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第70話 ※直樹視点 白鳥さんから話しがあるらしい

 俺はホームルームが終わるやいなや、鞄を片肩に引っかけて教室を出た。

 他の生徒たちの笑い声や雑談が遠ざかっていくのを聞きながら、下駄箱へ向かう。


 ──由梨から、“待ってて欲しい”と連絡が入っていたからだ。


 昇降口に着き、下駄箱の影で立ち止まる。

 周囲には数人しか残っておらず、夕方の空気がじわっと漂い始めていた。

 スマホを取り出し、由梨からのメッセージをもう一度眺める。


── ── ── ──

LINE


由梨

ごめん、今日は沙織ちゃんにメイク教えて貰えることになったから、一緒帰れない

あと少し沙織ちゃんが話したいことあるって言ってたから、放課後、下駄箱らへんで待っててくれる?


直樹

りょーかい


── ── ── ──


 軽く返したつもりだった。

 実際、メッセージを打つ指先も、何も考えていない風を装った。

 それなのに、画面を閉じた瞬間から胸の奥がじわっと膨張した。


 ──あの白鳥さんが、俺に話したいこと?

 その一文を読んだだけで、急に足下が軽くなった気がした。


 考えれば考えるほど、胸の奥がじわっと熱を帯びていく。

 意味なんてない。ただ名前を見ただけで、勝手に期待が膨らんでしまう。


 いや、由梨からの連絡なんだから、変なことではないはずだ。

 期待するような内容なんて、一切ない。

 頭ではそう分かっているのに、それでも思考だけは勝手に未来を描いてしまう。


 胸の内側で心臓がひとつ跳ねると、肋骨がその振動を拾って、喉元まで小さな衝撃が登ってくる。

 呼吸が浅くなり、指先がじんと温かくなる。


 そして、不意に──由梨が白鳥さんに頭を撫でられて蕩けていた記憶が脳裏に浮かんだ。

 一瞬で胸を刺すような痛みが走る。

 嫉妬や悔しさなんて言葉では言い表せない。

 でも確かに“自分には触れられない場所”を見せつけられたような痛み。


 喉がひゅっと細くなる。

 胸の奥に鈍い重さが沈む。

 それでも、この期待が止まることはなかった。


 あの白鳥さんが何を言うんだろうとか、どんな表情で立ってるんだろうとか、そんなことが頭から離れない。


 喉の奥が少し乾いて、無意識に息を飲む。

 鼓動に合わせて下腹部の方がじんじんと熱くなる。

 痛みすら熱の下で溶けて、鼓動はむしろ速くなる。


 廊下の向こう側で、ふたりの姿がゆっくりとこちらへ向かってくるのが見えた。

 由梨の後ろに並ぶ白鳥さんは、歩調を少しだけ落として、どこか様子を伺うようにこちらを見ている。視線が合った瞬間、白鳥さんの唇がふわりと弧を描いた。


 その微笑みは、音もなく胸の奥に落ちてくる。

 ただ微笑んだだけなのに、心臓が自分の意思とは別の力で引き寄せられたみたいに、ドクン、と強く跳ねた。


 すぐ隣を歩く由梨は、わずかに眉尻を下げていて、申し訳なさと不満が入り混じったような表情を浮かべていた。

 その不満の矛先が自分に向いていることは、すぐに分かる。

 いや、正確には──由梨がそういう顔をしてしまう原因を、自分が作っているのだと、胸の奥がちくりとした。


 それなのに、白鳥さんの柔らかな微笑みが視界に入ると、理屈も罪悪感もまとめて流されていく。


 近づいてくる白鳥さんは、相変わらず静かで端正で、まとった空気そのものが澄んでいた。

 沈黙さえも彼女の一部のようで、顔を上げるだけで空気が揺れる気がした。


 気づけば、口元が勝手に緩んでいた。

 笑おうとしたわけでも、愛想を作ろうとしたわけでもない。

 胸に落ちてきたあの“微笑みの衝撃”に、身体が自然に反応してしまっただけ。


「ごめんね、なんか呼び出すみたいな形になっちゃって」

「……いえ、それは別に良いんですけど」

「由梨ちゃんのLINEにあったと思うけど、ちょっと今日は由梨ちゃんのこと借りたくて」

「……それも由梨が、言ったなら別に」


 白鳥さんが何か言葉を口にするたび、柔らかい声音と一緒に、ほのかな甘い匂いまで近づいてくる気がした。

 そのたびに胸のどこかが、ひゅっと掴まれるように縮まる。


 気づけば、返事はしているのに、つい意識はその微笑みに向かっていた。

 “見惚れる”なんて軽い言い方では追いつかないくらい、目の奥まで引っ張られる。


 けれど──その微笑みを真正面から受け止める勇気なんて、最初から持ち合わせていない。

 見た瞬間に血流が昂って、呼吸が浅くなって、目を合わせたままじゃ立っていられる気がしなかった。


 だから、視線は勝手に逃げる。

 逃げても、また吸い寄せられる。

 彷徨った視線が、ほんの僅かな隙にまた白鳥さんの表情を拾ってしまう。


 由梨がすぐ隣にいるのに、由梨の表情よりも、白鳥さんの唇の動きやまつ毛の揺ればかりを追ってしまう自分が、ほんの少し怖い。


 目を見て話せなんてよく言われる。

 でも、白鳥さんの前ではそれはただの理想論だと気付かされる。

 正面から目を合わせた瞬間、引きずられる。

 視線を逸らした瞬間、また追いかけてしまう。

 そんな矛盾した身体反応ばかりが、意味もなく胸に広がっていった。


 昨日の今日で、白鳥さんから「由梨ちゃんのことをちゃんと気を遣ってあげてね」と言われたばかりだというのに、その張本人がさっそく白鳥さんに連れられてどこかへ行く。

 反発がないわけじゃない。“おいおい、流石に早くないか” みたいな気持ちが、喉の奥でくすぶっていた。


 けれど──それを口にする気にはなれなかった。

 女子には女子の世界がある。

 その輪の中で何が起きているのか、俺なんかが想像できることなんてほんの一部だ。

 下手に踏み込めば、由梨の負担になるだけだろう。


 そして何より。

 白鳥さんには、なぜか逆らえる気がしない。


 理由なんて、ちゃんとした形にはまだ出来ない。

 でも、彼女がこちらを見ると、胸の奥がきゅっと掴まれたみたいに固くなる。

 背中の筋肉が無意識に伸びて、呼吸が浅くなる。

 視線を合わせようとすると、ほんの一瞬で心臓が脈を早める。


 その静かな美しさが、怒らせたら消えてしまいそうで。でも、従ったら従ったで、どこか誤魔化しの効かない目で見透かされそうで。

 そんな矛盾した圧が、白鳥さんにはあった。


 由梨がメイクを覚える、と聞いた瞬間、胸の奥がふっとざわついていた。

 由梨はもう俺の彼女で、俺はそのままの由梨が好きだ。

 だから “メイクなんかで自分を偽る必要なんてないんじゃないか” という考えが、どうしても首をもたげる。

 のろのろとした黒い影みたいに胸の内側から立ち上がってきて、落ち着かない。


 でも、それを口に出すことはできなかった。

 言えばきっと、それは俺のエゴだってバレる。


 女子の“可愛くなりたい”って思う気持ちを、まったく理解できないほど鈍感でもない。

 この学校の空気──髪型や服装、ほんの少しの印象の差が、教室での立ち位置に影響してくる。

 そういう目に見えそうで見えない階層みたいなものが、確かに漂っているのを感じる。


 だから、由梨がメイクを覚えたいと思う気持ちは正しい。自分を守るためかもしれないし、前に進むためかもしれない。

 そのどちらにしたって、俺が否定していいものじゃない。


 それに──なんなら俺だって、もし出来るならもっと“カッコよく”なりたい。

 もっと肩幅があって、声が低くて、立ってるだけで絵になる男だったら。


 モテるようになるのは別に目標じゃないが、

 「直樹、なんか雰囲気変わった?」

 「今日かっこよくない?」

 なんて言われたら、そりゃ嬉しい。


 人から良く見られたい、認められたい。

 そんな根源的な欲求は俺の中にもちゃんとある。

 そう思うと──由梨のメイクに関して、とやかく言えるわけもなかった。


「それでね、2組のクラスのことなんだけど、今日は何かあったか聞きたくて」

「……今日ですか? いや、特にこれと言っては」

「由梨ちゃんが昼休みに、莉里──高木さんに絡まれたってことは知ってる?」

「えっ、由梨が高木に? なんで?」

「……やっぱり知らないんだね。なにか教室で変わったこととかなかった?」


 白鳥さんが静かに切り出した声は、いつもみたいに柔らかいのに、どこか芯を探るような温度があった。

 その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。反射的に背筋が強張り、心臓の鼓動が一拍だけ跳ねる。


 高木莉里──

 ウチのクラスの女子を牛耳ってる、いわゆる“ギャル”だ。

 軽い話し方の裏にあるあの無言の圧力。

 視線の鋭さは、男でも本能的に一歩引いてしまうほどで、関わらないのが最適解ってタイプ。


 それに、なんか恐い彼氏がいるらしい、なんて女子たちの噂をヒソヒソ話で聞いたこともある。

 トラブルを背負い込むリスクを負ってまで関わりたい相手じゃない。


 それでも、高木はどうしたって“目立つ”。

 ちょい目が大きくて、まつげがわざとらしいくらいに長くて、髪色も地毛より明るい。

 あの派手めな風貌は、教室の端にいても視界をさらっていくし、声も通る。

 ノリが良くて、カースト上位の男子たちとも笑って肩を組んだり、冗談を飛ばしたり、ああいう“場に慣れた感じ”がある。


 俺としては──まあ、正直に言えば、苦手だ。

 声のボリュームもテンションも、ちょっとだけ高すぎる。

 落ち着いた空気が好きなタイプの俺には、あの明るさは眩しすぎるというか、対応に困る方向の眩しさだ。

 だからこそ、由梨みたいな静かで、話す時に落ち着いてる方が、ずっと安心できる。


 とはいえ、高木が“可愛いと思えないか”と言われたら、そうでもない。

 派手な見た目がタイプじゃないだけで、顔立ちそのものは悪くない。

 それにスキンシップの距離感が妙に近いから、

 ふいに肩へ触れられたり、冗談めかして腕に軽く触れてきたりすると、反射的にドキッとさせられることは、正直、何度かあった。


 それが向こうの計算なのか、ただの癖なのかは分からないけれど、“距離が近い女子”っていうのは、どうしても本能的に反応してしまう。


 とはいえ、あんな距離で接してこられる女子たちのほうは、もっと大変なんだろうな、とも思う。

 あの手のタイプと上手く関わらないと、クラスの中の序列に関わる。

 敵に回したら面倒なのは、男子の俺でも分かるくらいだ。


 そんな高木と由梨が、どうして絡まれたのか──本気で意味がわからない。

 接点なんて一ミリもないはずだ。

 タイプも性格も真逆で、話す話題も、関わるだろう用事すらない。

 だからこそ「絡まれた」の一言が、頭のどこにも当てはまらなくて、理解が追いつかない。


 そして、“絡まれた”って具体的にどういう状況だ? 軽くちょっかいをかけられた程度なのか。

 それとも、もっと刺すような言葉でも向けられたのか。目の前の由梨は、ぱっと見いつも通りで、制服の乱れや怪我なんて当然ない。

 ──でもそれが逆に不安を煽った。


 由梨は気弱なだけじゃなくて、時々驚くくらい強情なところがあるから、“心配させたくない”って理由があると、簡単に感情を押し殺してしまう。

 何もなかったみたいな顔をして、でもほんとは胸の奥でぐちゃぐちゃになってる。

 そういう感じを、俺はもう何度か見てきた。


 だからこそ、白鳥さんの言葉だけが胸の奥で反響して、一刻も早く情報が欲しくて、じれったい。


 気づけば呼吸が浅くなっていて、靴箱の上に置いた手はじんわり汗ばんでいた。

 心臓は妙に早く、一定ではなく、小刻みに跳ねている。胸の奥がうずくように締まり、まるで見えない糸で引かれるみたいに、体が前のめりになってしまう。

 脳のどこかが熱っぽくて、耳の奥がじんじんしてくる。


 落ち着けと言い聞かせても、言葉は空回りして、喉の奥が渇いて、唾を飲む音がやけに大きく響いた。

 掌が汗で少し滑るのに気づいて、そっと握り直す。


 ──早く知りたい。

 今すぐ、全部聞き出したい。


 そう思えば思うほど、胸の中の焦れた熱はじわじわ膨らんで、白鳥さんの口が開く瞬間を、呼吸さえ忘れそうなほど待ち焦がれていた。


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