第73話 今ここにいる由梨ちゃんだけが全てなの♡
私と由梨ちゃんはバスを降りて、並んで私の家へ向かって歩き出す。
エンジン音が遠ざかって、さっきまであった人の気配も、いつの間にか消えていた。住宅街に入ると、夕方の空気が急に静かになる。
それまでは何気ない会話で場を繋いでいた。授業のこと、テレビの話、どうでもいい雑談。
でも、由梨ちゃんの表情がどこか硬いことには、最初から気づいていた。
理由は分かっている。
分かっているから、見ないふりをしていた。
私と二人でいるのに、心から楽しんでもらえていないのは、正直つらい。
それでも、周囲からの印象を考えれば、由梨ちゃんが頑張って取り繕ってくれていることは明らかで、下手な嫉妬や誤解を生まないために、笑顔を保ってくれているのも分かる。
その健気さに、胸の奥がじわっと温かくなると同時に、きゅっと締め付けられる♡
歩く速度をほんの少しだけ落とす♡♡
無意識のまま、距離を詰めてしまっていた♡
そっと、指先が由梨ちゃんの手に触れる♡♡
触れた瞬間、心臓が一拍遅れて強く打った♡
自分でも驚くくらい、身体が正直に反応する♡♡
由梨ちゃんの手は少し冷たくて、緊張しているのか、指先がほんのわずかに強張っている。その感触が、はっきりと伝わってくるだけで、胸の奥がじんわり熱くなる♡
必死に平気なふりをして、ちゃんと周りを気にして、ちゃんと「いい子」でいようとしている。その全部が、手のひら越しに伝わってきて、思わず喉の奥が詰まる♡
握る力を強くしたら、壊してしまいそうで♡
でも離したら、逃げてしまいそうで♡♡
中途半端な力で、そっと包むように指を絡める♡♡♡
胸の内側が、きゅうっと縮む♡
愛しい、という感情が、思考より先に身体を満たしていく。背中の奥が熱くなって、呼吸が少し浅くなるのが分かった♡♡
好きっ……可愛いっ……ほんとに……大好き……♡
私の全部が……可愛いって言ってるの……もう止まらない……♡
震える指先……可愛い横顔……全部私だけのものにしたい……♡
「……由梨ちゃん、ごめんね」
「え、えっと、何が……?」
「何がって言われると難しいけど……色々。でも、今謝らないとって思ってるのはね。由梨ちゃんの彼氏と、連絡先を交換したこと。あれ……嫌だったよね? ごめんなさい」
声に出した瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
戸惑ったようにこちらを見る由梨ちゃんの表情に、胸がちくりと痛む。
付き合う、というのは、結局のところ、互いの存在を承認し、一定期間に限って献身と優先を約束します、という口約束に過ぎない。
それは契約書に署名するような明確なものではなく、破ったからといって罰則があるわけでもない。
優先度は流動的で、気分や状況、相手への好意の揺れひとつで簡単に上下する。
どこまでを「恋人としての義務」と呼ぶのかも人によって違うし、捧げる献身の量も質も、その時々で変わってしまう。
形がなく、境界も曖昧で、触れたと思った瞬間にはもう輪郭が崩れている。
それでも、学校という閉じた空間にいる間は、その不安定さが覆い隠される。
クラスメイトの視線、友人関係、噂話。
周囲との繋がりが、二人の関係を「そういうもの」として固定してくれるからだ。
あの二人は付き合っている。
だから特別で、だから踏み込んではいけない。
そんな暗黙の了解が、関係をそれなりに安全なものに見せてくれる。
けれど、それすらも「自由恋愛」という言葉の前では、本質的には何の意味も持たない。
好きになったら好きになった、それだけでいい。
誰を選ぶかも、誰と時間を過ごすかも、個人の自由だという前提が、すべてを解体してしまう。
それでも女の子は、その関係性に唯一性を見出してしまう。
この人は私だけを選んでくれている。
私もこの人を選んでいる。
そう信じたくなる。
何の拘束力もない。
続く保証も、裏切られない約束もない。
ただ互いが「そうだと思っている」だけで成り立つ、ほとんど幻想のような関係性。
そもそも恋愛というもの自体が、霞がかった存在だ。
好きという感情は測れないし、固定もできない。
昨日は確かだったものが、今日には揺らぎ、明日には消えてしまうこともある。
そんな不確かなものに、「付き合う」という言葉で明確な定義を与えようとすること自体が、最初から無理なのだと思う。
連絡の頻度。
誰と、どんな内容をやり取りしているのか。
学校での立ち位置や距離感。
放課後や週末を誰と過ごすのか。
勉強を教え合うことも、悩みを聞くことも、時間や労力を差し出すことも。
そして、性行為という最も踏み込んだ行為でさえ、この薄皮一枚の関係の上で行われている。
女の子という存在は、本来もっと神聖で、尊くて、その身体の価値だって、簡単に切り売りしていいものじゃない。
少なくとも、頭ではそう理解している。
それでも現実は残酷で、男からの強い承認や確かな献身を獲得しようとすると、どうしても身体という“性的資本”を担保に差し出さざるを得ない場面が生まれてしまう。
言葉や態度だけでは足りない。
時間や優しさだけでは、他の女の子との差別化にならない。
特に、価値のある、モテる男を相手にするならなおさらだ。
彼らは選ぶ側で、女の子は選ばれる側に置かれやすい。
その非対称性の中で、女の子は自分の価値を証明するために、いちばん分かりやすく、いちばん危ういカードを切ってしまう。
男は、女の子からの承認を欲しがる。
それは「愛されている」という実感であり、
同時に、存在価値を認められたという証でもある。
そのために男は女の子に対して、
承認という名の言葉を与え、
献身という名の時間や労力を差し出す。
優しさも、気遣いも、我慢も、
すべては無意識のうちに、交換の天秤に載せられていく。
多少の感情の揺らぎや、
本気と錯覚が混じることはあっても、
構造の底にあるのは、どうしても取引だ。
これが、「付き合う」という言葉で覆い隠された、
男女の恋愛関係という名の、静かで残酷なやり取り。
綺麗な言葉で包まれて、
曖昧さの中に押し込められた、
誰もはっきりとは口にしない、本質。
「そ、そんな……沙織ちゃんが私のためにしてくれてるの、分かってるから」
「それでも、嫌なことは嫌だと思う。だから、ごめんなさい」
「…………」
由梨ちゃんの声は、小さく震えていた。
否定じゃない。拒絶でもない。
ただ、必死に理解しようとしている音だった。
そんな歪んだ関係の中に置かれていても、
女の子は「付き合う」という言葉を、まるで救命具みたいに大事に抱えてしまう。
それがどれほど曖昧で、形がなくて、壊れやすい約束か分かっていても、
それでも男に多くの献身と承認を求めてしまう。
女の子は、本当はただ在るだけで輝いている。
誰かに選ばれなくても、
誰かに価値を証明してもらわなくても、
その存在そのものが、十分すぎるほど尊い。
それなのに、その価値を、
男という存在の評価に委ねてしまう。
好きだと言われるか、
大事にされているか、
離れていかないか──
そういう指標に、自分の輪郭を預けてしまう。
それだけ、女の子にとって「付き合う」という関係性の意味は重い。
ただの状態説明でも、肩書きでもない。
それは、自分が女の子であることを、
たった一人の相手に承認してもらう、という選択に近い。
だから、
ただの友達なら気にも留めないことが、
付き合うとなった瞬間に、胸をざわつかせる。
返信が遅い。
言葉が足りない。
態度が曖昧。
「忙しいんだろうな」で流せていたはずなのに、
「どうして?」という疑問が、
「私って大事にされてる?」という不安に変わっていく。
もっと早く連絡して欲しい。
もっとちゃんと言葉にして欲しい。
もっと分かりやすく、私を選んで欲しい。
そんな気持ちが、
理屈じゃなく、反射みたいに湧き上がって止まらなくなる。
それはなぜか。
付き合うという行為が、
その子の「女の子としての承認」を、
彼氏という存在に一本化する行為だからだ。
世界にたくさんの人がいても、
その中で「選ばれた」という事実が、
自分の価値を保証してくれるような錯覚を生む。
でもそれは同時に、
自分の存在価値の一部を、相手の手に預けることでもある。
相手の気分。
相手の誠実さ。
相手の都合。
それらに左右される場所に、
自分の大事な核を置いてしまうということ。
専属性は、甘くて、安心できて、
でもとても危うい。
選ばれた瞬間に救われた気がして、
選ばれ続けないと、不安で壊れそうになる。
付き合うという関係は、女の子にとって、
幸福と同時に、
自分を人質に差し出すような側面を、
どうしても含んでしまう。
だからこそ、誰か一人の男と付き合う、という選択は、
単に「好きな人ができた」という事実以上の意味を持つ。
それは同時に、他の男という選択肢を、自分の意思で排除するということでもある。
彼氏と真剣に向き合えば向き合うほど、その排他性は強くなる。
無意識のうちに、他の男から向けられる視線に敏感になり、
軽い冗談や好意のサインを、意図的に受け取らないようにする。
誤解を生まない距離を保ち、
余計な関係を作らないように、言葉や態度を慎重に選ぶ。
それは一見、恋愛における「礼儀」や「誠実さ」に見える。
浮気をしない、期待を持たせない、相手を不安にさせない。
そういう道徳的な振る舞いとして、社会的にも肯定されている。
──でも、それだけじゃない。
この行動は、もっと深いところで働いている。
生物としての、人間の“戦略”でもある。
人間は、理性で恋をしているつもりでも、
その土台には、どうしても本能が横たわっている。
男女どちらも、突き詰めれば「唯一性」を求めるように進化してきた。
自分だけが選ばれている。
自分だけが特別に愛されている。
その感覚は、ただの感情的な満足じゃない。
遺伝子を次に繋ぐ、という
とても原始的で、個体保存のための本能の延長線上にある。
男は無意識に、
「自分の遺伝子が、他の男のものと混ざらないこと」を求める。
だからこそ、独占や嫉妬という感情が生まれる。
理屈じゃなく、反射みたいに。
女の子もまた、無意識に、
「自分と、将来生まれるかもしれない子どもを、確実に守ってくれる存在が揺らがないこと」を求める。
愛情が分散しないこと。
優先順位が下がらないこと。
いざという時に、逃げないこと。
だから、付き合うという関係に入ると、
女の子は自然と“他を切る”。
それは我慢や犠牲というより、
自分の安全と価値を守るための、静かな自己防衛に近い。
唯一であることは、安心をくれる。
でも同時に、それはとても重たい。
誰かを選ぶということは、
その人が裏切らないと信じること。
そして、自分も裏切らないと誓うこと。
だから恋人同士になるということは、
単に「好き同士です」という宣言じゃない。
それは互いに、自分はこの人にとって唯一の存在だと示し合う行為でもある。
女の子が彼氏の前でだけ、必要以上に嫉妬深くなったり、
男の子が彼女を独占したい衝動に駆られたりするのは、
性格の問題でも、未熟さの証明でもない。
その奥では、もっと静かで原始的な本能が働いてるから。
奪われたくない。
取って代わられたくない。
選ばれた立場を失いたくない。
その感覚は、理屈よりもずっと先に身体に根を張っている。
そして──
その“唯一性”は、当人同士だけで完結するものではない。
恋人がいる、という事実は、
必ず周囲の視線を伴う。
特に女の子同士のコミュニティの中では、それは顕著だ。
そのように振る舞わなければ、
女の子たちからの評判は簡単に崩れてしまう。
浮気性な女の子は嫌われるし、
彼氏がいるのに他の男に色目を使う存在は、
警戒と反感の対象になる。
自分の彼氏が、
「彼氏持ちの女の子」に気軽に近付いていたら──
そう考えるだけで、周囲の女の子たちは嫌悪感を覚える。
だからこそ、
彼氏がいる状態で他の男に手を出されるなんて、
堪ったものじゃない。
もし、付き合っているにもかかわらず男にアピールする女の子ばかりになったら、どうなるか。
女の子という存在そのものへの信用が、少しずつ削られていく。
「あの子もどうせ」
「彼氏がいても平気で裏切る」
そんなラベルが、
個人を越えて共有されてしまう。
だから、男と付き合うという選択をした瞬間から、
周囲の女の子の目は自然と厳しくなる。
そしてその子自身も、
“彼氏がいる女の子”としての振る舞いを
半ば無意識に引き受けていく。
距離を取る。
線を引く。
誤解を生まない態度を選ぶ。
彼氏がいる女の子は、
少しずつ、周囲の男との関係を切り離されていく。
そして人間関係は、
彼氏ひとりを中心に据えた形へと収束していく。
それは守られているようで、
同時に監視されている状態でもある。
だからこそ、
その監視と制限に見合った“成果”を、
女の子は彼氏に求めてしまう。
ちゃんと愛してほしい。
ちゃんと優先してほしい。
私がこれだけ選んで、縛られているのだから。
唯一性を証明するということは、
安心を得る代わりに、
重たい期待と責任を背負うことでもある。
恋人になる、というのは、
思っているよりずっと、
社会的で、身体的で、逃げ場のない選択なのだ。
私も、由梨ちゃんの唯一性が欲しい。
それは所有したいとか、縛りたいとか、そういう粗い欲望とは少し違う。
ただ、選ばれている実感が欲しいだけだ。
私だけを見ている由梨ちゃん。
私の隣に立つことを選んでいる由梨ちゃん。
男になんて簡単に触れさせない、奪わせない、
そういう種類の繋がり。
たとえ由梨ちゃんに彼氏がいて、
それが私にはどうしても奪えない位置にある存在だとしても、今、この時間だけは違う。
バスを降りて、誰もいない道を一緒に歩いて、
わざわざ私の家へ向かっている、この瞬間。
由梨ちゃんがここにいるのは、
義務でも、流れでも、惰性でもなくて、
私と一緒にいたいと思ったからだ。
それだけでいい。
それだけが、今の真実。
過去も未来も、
誰のものになるかなんて分からない関係性も、
今は全部脇に置いていい。
今、この瞬間だけが全てで、
今ここにいる由梨ちゃんだけが全て。
その事実を認識した途端、
胸の奥がじわっと熱を帯びる。
息を吸うたびに、肺の内側が少し苦しくなって、
心臓の音が、やけに近くで鳴る。
指先が冷えているのに、
掌の内側だけが妙に熱い。
だからね、由梨ちゃん。
今ここにいる私は、全部由梨ちゃんのものだよ。
声を出すために震える喉も、
無意識に距離を詰めてしまう身体も、
由梨ちゃんを追って離れない視線も。
言葉にしきれずに胸の奥に溜まって、
今にも溢れそうなこの感情も、
全部、由梨ちゃんだけに向けたもの。
今、この瞬間だけに、
とびきり濃い承認をあげる。
とびきり真剣な献身を捧げる。
これから由梨ちゃんに、
メイクを教えてあげるって思うだけで、
お腹の奥がきゅっと縮む。
楽しみで、
嬉しくて、
少し怖くて。
頬が勝手に熱を持って、
口元が緩みそうになるのを必死で抑える。
呼吸が浅くなって、
鼓動が早くなって、
由梨ちゃんの顔を見るだけで、視界が少し滲む。
綺麗にしてあげたい。
可愛くしてあげたい。
鏡の中で、
由梨ちゃんが自分を好きになる瞬間を、
一番近くで見ていたい。
由梨ちゃんを、
とびきりの「綺麗」と「可愛い」と「幸せ」で、
いっぱいに満たしてあげたい。
だから、だからね。
今この瞬間だけは、
どうか、どうか。
私だけの由梨ちゃんで居てほしい。
奪わない。
壊さない。
ただ、この時間だけを抱きしめさせて。
……お願い。




