 好きだから、知りたい。

 知りたいから、もっと好きになる。

 この順番は、とても自然で、

 たぶん、人が人を好きになるときの本質に近い。


 嫌いな関係から始まることだってある。

 誤解や反発や、距離感のズレから始まったとしても、相手を知ることで、見え方が変わることは確かにある。


 そして、知れば知るほど、その人が持っている不器用さや、怖さや、弱さまで含めて、愛おしくなっていく。

 相手を知るという行為そのものが、すでに好意の形なんだと思う。


 どんなことを考えているのか。

 何を望んでいるのか。

 何が好きで、何が嫌いで、何を大切にしていて、何に怯えているのか。


 それを知ろうとすることは、相手を管理するためでも、理解した気になるためでもない。

 ただ、同じ場所に立つため。

 相手を一段下に置くためでも、一段上に仰ぐためでもなく、同じ高さで、同じ景色を見るために。


 だから私は、無条件に肯定されるだけでは、満足できない。

 信じられていたいし、知ってもらいたい。


 そして、私もまた、相手を知り続けたいと思っている。由梨を、そして全ての女の子を。

 知れば知るほど、その人のことが好きになっていく。


 最初は些細な仕草や言葉に惹かれていただけなのに、話して、笑って、すれ違って、また話して。

 そうやって時間を重ねるうちに、相手の輪郭が少しずつはっきりしてくる。


 嫌なところだって、見えてくる。

 頑固なところ、不器用なところ、どうしても分かり合えない考え方。


 それでも、それらはただの欠点じゃなくて、その人らしさの裏側なのだと思えるようになると、不思議と全部が愛おしくなる。


 無条件の好意と、条件付きの好意。

 その境目も、いつの間にか曖昧になっていく。


 気づけば理由なんてどうでもよくて、ただその人のことをもっと知りたい、もっと近くにいたい、言葉を交わしたい──そんな気持ちだけが静かに残る。


 相手の存在が、いつの間にか手放せないものになっていく。

 誠意と好意を差し出して、受け取って、また差し出されて。

 信じて、信じられて、時には疑って、それでも向き合って。


 傷つけてしまうこともあるし、許せないと思う瞬間だってある。

 それでも、許そうとする。許されようとする。

 そうやって二人で関係を築いていくこと自体が、「一緒にいる」という意思表示なのだと思う。


 そこまで思える相手なら、もし関係が壊れることがあったとしても、きっと自然と「仕方ない」と思える。分かり合えないことがあるかもしれない。


 どうしても許せない出来事が起きるかもしれない。距離ができて、同じ場所に立てなくなる日が来るかもしれない。


 それでも、私は全力で向き合った、と胸を張って言える。


 自分に嘘をつかず、逃げずに選び続けた。

 そんな納得だけが心に残る関係なら──たぶん、どんな結末になっても大丈夫だ。


 信じて、信じられて、許し、許されて。

 飾らなくても、強がらなくても、ただあるがままの二人でいられた時間が、確かにあったと感じられるから。


 そうやっていられる関係こそが、私の願い。

 そして、それが私が由梨に望む、たったひとつのことだった。

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