第71話 ※由梨視点 沙織ちゃんに直樹を盗られちゃう……
「……あー、なんか昼休みに機嫌悪そうにしてた気が。てか、なんで由梨が高木に絡まれたんです? 全く意味が分からなくて」
「ごめんね、それは私のせいなんだけど、ここで話す内容じゃないから。後で由梨ちゃんから直接聞いて欲しいなって」
沙織ちゃんが静かに促すと、直樹は一瞬、ぎこちなさそうに固まった。
挙動不審にしつつ、平静を装おうとしている様子があまりにも滑稽で、不満そうな顔をするのもバカらしくなる。
沙織ちゃんの一言を聞いた瞬間、心臓がぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなる。
“私のせい”なんて、そんなの──違う。
沙織ちゃんのせいじゃない。
全然、まったく、そんなわけない。
胸の奥から込み上げてくる感情が熱に変わって、喉の奥までせり上がってくる。
理性で押しとどめなかったら、
「違うよ」って声が掠れる勢いで飛び出していただろう。
だって──
私が沙織ちゃんとデートに行ったのも、
コスメ屋さんに連れて行ってくれたのも、
肌に合う色を真剣に選んでくれた眼差しも、
全部が全部、胸の奥に沈むほど大切な思い出で。
そのどれもが、“悪かった”なんて言葉で触れられたくない。
むしろ沙織ちゃんだからこそ──言われたくない。
私がどれだけ嬉しかったか。
あの時間がどれだけ特別だったか。
あの優しさがどれだけ救いだったか。
心臓の奥に指を差し込まれたみたいに、
言葉にしようとすると胸が熱くなって、
でも言葉になったそばから全部零れ落ちていきそうで。
ぜんぶ言い尽くそうとしても──まるで追いつかない。
本当に、どれだけ言葉を並べても足りないくらい。
確かに、沙織ちゃんの隣にいるときは、胸の奥がぎゅうっと掴まれるみたいに苦しくなる瞬間がある。
その整った顔立ちも、落ち着いた所作も、あの柔らかい声も。
全部が“自分にはないもの”を鮮やかに映し出してくるから。
可愛すぎる沙織ちゃんに嫉妬して、
自分の無力さに押し潰されそうになって、
“こんなこと思っちゃダメだよ”って自分に言い聞かせるほどに、
逆に胸が痛んで止まらなくなる。
でも、その痛みが
“少しでも沙織ちゃんに近づきたい”
って願いの証なんだと思えば、
どうしようもなく納得してしまう自分もいる。
沙織ちゃんの輝きって、ほんと、そういう痛みすら肯定してしまうくらい、熱くて眩しい。
──それに比べて。
直樹の能天気さは、ちょっとだけイラッとする。
知らないのは仕方ない。状況を理解してないのも仕方ない。
でもさ、でも──
“もうちょっと私のこと気遣ってくれてもいいんじゃない?”
そんな気持ちが胸の奥でぶつかり合って、もやっと膨らむ。
──いや、心配してくれてるのは分かる。
直樹の顔には、「意味分からん」って疑問と、
「でも大丈夫かよ……」って焦燥が貼り付いていて、ときどき私の方を不安そうにチラッと見てくる。
その、少し気弱な視線。
どう声をかければいいのか迷ってる感じ。
そういう優しさに触れると、
胸の奥がほんのり温かくなる。
だけど──。
それでも意識のほとんどが沙織ちゃんに向いているのが、痛いほど分かる。
心配してくれているのも本当なんだろうけど、
それよりも“沙織ちゃんの存在感”の方が、彼の中でずっと大きい。
その偏りが、ゆっくり、じわっと、
失望となって身体の奥に沈んでいく。
それでも──それでもだ。
私がこの胸の奥でじくじく熱を持つ想いを、きちんと伝えることさえできれば。
直樹はきっと、それを受け止めようとするはずだ。そんな小さな希望が、まだ消えずに灯っている。
だって、沙織ちゃんがそう願ってくれたから。
“落ち着いたときに、二人で話してあげて”
そう言ってくれたあの声は、他の誰よりも私を理解してくれている気がした。
でも、今の学校では、とてもそんなこと話せない。
沙織ちゃんの存在は目立ち過ぎる。
噂、視線、焦燥、聞かれたくない声。
こんなところで、あの瞬間の恐怖だとか、高木に腕を掴まれたあの感触だとか、そして直樹に抱いたささやかな失望なんて、到底うまく言葉にできる気がしなかった。
だから私は、ぎゅっと自分の胸を抱え込んだまま、微笑んでみせた。
今は言わない。
今ぶつけたって、関係が崩れてしまうだけ。
──ひとまず我慢。
直樹への不満や、期待や、弱さのすべてを、心の奥の奥へと押し込めた。
「ごめん、直樹。また帰ったら連絡するから」
「……分かった。とりあえずそれでいい。それで、俺が呼び出された理由はなんですか? これだけなら由梨から直接連絡すれば良いだけですよね?」
「うん、それなんだけど、ちょっとスマホ借りていい?」
「……え、い、いいですけど」
その瞬間だった。
沙織ちゃんが“自然に”直樹へと手を伸ばして、
スマホを受け取ろうとした──ただそれだけの動作。
なのに、心臓がドクン、と跳ねた。
跳ねたというより、胸の内側から殴られたみたいだった。
世界の色が、ざぁっと変わった。
廊下のざわめきが遠のく。
空気が一瞬だけ重くなる。
ああ、嫌だ。
胸がきゅっと縮む。
それと同時に、熱いものがじわっと込み上げてくる。
沙織ちゃんの手が差し出された瞬間に、私の中でぐちゃぐちゃな感情が一気にあふれた。
寂しさ、妬ましさ、不安、焦り、
そして、誰にも触れられたくないほど繊細な“羨望”。
──私の胸の奥で、何かが確かに揺れた。
視界の端で、直樹の表情がわずかに動いた。
沙織ちゃんのまっすぐな横顔が眩しかった。
たったそれだけなのに、
胸の奥の風景は、もう元には戻らなかった。
元から、直樹への失望みたいなものは胸の底で小さく燻っていた。
ほんの小さな火種。
普段なら笑って誤魔化せるくらいの、小さな違和感。
でも今は違った。
直樹が嬉しそうにポケットをまさぐる姿──その指先の落ち着きのなさ。
あの、少しでも早く沙織ちゃんにスマホを渡そうとするみたいな焦り。
見ているだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
なに、それ。
なんでそんなに嬉しそうなの。
なんでそんなに“待ってました”みたいに動くの。
バカみたい。
ほんと、ちょっとバカみたい。
なのにそれを見ている自分も同じくらいバカで、もっと惨めになる。
「ありがと。私のLINEと連絡先入れといたから、何かあったら連絡して。私から連絡入れることもあるかも」
「…………」
沙織ちゃんはスマホを受け取ると、手際よく、そして何より自然に、直樹のスマホを操作する。
その所作が美しすぎて、思わず息が詰まった。
直樹は言葉を失い、ただ画面を見つめていた。
──もし。
もしこのまま、直樹が沙織ちゃんの方ばかりを見るようになったら。
私のLINEより、沙織ちゃんからの通知に反応するようになったら。
私が送るメッセージの既読が遅くなって、沙織ちゃんのはすぐ返すようになったら。
そんな最悪の想像ばかりが頭を支配していく。
“取られる”なんて言葉、ほんとは似合わない。
沙織ちゃんはそんなことしない。
そんなの、分かってるはずなのに。
それでも、一抹どころじゃない不安が喉元に張りついて離れなかった。
──私じゃ勝てない。
胸の奥で小さく呟いたその言葉は、嘘じゃなかった。
沙織ちゃんのあの明るさ、あの気遣い、あの温度。
並んで歩いているだけで、私は勝手に自分の影を濃くしてしまう。
直樹の心を繋ぎ止められる自信なんて、これっぽっちもない。
でも──。
でも直樹にも、ちゃんと良いところはある。
バカで、不器用で、どうしようもなく頼りないのに。
やたら優しくて、素直で、真っ直ぐで。
気づけばいつも私の方を見てくれていた。
受験のときもそうだった。
高校に入ってからも、小さい頃からずっとそう。
頼りにならないくせに、なんでか頼りたくなる。
直樹はモテない。
それは、ずっと分かっていたし、私だってその安心感に甘えていた。
モテないからこそ、浮気の心配なんてしなくて良い。
気を遣えないからこそ、私のちょっとした不機嫌も、うまく言えない嫉妬も、ちゃんと気づかずに流してくれる。
その全部が、私にとっては“居心地の良さ”だった。
だけど──。
もし、沙織ちゃんが直樹の魅力に気付いたら。
もし、あの子の目に直樹が映ったら。
止まらない。
そんな“もし”の想像が、底なし沼みたいに足首を掴んで離さない。
直樹から、真剣で、でもどこか申し訳なさそうな顔で言われる。
『ごめん、他に好きな人が出来たから』
そんな幻覚みたいなワンシーンが頭の中で勝手に動き出して、胸が張り裂けるように痛くなる。
やだ。
そんなの絶対に嫌。
私の直樹を取らないで。
その人は──私の彼氏なの。
そう叫びたくなる。
喉の奥まで、ひっかかるみたいに込み上げてくる。
だって沙織ちゃんは、もう抱えきれないほど、いっぱい持っているくせに。
可愛いって言われる才能も、人を惹きつける明るさも、友達の多さも、優しさも、全部。
なんでそこに加えて、私の大事なものまで奪おうとするの。
──いや、違う。
沙織ちゃんは悪くない。
そんなことする子じゃない。
それでも、怖い。
理屈じゃない。
気持ちが追いついてくれない。
しかも、沙織ちゃんだって分かってるはず。
私がこういうことで傷つくって知ってる。
自分の連絡先を親しくもない男子に教えるってことがどれだけ怖いのかってことも、ちゃんと分かった上で。
それでも、やってくれた。
全部、全部、私のために。
私が困らないように。
私を守るために。
私がこれ以上、高木さんに怯えないように。
その優しさが胸の奥に沁みて、あったかくなるのに、同時に苦しくもなる。
嬉しいのに、怖い。
守られているのに、奪われそうで不安になる。
感情がごちゃごちゃに絡まって、どれが正解なのか分からない。
そして、沙織ちゃんの優しさを真正面から受け止めることが出来ない自分が、どうしようもなく惨めになる。
本当は分かっている。
沙織ちゃんが悪いわけじゃないし、直樹だって悪くない。悪いのは、全部私だ。
勝手に不安になって、勝手に嫉妬して、勝手に最悪の未来を想像して、勝手に落ち込んで。
もし、私がもっと直樹のことを信じられたら。
もし、沙織ちゃんの善意を、曇りのない目で受け取れたなら。
そして、なにより──もし私が私自身を信じてあげることが出来たなら。
こんなふうに、嬉しくて、悲しくて、苦しくて、胸の内側がぐしゃぐしゃになるような想いを、同時に抱え込むことなんて、きっとなかった。
沙織ちゃんは、私のために動いてくれた。
私が怖がっていることも、気付いてくれていた。
私がどんな顔で、どんな気持ちでいるかを、きっと全部理解した上で、それでも私が楽になるようにと気を回してくれた。
なのに、私はその手を素直に握れない。
優しさを向けられるたびに、受け取ったはずの温度が心の奥で形を変え、不安や妬みの影を生み落としてしまう。
そんな自分の器の小ささが、砂袋みたいに胸の中に沈んでいく。
もっと強くなりたい。
もっと自信を持ちたい。
もっと、ちゃんと“私”を信じたい。
沙織ちゃんの気持ちを受け取れる私になりたいし、直樹の優しさを疑わずに抱きしめられる私になりたい。
そしてなにより──そんな二人の隣に胸を張って立てる、自分でありたい。
そう願うのに、現実の私はその願いに追いつけない。
だから私は、このどうしようもない想いを、そっと胸のいちばん奥底に押し込んだ。
誰にも触られないように。
誰にも見つからないように。
でも、なくしてしまわないように、大事に抱きしめたまま。




