57話 イングランド移籍の厳しい現実
紅月さんと一緒に後部座席へ乗り込み、運転手に「お願いします」と挨拶をした。
「改めて自己紹介をさせてね、紅月りのです。これからあなたの専属エージェントとして派遣されることになりました。よろしくね」
「綿津見綾です。よろしくお願いします」
「本当はね、唯さんと同じ外国人プロ代理人を担当に付けた方がいいんじゃないかという話も社内で出ていたのよ。でも、いきなり外国人の大人が来たら綾ちゃんも緊張してしまうだろうからって、唯さんの配慮もあって私が選ばれたの」
こういう重大な局面に立たされた時、一体どういう人物が担当として正解なのか、今の私にはよく分からない。
専門的な事柄は、その道のプロにすべて一任するのが一番良いのだと、昔の人も言葉を残している。
唯さんやNSTの大人たちがそれが正しいと思って下した判断なのだから、私から不満や異議を唱えるつもりは全く無かった。
「イングランドに行ったら、唯さんと同じプロ代理人が担当になる予定です。けれど、それまでの間は私が担当を任された、というのが正直な話なんですよね」
「そうなんですか?」
「ええ。やはり現地とはどうしても時差がありますから。もちろん、もし綾ちゃんが私のことを気に入ってくれたら、向こうに行ってからも私をそのまま指名してくださって構わないからね」
役場に到着するまでの短い時間の間に、私は紅月さんから本当にたくさんの話を聞いた。
唯さんの言葉通り、提示されるサポートの内容はどれも至れり尽くせりなものばかりだった。
語学の個人教師の手配はもちろん、もし私が望むのであれば、新居に専属のハウスキーパーを雇うことも可能なのだという。
栞のハウスキーパーの私が、さらに自分用のハウスキーパーをお願いするなんて、流石にただの冗談にしか聞こえなかった。
ただ、やはり新聞配達のアルバイトだけは絶対に辞めなければいけないみたいだ。
いくらNSTが私をサポートすると言っても、流石に四六時中私の身辺を警護し続けるわけにはいかない。
昨日のような、悪質な記者に突撃されるリスクを抱えたまま仕事を続けられては、会社としても話にならないらしい。
そんな風に、これからの目まぐるしい変化を頭の中で整理していた、その時だった。
隣を走る紅月さんの口から、あまりにも衝撃的な言葉が飛び出してきた。
「実はね、今のままでは、綾さんはムーンシティに入団することができないの」
私は、自分がどんな表情を浮かべていたのか分からなかった。おそらく、間の抜けた顔でただ戸惑っていたのだと思う。
だって私は、数ヶ月後には当然のようにイングランドへ渡る予定で、今こうしてすべての話を進めていると思っていたからだ。
「どういうことですか?」
「簡単なことです。イギリスの就労ビザが、今のあなたには降りないのよ」
「どういうことですか?」
「簡単なことよ。イギリスの就労ビザが降りないのよ」
その言葉を聞いて、私の記憶の隅にあるエピソードが呼び覚まされた。
少し昔の話だけれど、日本の高校生が卒業と同時にいきなりイングランドの強豪クラブと契約を結んだものの、やはり労働許可が降りずに他国のクラブへレンタル移籍を余儀なくされたというニュースを見た記憶がある。
「確か、A代表の出場実績が必要だったはずでは?」
「よくご存じね。昔に比べればルール自体は軽くなったのだけれど」
紅月さんは組んでいた脚を滑らかに組み替え、冷徹な、けれどどこか確信に満ちた強い眼差しで私を真っ直ぐに見つめてきた。
「かつて、イングランドの名将にその才能を惚れ込まれながらも、代表実績という書類一枚の壁に阻まれて夢を絶たれた、若き日本の天才たちがいたわ」
紅月さんは一度言葉を区切ると、組んでいた脚を滑らかに組み替えた。
先ほどのやさしさの表情ではなく、 世界のフットボール界の厳しさを見てきたプロとしての強い口調だった。
「ある選手は、ビザを取得するためだけに、一度オランダのクラブへレンタルされて長い遠回りをせざるを得なかったの。そこで彼は大活躍をして『プロとしての客観的な実績』を作り、ようやくイギリス政府に特例を認めさせた」
彼女は、そこで手元の資料を指先で軽く叩き、私を真っ直ぐに見つめてきた。
その冷徹な眼差しに、私は自然と背筋が伸びるのを覚える。
「でもね、レンタルからの復帰だから、イギリスのクラブに戻ったときの彼の帳簿上の移籍金は0円のまま。それが世界の化け物たちがひしめく中で、どれほどシビアな格差と重圧を生むことになるか、今のあなたなら想像がつくわよね?」
帳簿上の移籍金がゼロ。
それは、クラブがその選手を獲得するために一銭の身銭も切っていないという証明だ。
巨額の移籍金で買われてきた世界各国のスター選手たちと、実力だけで対等に渡り合わなければならない。
実績のない若者にとって、それがどれほど孤独で不利な戦いになるか、紅月さんの静かな声音だけで十分に伝わってきた。
彼女はそこで一呼吸置き、手元にあった資料を私の目の前に差し出した。
「今はブレグジットを経て、ビザの発行基準はポイント制に変わったわ。さらに最近は『特別枠』という、代表歴のないあなたのような若き天才を救い出すための緩和措置も新設された。昔に比べれば、ルールそのものが驚くほど『軽く』なっているのは事実よ」
「だったら……」
「でも、条件はあるわ」
私の言葉を、彼女の静かな声音が遮る。
「いくらチーム内の紅白戦で、あなたが素晴らしい活躍をして結果を残そうが、それはイギリス政府にとっては客観的なデータにはなり得ないの。現在のあなたは、日本の高校の部活に所属しているだけで、公式戦には一度も出場したことがないのが厳然たる事実でしょう? 普通に計算すれば、あなたのポイントは『0点』で門前払いよ。クラブがいくらあなたを欲しがって、その貴重な特別枠を使おうとしてくれても、審査官を黙らせるだけの絶対的な証拠が、今のあなたにはまだ足りないのよ」
言われてみれば、その通りだ。
私自身、先日のあの試合の結果がまぐれだとは思っていないけれど、同時に、クラブのみんなが完璧にお膳立てをしてくれたからこそ生まれた結果だとも自覚している。
彼女はスマートフォンの画面を指先で軽くタップし、先日の試合のスタッツが細かく記載されたデータを私に提示した。
「今の手札は、先日のレアル・ブランカス戦での結果のみ。イギリス政府の審査官は、プレシーズンの、たった一試合だけではまぐれの可能性を排除できないと言い張るわ。このままだと、かつて国境の書類に夢を殺されていった多くの先駆者たちと、あなたも同じ結末をたどることになる」
彼女の口調はどこまでも淡々としていたけれど、その言葉の端々には、私を本気で世界のピッチへ送り出そうとするプロとしての強い執念が宿っていた。
「だからこそ、綾ちゃん。冬の移籍市場に向けて、あなたは再び練習生としてイングランドへ呼ばれているのは知っているわね。
「はい」
ミケル監督はイングランドを去る別れ際に、私に向かって『また必ず呼ぶ』とはっきりと告げていた。
あの言葉が、ただの社交辞令ではなかったのだと今になって実感が湧いてくる。
「そしておそらく、ミケル監督は親善試合か何かのチャンスで、あなたをもう一試合ピッチに送り出すことになるでしょう。そこであなたが、前回と同じか、上回るほどの結果を出せば、あのレアル戦の輝きが、決してまぐれなどではなく必然だったことが証明されるわ。審査官たちの疑念をすべて黙らせるだけの、完璧なデータが揃うのよ」
彼女はそこで言葉にさらに熱を込め、私の目を見つめた。
「そしてその実績の上に、あなたの将来を誰よりも期待している唯さんたちが、公式な推薦状を提出してくれる手順をすでに整えてあるわ。その圧倒的な実力の証明と、選手たちの推薦状。この二つが揃った瞬間、お役所仕事のすべての雑音も、あなたの前に立ちはだかる就労ビザの壁も、一撃で壊せると私たちは確信しています」
「推薦状ですか?」
私が問いかけると、向かい側に座る紅月さんは、その栗色の髪を揺らしながら力強く頷いた。
「ええ!」
その肯定の言葉に、私は思わず声を上げていた。
「唯さんに、カディサ選手やシティの選手の推薦」
唯さんだけでなく、バニーをはじめとしたムーンシティのメンバーみんなまでもが、私のために動いてくれている。
その驚くべき規模の大きさを私が口にすると、紅月さんはさらに、信じられないような名前を並べてみせた。
「ミリア選手やルシア選手、マノン選手にメリー選手……それに、レアルの選手数人も推薦するって言ってるわ」
「え……レアルの選手が?」
予想だにしていなかった世界トップレベルの選手たちの名前に、私は思わず聞き返していた。
「ええ。あのまま勝ち逃げされるのは許さないって言っていたらしいわ」
「……すごく光栄ですね」
私も、世界のトップで戦う彼女たちの名前を実際に聞かされては、驚きを隠せなかった。
かつて一度だけピッチで対戦した相手が、まさか私のことを覚えていてくれたなんて。
それだけでも驚きだったのに、推薦までしてくれるという。その事実が、じわじわと胸に響いてきた。
その事実が、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
紅月さんは私の目を真っ直ぐに見つめ、エージェントとしての真剣な表情で言葉を続けた。
「だからこそ、貴女は次のチャンスで絶対に結果を出さないといけない。相応のプレッシャーを与えてしまうことになるけれど、もし貴女が向こうで活躍できなかったら、推薦状を出した彼女たちの見る目が間違っていたと、世界中から思われてしまうわ。もちろん、あなたを見込んだミケル監督もね」
「責任重大ですね」
「ええ。だからこそ、私たちも本気で貴女をサポートする。これだけの話を聞いて、今、あなたはどう思ったの?」
紅月さんの問いかけを受けて、私は胸の奥から湧き上がってくる気持ちを、そのまま言葉にした。
「もっとやる気が出ました。私は全力でサッカーを楽しみます。そして、必ず結果を出せるように努力します」
海の向こうから私を支えてくれているみんなの応援を思い浮かべながら、心からの感謝を胸に、私はそう答えた。
その後、車は役場へと到着した。
紅月さんのおかげで、面倒な役場関係の手続きも驚くほどスムーズに終わった。
手続きを終えると、私は新しく用意されたマンションへ向かい、そのまま部屋まで案内される予定になった。
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