58話A 知ってしまった楽しさはやめられない
紅月さんと話し合った結果、これまで通り学校の部活で練習を行って構わないと言ってくれたのは、純粋に嬉しかった。
私の過去や家庭の事情について、一体どこまで知っているのだろう。
それとなく尋ねてみると、彼女は私の背景をすべて正確に把握していた。
「綾さんの場合は途中で苗字が変わっているし、十数年前の事件ですからね。根気強く執念深く調べれば分かると思いますが、通常であれば、おそらく他の人にはまず判別できないと思います」
「なら……なぜ私は、日本でプロになるのが難しいと?」
その答えは自分自身が一番よく知っているはずなのに、どうしても彼女の口から直接聞いてみたくなった。
「日本の男子サッカーは、プロチームだけで60クラブ存在します。女子は男子に比べて少ないとは言え、トッププロであるWEリーグが12クラブ、アマチュア最高峰のなてしこリーグが24クラブあります。42都道府県に対して、男子で60クラブ、女子でも合計36クラブも乱立している現状は、やはり全体的に見ても多すぎるというのが私の個人的な意見です」
そう言えば、2026年の今年から、J3も完全プロ化の制度へ移行されたはずだ。
「元々、経営的に赤字を抱えているクラブも多いんですよ。だからこそ、どうしても資金を提供してくれるスポンサーの目が厳しくなります。こういう言い方をすると、綾さんの気分を害してしまうかもしれないけれど……悪い噂を抱えているような人間が入ることで、チーム全体のイメージが悪化するのを恐れているのでしょうね」
紅月さんはそう言いながら、どこか遠くを見るように細めた目を私に向けた。
「もちろん、圧倒的な実績を残して周囲の雑音をすべて黙らせる、という力技の方法もありますが」
「今の私には、これと言って世間に誇れる実績がない」
「そうです。そういう点で言えば、プロになるには実力を示せばそれが一番手っ取り早いのですが、実際には綾さんの場合、周囲の大人たちが面倒なトラブルに関わりたくないがために、プロを目指してやるなと言い続けていたのが現状だと思いますよ」
「それを言ったら、紅月さんの会社にとっても、私はただのギャンブルではないのですか?」
「そうですね。実は先月から、唯さんにはあなたのことを熱心に勧められていたんです。元々は、直接お話をするのは1月以降でいいのではないかということで話がまとまっていました」
「それが早まったのは、この間のあの記者の事件があったからですか?」
「はい。先ほど、根気強く調べたら分かるかもしれないと言いましたが、記者という生き物は、それが特ダネになるかもしれないと察したら、意地でも過去を暴き立てようと探る人間が出てきますから」
「……すみません」
私は、今日だけで何度目になるか分からない謝罪を、また口にしていた。
「別に、あなたが悪いことをしたわけではないですよ」
紅月さんは、包み込むような優しい瞳でそう笑ってくれた。
「世間にばれる前に先手を打つ方が、リスクコントロールとしても遥かに早くて確実ですから。だからこそ、すぐにこうして動くことになりました。私はもちろんのこと、現地で私たちの会社と協力関係にある向こうのエージェントからも、あなたの才能は絶賛されていたんです。そうでなければ、私たちだってこんな博打とも言える莫大な投資は致しませんよ」
慈善事業ではないのだから、それもそのはずだった。私の才能が本物だからこそ、彼女たちは投資という名目で守ってくれているに過ぎない。
「世間に噂がばれるとしたら、時期はいつ頃だと思いますか?」
「私共としては、できれば最後までばれない方向で動きたいのですけれど……おそらく、冬のオフシーズンが明けた頃ではないかと予想しています。とはいえ、こればかりは記者の動き次第なので正確な予測は立ちません」
周囲の人間にここまで多大な迷惑をかけてまで、プロを目指す価値が本当にあるのだろうか。
以前の私だったら、その時点で迷わず諦めて、そのまま静かに息を潜めるように過ごす道を選んでいただろう。
でも、私はすでに知ってしまったのだ。
あのスタジアムを包み込む圧倒的な歓声を。ピッチの上を駆け抜け、全身で体感したサッカーの本当の楽しさを。
そんな行く末への思考を巡らせているうちに、車はマンションの敷地内へと滑り込み、目的の場所に到着した。
紅月さんに連れられてエレベーターを上がり、案内された新居は、三階の角部屋だった。
間取りは1LDKだったけれど、一人で暮らすには十分すぎるほどの広さがある。
生活に必要な家具や家電はすべて最初から揃えられている、と説明を受けた。
あとは、私が暮らしていた元の部屋から私物の荷物を運び込めば、それだけで引っ越しはすべて完了するらしい。
しかも、その運搬作業も明日には手配してくれているという。
本当に仕事は驚くほど早くて、手際が良い。
鍵を受け取り、静まり返った部屋の空間を見渡していると、ようやくここから私の新しい生活が始まるのだという実感が、胸の奥からじわじわと湧き上がってきた。
明日はちょうど、栞の部屋のハウスキーパーとしての仕事が入っている。
今日、学校の応接室から始まってここで新生活を決めるまでに起きた一連の出来事を、明日彼女に直接話してみるのも良いかもしれない。
私の報告を聞いて、彼女は一体どんな顔をして、どう思うのかな。
きっと、いつものように私の話を嬉しそうに聞いて、自分のことみたいに喜んでくれるのだろう。
今日一日の間に本当に色々なことがありすぎて、精神的にも肉体的にも限界が近かった。
私は紅月さんを見送った後、新居の綺麗なお風呂にゆっくりと浸かって身体の芯まで温め、そのままベッドへと滑り込んで深い眠りについた。
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