第76話 私の全てを捧げるの♡
「……そうだね。うん、そうする。由梨ちゃんも、莉里に言い返せるようになったんだもん。私も言われて当然だ」
「そ、そんな。だからあれは咄嗟のことで、全然覚えてなくて」
「そんなの全然、関係ない。由梨ちゃんの想い、ちゃんと私に伝わってるから」
「……沙織ちゃん」
自分の言葉の意味を噛み締めながら、私は小さく息を吐いた。
肩に入っていた力が、少しだけ抜ける。
由梨ちゃんは慌てたように首を横に振るけれど、言葉とは裏腹にその視線はまっすぐで、逃げない。
そのちぐはぐさが、胸の奥に静かに刺さる。
呼ばれた名前が、思っていたよりも静かで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
理性という名の言葉に、どれほどの意味があるのだろう。
自我という境界線が、いざというときに人を守ってくれるなんて、誰が本気で信じられるだろうか。
由梨ちゃんの好意を前にすると、それらはあまりにも脆い。
守ってくれるはずの輪郭は、触れられる前から溶け始めて、気づけば「考える」という行為そのものが遅れを取る。
欲しい。
ただそれだけの感情が、他の判断を押し流していく。
心というものは、こんなにも凄くて、こんなにも恐ろしい。
正しさも、距離も、節度も、「自分であること」さえも、簡単に交換条件にしてしまう。
私はもう、由梨ちゃんの好意に飲まれかけている。
そして正直に言えば、飲まれないための選択肢なんて、最初から用意されていなかった。
抗う理由が見つからない。
抗った先に残る未来が、あまりにも空っぽに思える。
だから、恐い。
由梨ちゃんが、恐い。
彼女は何も奪おうとしていない。
ただ、まっすぐに好意を差し出してくるだけなのに、それが私の中のすべてを揺さぶる。
このままなら、私はきっと、
自分の中にあるものを全部差し出してでも、由梨ちゃんを手放したくないと願ってしまう。
尊厳も、余裕も、引き返すための言い訳も。
全部置き去りにして、それでも構わないと思ってしまう。
それは依存に近い。
けれど同時に、救いにも見える。
由梨ちゃんに心の奥底を覗かれそうなことが、恐い。
取り繕ってきた言葉も、見ないふりをしてきた弱さも、全部知られてしまう気がする。
それでも私は、
その奥を見た上で、なお変わらない好意を向けられることを、どこかで強く望んでいる。
理解されたいのではない。
肯定されたいのでもない。
壊れやすい部分ごと、丸ごと見られて、
それでも選ばれたい。
だから、由梨ちゃんに、私の心を見透かされたい。
恐いのに、不思議と逃げたいとは思わない。
恐くないのではなく、恐さの向こう側に、抗えない引力がある。
恐ろしいからこそ、目を逸らせない。
恐ろしいからこそ、手を伸ばしてしまう。
だって、由梨ちゃんは自分から「信じて欲しい」と口にした。
味方でいる、と。私のために頑張る、と。
そんなふうに言われてしまったら、もう逃げ道なんてない。
疑うことも、距離を取ることも、試すことすら許されない。
信じるしかない。
信じなければ、彼女の覚悟を踏みにじることになる。
しかもその言葉は、軽く吐き出されたものじゃなかった。
莉里に一人で詰められて、空気が張り詰めて、誰にも助けを求められなかったあの場で。
由梨ちゃんは、私のために動いた。
助けが来る保証なんてなかったはずだ。
反抗した後に、どういう反撃を喰らうのか理解出来ないわけがない。
それでも、由梨ちゃんは私を思って動いた。
だからこの言葉は、ただの約束じゃない。
由梨ちゃんの想いも、判断も、恐怖も、全部込みの言葉だ。
その全部が、今も私に向けて注がれていると思った瞬間、胸の奥が、ぎゅっと内側に縮こまる♡
息が浅くなる♡
背骨に沿って、じわじわと熱が昇ってくる♡♡
嬉しい♡♡♡
──でも同時に、重い。
とんでもなく重くて、逃げ場のない重さだ。
これは好意なんて生易しいものじゃない。
由梨ちゃんという存在そのものを、私に預けられている感覚。
器の大きさを試されている。
私が、受け止め切れるかどうかを。
そう思った途端、喉がきゅっと締まって、言葉が出なくなる♡
肩に力が入って、無意識に指先を握り込んでいる自分に気づく♡♡
鼓動が早い♡
耳の奥で、自分の心臓の音がやけに大きく響いている♡♡
熱くて……苦しくて……♡でも幸せすぎて……大好き……♡
可愛すぎて……息が甘く絡まって……呼吸まで蕩けちゃう……♡
んんっ……好きが、心臓をぎゅうって……壊れる音、しちゃう……♡
嬉しくないわけがない。
こんなふうに選ばれて、信じられて、賭けられて。
でも、恐くならないわけがない。
受け止めるってことは、簡単に裏切れないってことだから。
期待を受け取るというのは、
相手の人生の一部を引き受けるということだ。
それを突きつけられて、
それでも胸の奥で、確かに何かが高鳴っているのを、私は否定できなかった。
怖いのに、逃げたいとは思わない。
重いのに、手放したいとは思えない。
逃げるぐらいなら、私は私なりに覚悟を決める。
真正面から向き合って、全力で由梨に立ち向かうしかない。
それがどんなに愚かで依存的な選択肢だとしても、それが私の生き方だから。
「沙織ちゃんだなんて、もう他人行儀な呼び方は嫌。ちゃんと沙織って呼んで欲しい。私もちゃんと由梨って呼ぶから」
「え、あ、な、なんで、いきなり……?」
「私も由梨のこと信じたい。だから由梨ももっと私を信じさせて」
「……え、あ、うん。……分かった、沙織」
その一言は、お願いというよりも宣言に近かった。
距離を詰めるための確認であり、覚悟の提示。
逃げ道を自分で閉じた感覚。
名前を呼ばれた、それだけで、空気が変わる。
私は由梨に向けて、ゆっくりと微笑む。
作った笑顔じゃない。
力を抜いて、ただ受け取るための表情。
由梨は一瞬だけ目を見開いて、それから視線を逸らす。
耳まで赤くなって、肩がほんの少しだけ内側にすぼまる。
息を吸う音が、わずかに早い。
胸が上下しているのが、服越しでも分かる。
それでも逃げない。
逃げずに、もう一度こちらを見る。
目元がゆっくりと崩れていく。
緊張がほどけて、照れと安堵が混じった、柔らかい表情。
まるで、初めて安全な場所に足を置いたみたいに。
踏み込んでいいと許された子どもみたいに。
その反応を見た瞬間、胸の奥がじんわりと熱を持つ。心臓の鼓動が、ひとつ分だけ強くなる♡
ああ、由梨は踏み込んで来てくれた。
私の内側に、ちゃんと足を運んでくれた。
たぶん私がどれだけ嬉しいか、
この一言にどれだけの決意を込めたか、
由梨はまだ分かっていない。
でも、それでいい。
全部を理解されなくていい。
もう由梨は、「女の子」という一括りの中に収めてしまえる存在じゃない。
神聖で、尊くて、守るべき光──そう言い切ってしまうには、近すぎるところまで来てしまった。
確かに眩しい。
真正面から見つめ続けたら、目が潰れてしまうんじゃないかと思うほどに輝いている。
けれど、その光は抽象じゃない。
由梨は由梨だ。
それ以上でも以下でもなく、名前を持った一人の人間だ。
だから私は、「分かっている側」でも、「導く側」でもなく、ただの沙織として向き合う。
由梨にも、同じように、ただの沙織として向き合って欲しい。
もちろん、それが今すぐ出来るなんて思っていない。
由梨には由梨の足りなさがあって、未熟さがあって、迷いもある。
そして私も、同じくらい未完成だ。
覚悟なんて、まだ決まっていない。
正直に言えば、踏み込みすぎた先で何が起きるのか、まだ想像しきれずにいる。
だから、今はこの距離でいい。
「沙織」と「由梨」と呼び合いながら、
時々、無意識に「沙織ちゃん」「由梨ちゃん」に戻ってしまう、その曖昧な境界で遊んでいればいい。
近づいたり、少し離れたり。
名前ひとつ分の距離で、互いの輪郭を確かめ合う。
私は決して急かさない。
由梨を試すつもりも、縛るつもりもない。
この関係を進めるために、由梨を傷つけたいわけじゃない。
不安にさせたいわけでも、苦しめたいわけでもない。
傷付くことが必要なら、私はそれも受け入れる。
関係ってそういうものだし、痛みを経なければ辿り着けない場所があるのも知っている。
でも、避けられる傷までわざわざ抱え込む理由はない。
無理に血を流すことが誠実さだなんて、そんな道理はどこにもない。
私は、どこまでも一緒に歩きたい。
立ち止まる時も、迷う時も、できるなら同じ速度で。
その覚悟はもう出来ているし、途中で投げ出すつもりもなかった。
だから残るのは、ただ一つ。
由梨が、どこまでついて来てくれるのか、それだけだ。
この気持ちが裏切られる可能性だって、ちゃんと分かっている。
期待すればするほど、返ってこなかった時の痛みが深くなることも、もう知っている。
由梨には彼氏がいる。
私はその事実から目を逸らすつもりはないし、そこに割って入れるような存在でもない。
奪う気も、壊す気もない。
だから、これは、私の一方的な誓いだ。
由梨に背負わせるものじゃないし、答えを要求するものでもない。
由梨がどう返してくれるかは、由梨が決めればいい。
沈黙でも、距離でも、曖昧なままでも、それは由梨の選択だ。
それでいい。
だからこそ、いい。
私の想いは、私だけのもの。
誰かに保証してもらう必要も、正しさを証明してもらう必要もない。
この想いを抱き続けるか、手放すか、形を変えるか。
どう扱うかを決めるのも、私自身。
自由で、身勝手で、でも確かに私だけの責任だ。
──けれど。
もし、もし由梨が、この想いに応え続けてくれるのなら。
逃げずに、目を逸らさずに、私の方を見続けてくれるのなら。
その時は、この心を明け渡してもいいのかもしれない。
守ってきた境界も、計算も、俯瞰も、全部投げ出して。
この私の全てを、由梨に捧げる。
それがどれほど危うくて、取り返しのつかない選択でも──それでも、私は構わない。
私がそう決めて、心に定めたことだから。
「そうと決まったら、早く私ん家行こ。いっぱい可愛くなれるよう、由梨に教えてあげる」
「あ、うん。沙織、待ってって」
勢いで言い切ってから、少しだけ胸の奥がくすぐったくなる。
名前を呼ばれた瞬間、心臓が一拍だけ強く跳ねた。
その音をごまかすみたいに、私は由梨の手を取る。
指先が触れ合って、次の瞬間には自然と絡まる。
意識して力を入れたわけでもないのに、離すという選択肢が最初から存在しなかったみたいに、指が収まる場所を見つけてしまう。
「ほら、由梨、行くよ」
笑顔のまま、私は駆け出す。
舗道を蹴る靴の音が軽くて、風が頬を撫でて、世界が少しだけ明るくなる。
由梨は一瞬だけ足取りが乱れて、それから慌てて私に引っ張られるように走り出す。
呼び慣れない呼び捨てに戸惑っているのが、握った手越しにも伝わってきて、思わず口元が緩んでしまう。
由梨は、私に引かれて走っている。
振りほどこうとはしない。握り返してくれる。
そして私は、その繋がりがたまらなく嬉しいまま、振り返らずに家までの道を駆けて行った。




