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第77話 ※由梨視点 沙織という光が好きなだけ♡

 沙織は、一軒の戸建ての前で足を止めた。

 派手さはない。門が大きいわけでも、外壁が目を引くわけでもない。


 ただ、周囲の家と並んで見たときに、不思議と浮かない、馴染み方をしている。この一帯そのものが、きちんと手入れされている。


 道路は静かで、家々の前には低めの植え込みや鉢植えが並び、どこも少しずつ違うのに、全体として落ち着いた統一感がある。

 ああ、ここは“そういう場所”なんだな、と直感的に思う。暮らす人間が似た価値観を共有している、静かで余裕のある場所。


「ここが私の家。まだ親は帰って来てないから、遠慮なく上がって」

「……お、お邪魔します」


 沙織はそう言って、何でもないことみたいに玄関へ向かう。

 その背中を一歩遅れて追いながら、私はほんの少しだけ呼吸を整えた。


 玄関の扉が開くと、空気が変わる。

 ひやりとした外気から切り替わる、家の中の温度。そして、匂い。沙織の香りがした。


 シャンプーや香水みたいな、分かりやすい匂いじゃない。

 洗い立ての布、木の床、ほのかに残るアロマ。

 それらが混ざり合って、沙織の奥底に沈んでいる「生活の匂い」。


 胸の奥がふっと緩んで、思わず小さく息を吐いてしまう。

 その空気をもう一度吸い込もうとして、視線を上げた瞬間、沙織と目が合った。


 柔らかく微笑まれる。見られていた、と気づいた途端、耳の奥まで熱が走る。

 慌てて視線を逸らすと、靴を脱ぐ手元が少しもたついた。


 沙織の言う通り、家の中に人の気配はない。

 物音も、話し声もない。ただ、家がきちんと息をしている感じだけがある。


 玄関は驚くほど整っていた。

 靴はきれいに揃えられ、棚の上には小さな置き物と、さりげなく飾られた季節の花。

 主張しすぎないけれど、選ばれているのが分かる。


 そのまま沙織の背中について階段を上がり、二階へ向かう。

 軋みの少ない木の階段を一段ずつ踏むたび、胸の奥が落ち着かなくなっていくのが自分でも分かった。


 沙織が扉の前で立ち止まり、何でもない動作でノブを回す。

 扉が開いた途端、甘い香りがふわりと流れ出した。さっき玄関で感じたものより、ずっと濃い。


 でも嫌じゃない。むしろ、胸の奥を撫でられるみたいに、じわっと体温が上がる。


 とくん。

 心臓が、はっきり分かるくらい強く跳ねた。

 驚きに近い感覚で、指先が一瞬ひやっとして、そのあとすぐに熱を帯びる。

 喉の奥がきゅっと縮んで、唾を飲み込む音がやけに大きく感じられた。


 深呼吸しようとするのに、息が浅くなる。

 身体が勝手に反応しているのが分かって、少しだけ恥ずかしい。


「それで、ここが私の部屋ね。飲み物取って来るけど、お茶とジュースはどっちがいい?」

「……お、お茶でお願いします」

「はーい、お茶ね。冷たいのと、温かいのどっち?」

「つ、冷たいので」

「了解。ごめんけど、ちょっと待っててくれる? 適当にくつろいでくれて良いから」


 何事もなかったみたいに言う沙織の声が、やけに近く聞こえる。

 声が少し上ずったのが、自分でも分かって恥ずかしい。


 そう言って微笑んだ沙織は、軽やかに部屋を出ていった。

 扉が閉まる音がして、部屋に残されたのは私ひとり。


 急に静かになった空間で、さっきまで意識していなかった鼓動の音が、耳の奥で大きくなる。

 落ち着こうとしても、身体の熱がなかなか引かない。


 どうしていいか分からなくて、私はそのまま床に腰を下ろした。視線を巡らせる。


 ベッドはきちんと整えられているけれど、シーツにはわずかに生活の跡が残っている。色味は落ち着いた白と淡いピンク。

 完璧に張り詰めた感じじゃなくて、何度も人が腰を下ろし、眠ったことのある柔らかさ。


 枕元には読みかけらしい文庫本と、スマホの充電ケーブル。

 無意識に置いたまま、という感じがして、そこに沙織の日常が見える。


 机は全体的に片付いているけれど、隅のほうにはペン立てに入りきらなかったペンが数本転がっていて、引き出しの一部が少しだけ開いている。

 きちんとしているのに、きちんとし過ぎていない。


 壁際には、小ぶりなドレッサーが置かれている。

 木目の明るい色合いで、主張は控えめ。でも、確かにここが“自分と向き合う場所”だと分かる存在感がある。


 本棚には、参考書や小説に混じって、漫画や雑誌が並んでいる。

 流行りの少女漫画や、ファッション誌。

 背表紙の色合いがどこか柔らかくて、「女の子の部屋」だと実感させられる。


 それが不思議と、沙織の印象と矛盾していない。

 美しくて、整っていて、でもちゃんと女の子らしい。可愛い、というより──綺麗で可憐。


 それでも、ところどころに崩れた部分があるからこそ、生々しい。

 この部屋で、沙織が一人で笑ったり、考え込んだり、何も考えずにベッドに倒れ込んだりしているのが、簡単に想像できてしまう。


 胸の奥が、また少しだけ跳ねた。

 私は、そっと息を吸う。

 甘い香りが、肺の奥まで染み込んでくる。


「お待たせ。冷たいお茶って言ってたから、麦茶だけどいい? 珈琲とかも出せたけど」

「いやいやいや、麦茶が良いです。頂きます」


 沙織ちゃんがそう言いながら部屋に戻ってくる。

 片手にはグラスが二つ。氷が触れ合って、小さく涼しげな音を立てていた。


「ごめんね、あんまり綺麗なお部屋じゃなくて」

「……そんなことない。なんか沙織の部屋……って感じが凄い伝わる」

「そう? なんかそう言われると照れちゃうね」


 沙織は少しだけ視線を逸らして、グラスを机の上に置いた。

 その仕草が自然で、家の中で過ごす彼女の素の動きそのものみたいで、胸の奥がまたきゅっとする。


 私もグラスを受け取る。冷たい。

 指先に触れたガラスの感触が、今の自分にはやけに鮮明で、少しだけ落ち着きを取り戻す。


 お互いに、何を話せばいいのか分からないみたいに、曖昧に笑い合った。

 笑顔の奥に、同じくらいの気まずさと、同じくらいの期待が混じっている気がして。


 沙織、みたいな呼び捨ては、やっぱり難しい。

 なんとか頑張ってはいるものの、喉の奥で引っかかって、なかなか素直に出てこない。


 沙織ちゃんは、沙織ちゃんだ。

 少し距離があって、でもちゃんと近くて、その曖昧な位置が、今の私には一番心地良い。


 でも、沙織ちゃんは、そういう私の感覚を、分かった上で崩してくる。

 そして、それが今の沙織ちゃんが私に望む距離感なんだと思う。


 帰り道に、沙織から『沙織って呼んで欲しい』と言われたことを思い出す。


 あの時の目。逃げ場を与えないくらい真っ直ぐで、熱を帯びているのに、どこか冷たい。

 胸の奥に、鋭く差し込んでくるような強さがあった。


 今まで見てきた沙織の瞳は、いつも優しかった。

 温かくて、穏やかで、どこか少し上から撫でてくれるみたいな安心感があって。


 でも、その時の視線には、そういうものが一切なかった。

 逃げ道を塞ぐわけでもなく、脅すわけでもなく、ただ、どこまでもひたすらに、私という存在だけを正面から射抜いていた。


『私も由梨のこと信じたい。だから由梨ももっと私を信じさせて』

 その言葉を思い出した瞬間、胸の奥がきゅっと縮こまる。


 喉の奥が詰まって、息が一拍遅れる。

 心臓の音が急に大きくなって、自分の体の内側で鳴っているのが分かる。


 信じる、という言葉が、あんなにも重たいものだとは思っていなかった。

 沙織にとってそれは、軽く差し出せる好意なんかじゃない。


 自分の弱さも、怖さも、逃げたい気持ちも全部抱えたまま、それでも踏み出す行為なんだ。


 だからこそ、恐ろしい。

 背中に、じわっと冷たい汗が滲む。

 肩に無意識に力が入って、指先が少し強張る。

 足の裏が床に貼りついたみたいに重くなって、動けなくなる。


 私が沙織に「信じて欲しい」と言った言葉は、こんな重さを持っていただろうか。

 そんなわけがない。


 私はただ、もっと沙織みたいになりたかっただけだ。もっと力になりたかっただけ。

 沙織に、知らないところで線を引かれるのが怖かっただけ。


 それなのに、今の沙織は──少しだけ、いや、かなり恐い。


 その理由を言葉にしようとするけれど、なぜだか全部すり抜けていく。

 威圧されたわけでも、怒られたわけでもない。


 なのに、胸の奥に残るこのざらついた感覚だけが、どうしても消えてくれなかった。


「……まずは由梨に、ちゃんと正式に謝罪させて欲しい。私と莉里の問題に、由梨を巻き込んでしまったこと。本当に申し訳ないって思ってる。だから……ごめんなさい」

「……いいよ、って言っても沙織は気にするんだよね……?」


 沙織の声は静かで、落ち着いていた。

 私の返した声は、自分でも驚くくらい、弱い。

 それでも聞かずにはいられなかった。


 沙織は改まったように、私の前に正座する。

 背筋は真っ直ぐで、視線は逸らされることなく、まっすぐ私に向けられていた。


 さっき感じた、あの熱を帯びた強さと、芯の冷たさは確かにそこにある。

 けれど今は、それ以上に、影が深い。


 感情を削ぎ落としたあとに残る、静かな決意みたいなもの。

 怒りでも、優しさでもなく、覚悟だけが沈殿している眼差し。


 土下座まではいかない。

 けれど、沙織は迷いなく膝に手をつき、きちんと頭を下げた。


 その動作があまりにも端正で、無駄がなくて、息を呑む。

 自分を低く見せるためじゃなく、責任を引き受けるための姿勢。


 ──綺麗だ、と思ってしまった。

 その在り方そのものが、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも潔い。ひどく気高くて、どうしようもなく美しかった。


 なのに、どうしてだろう。

 喉の奥が熱くなって、視界の端が滲みそうになる。


 こんな沙織は、見たくなかった。

 こんなふうに、完璧な形で自分を差し出す姿なんて、私が受け止められるはずがない。


 沙織はもっと、余裕があって、優しくて、少し上から私を包む光でいてほしかったのに。

 それでも、目が離れない。瞬きすら惜しくて、ただ見つめ返すことしか出来なかった。


 でも、その恐さがあるからこそ、目を逸らせない。綺麗だ、と思ってしまう。


 感情を隠しているわけじゃないのに、どこまで本気なのか分からない。その真剣さが、優しさと同じ顔でこちらに迫ってくるのが恐い。


 でも、恐いからこそ、目を離せない。

 壊れそうなほど剥き出しなのに、決して崩れない強さがそこにあって、その矛盾した在り方に、心ごと惹き付けられてしまう。


 私の意思なんて関係ないみたいに。

 抗う隙もなく、ただ引き込まれていく。


 ただ──沙織を信じたい。

 沙織に信じてもらいたい。


 その言葉が持つ重さも、危うさも分かっているのに、私はもう、その言葉に飲み込まれるしかなかった。


 沙織が踏み込んでくれたから。

 沙織が求めてくれたから。

 そんなふうに理由を並べたくなるけれど、そんなのはきっと、全部後付けだ。


 自分の心を守るための、都合のいい説明。

 本当は、そんな理由なんて必要なかった。


 私はただ、「沙織を信じたい」という言葉に引き寄せられているだけ。

 理屈でも、責任でも、約束でもない。

 ただ、そうしたいから、そうしているだけ。


 だって、信じたい。

 いや、もうとっくに信じている。

 沙織の力になりたいし、沙織のことをもっと知りたい。


 それは義務でも覚悟でもなくて、もっと単純で、どうしようもなく自然な感情だった。


 それくらい、私の中の沙織は大きい。

 視界の中心にいて、迷ったときには勝手に基準になってしまう存在。


 何かをしていなくても、ただ存在しているだけで、眩しいほどに光って見える。


 沙織は、どこまでいっても沙織で。

 私は、どこまでいっても私だ。

 その距離は埋まらないし、同じ場所に立つこともできない。それでもいい。


 沙織が間違えたって、別に構わない。

 完璧じゃなくていい。


 傷ついて、迷って、取り返しのつかないことをしてしまう日が来たって、それで沙織が沙織じゃなくなるわけじゃない。


 私はただ、沙織という光が好きなだけ。

 綺麗なところだけじゃなくて、影を落とす瞬間も含めて、その在り方そのものが好きなだけ。


 だから、信じたい。疑わないという意味じゃなく、裏切られないと願うという意味でもなく。

 それでも手を伸ばしたいと思ってしまう、その光を。


 沙織っていう光を、私は信じたい。

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