56話 応接間での呼び出し
流石にこんな状況になってしまった以上、今まで続けてきた新聞配達の仕事も辞めるしかないのかな。
そんな現実的なこれからの生活への計画を頭の中で組み立てながら、私はただ淡々と授業を受けていた。
ちらっと横を見ると、栞が嬉しそうに微笑んでいて、ばっちりと目が合ってしまった。
まさか授業が始まってから今まで、ずっと私の顔を見ていたの、と直接口に出して言いたかったけれど、流石にそれは自重する。それよりも、黒板にびっしりと書かれている板書を、彼女は全くノートに映していないのではないかと、そちらの方が気になってしまった。
このままノートも取らずにいて、いざテスト期間になったときに「全然わからないから教えて」と涙目で泣きついてきたとしても、私は絶対に知らないからね。
心の中でそんな風に、彼女に対する少し呆れた感想を独り言のように呟いていた、まさにその時だった。
『2年1組、綿津見綾さん。至急、応接室まで来てください』
スピーカーから流れた校内放送の直後、それまで静かだった教室の空気が一斉に変わり、あちこちから騒がしい話し声が響き始めた。
クラスメイトたちがこれほどがやがやと騒ぎ出したのも、無理はないことだと思う。
そもそも、普通の生徒が学校の応接室に呼び出されるなんていう事態は、日常の学園生活において絶対にあり得ないからだ。
何か個人的な連絡や事務手続きがあるのなら、行くべき場所は職員室のはずだ。
あるいは、何か悪いことをしてそれが教師たちに発覚したのだとすれば、厳しく叱責されるための生徒指導室に連行されるのがお決まりのパターンだ。
それなのに、学校に部外者や特別な来賓を招き入れるための場所である応接室に呼ばれるなんて、通常ではどう考えてもあり得るはずが無いことだった。
「綿津見。呼ばれた場所の言い間違いかもしれないが、一応応接室の方に行きなさい。もし鍵が閉まっていたのなら、職員室に行って別の指示を受けるように」
「わかりました」
先生の言葉に頷き、私が席を立とうとした時、隣から栞が小声で「頑張って」と声をかけてくれた。
そんな彼女に視線で応えながら、私の中にはひとつだけ確信していることがあった。
昨日の夜にあの電話があってから、今日の朝にはもう動いている。いくら何でも仕事が早すぎる。
さすがは唯さんが所属している大手のマネジメント会社だけのことはある、と私は内心で感心していた。
静まり返った廊下を進み、応接室の扉の前に立つ。
軽くノックをすると、室内から「入りなさい」と中を促す声が聞こえた。
失礼します、と扉を開けて中に入ると、そこには担任の先生とサッカー部の顧問、さらには校長先生までが神妙な面持ちで座っていた。
そしてその先生方の向かい側には、一人の初対面の女性が腰掛けている。
栗色の髪を綺麗に整え、非の打ち所がないほどスマートなビジネススーツを身にまとった、どこか柔らかな雰囲気を漂わせる女性だった。
「綿津見さんは、こちらへどうぞ」
その女性は、自分の隣に座るように案内をされた。
先生方が対面に座っていて、私の座る場所はそこにはなかったので、そうなるのかと思った。
先生方とその女性の間で名刺の交換が始まり、私の手元にも一枚の名刺が回ってきた。
受け取った名刺の表面には、こう書き連ねてあった。
NST SPORTS
アスリートマネジメント部チーフ。
フットボール・エージェント。
FIFA公認フットボールエージェント。
紅月りの。
何やら大層な肩書がいくつも並んでいるのが目に入る。
彼女の瞳の色は綺麗な蒼だから、おそらくハーフか何かなのだろうとは思うけれど、名前は完全に日本名だ。
それが、彼女に対する私の率直な第一印象だった。
それから始まった話を聞く限りでは、今の状況からして、私はこの学校を一度退学しなければならないらしい。
NSTの制度で、日本の通信制高校への転学やイングランドの学校のプログラムについての具体的な説明が、彼女の口から淡々と進められていく。
どちらか選べれるみたいだ。
私の通う学校には留学制度も通信制のコースも存在しない。そうなれば、海外へ渡るためには退学するしか選択肢がないのだから、これは仕方のないことだ。
けれど、頭では納得していても、胸の奥には少しだけ残念に思う気持ちが残った。
学校を退学すること自体は、別に構わない。
ただ栞と一緒にこの学校を卒業できないこと、そして同じ卒業アルバムに思い出を残せないことが、ほんの少しだけ寂しく感じられてしまったのだ。
本当に、彼女と関わってから私は変わってしまったのだろうな、と思う。
以前の私だったら、こんな状況になっても絶対にそんな感傷を抱くことはなかったはずだ。
「そうですか、わかりました」
ただそれだけを一言口にして、すべてを他人事のように受け入れて終わりだったと思う。
どうやら、これからの住処となる住所も変わるらしい。
提示された書類に記載されている住所を目にして、私は内心で驚きを覚えていた。
そこは、栞が暮らしているのと同じ高級マンションだった。
階数こそ異なっているものの、おそらく昨日、車内で秋子さんが口にしていた部屋の番号と同じ場所だと思う。
秋子さんとNSTが、裏でお互いに密なやり取りを済ませていたのだということが、その住所だけで手に取るように分かった。
「綿津見、お前は本当にそれでいいのか?」
沈黙を守っていた担任の八神先生が、心配そうな声音で私に問いかけてきた。
「いいのか、とは何に対してですか?」
「お前は文武両道の優等生だから、環境が変わってもどこでもやっていけるとは思う。だが、こうして高校を中退することに対してや、本気でこの厳しい世界に身を置くということについてだ」
「先生は、どう思いますか?」
一応、先生が私の現状をどう捉えているのか、その考えも聞いておきたいと思った。
私のことをどう考えているのだろう。
去年から引き続き担任を務めてくれている先生であり、おそらくこの学校内で最も私という人間を理解してくれている大人だとは思う。
八神先生は、私と紅月さんの姿を交互に見つめていた。
そんな先生の様子を察して、隣に座る紅月さんが物腰柔らかく言葉を添える。
「遠慮なさらないでください。私共としても、先生のご意見はぜひお聞きしたいと思っておりますので」
「……分かりました」
八神先生は一度だけ小さく咳払いをしてから、ゆっくりと言葉を紡いでくれた。
「私個人の本音としては、反対です。もちろん、綿津見が抱えている昔の事件の影響により、日本国内でプロの道を歩むことが極めて難しいことは分かっています。法律上の観点から言えば、綿津見自身は何も悪いことはしていないのだから、堂々とプロのサッカー選手になれると言いたい。けれど、親の過去の出来事があり、それが現実問題として無理だということも、私は十分に承知しています」
そう。私は小学生の時に、当時の担任からその事実を明確に告げられた。
だからこそ、世間の注目を浴びるような、有名になりそうな職業に就くことは最初から諦めなさいと言われたのだ。
プロのスポーツ選手。芸能人。一流企業への就職。
さらには、家名を重んじる格式高い家柄の人と結婚することにいたるまで、そのすべてがあなたにとっては無駄な努力になってしまう、と教えられた。
小学生の頃の授業で、先生が「みんなはこれから何にだってなれるんだよ」と教室全体に希望を語った、まさにその直後だった。放課後に呼び出された私は、そんな理不尽な現実を突きつけられたのだ。
私が将来の作文で「私の夢はプロのサッカー選手です」と言ってしまったからだと思う。
あのとき、私の未来を奪う言葉を告げざるを得なかった先生の、あの悲痛に歪んだ表情を、私は今でも忘れることができない。
「もちろん、今回の話は、綿津見にとって非常に素晴らしいチャンスだとは思います。私は残念ながらサッカーの世界には詳しくありませんが、それでもムーンシティという名前くらいは聞いたことがあります。ですが、この子はこれまで、普通の人の何倍もの深い傷を負ってきました。もし万が一、向こうでプロとして物にならなかった場合、この子はどうなってしまうのですか?」
八神先生は、切実な問いを紅月さんへと投げかける。
「その心配には及びません。彼女は先月、レアル・ブランカスとの試合に出場し、1ゴール1アシストという結果を残しています。世界のトップに君臨する名門クラブを相手に、才能のない選手がそれほどの成績を収めることなど絶対に不可能です」
紅月さんは、私の実力を裏付ける確かな数字を挙げて、すぐにその懸念をフォローしてくれた。
「プロの世界に絶対など無いはずです。もしデビューを果たす前に、再起不能になるほどの大怪我を負ってしまったらどうするのですか? そうして表舞台から消えていく選手も少なくないと聞きます。他の選手であれば、たとえサッカーの道が断たれたとしても、日本での今までの生活や頼れるキャリアの土台がありますから、どうにでもやり直せるでしょう。ですが、綿津見の場合は、その守ってくれるはずの土台が最初から無いのですよ」
私は、八神先生の言葉をとても冷静に受け止めていた。
ここで私は、「それでも私はプロのサッカー選手としてピッチに立ちたい。日本ではそれが叶わないのだから、海外に行くしかないんです」と、自分の意志をきっぱりと告げるべきなのだろう。
けれど、八神先生が本気で私の今後の人生を心配してくれていることも、痛いほど理解できていた。
私のことを誰よりも深く考えてくれている。
だからこそ、私の目指す道を無条件に肯定してくれるわけではなかった。
その優しさが嬉しいのに、同時に自分の進みたい道を認めてもらえないような寂しさもあった。
「綿津見さんはどう思っているの?」
紅月さんは、八神先生の話を最後までしっかりと聞き入れてから、私に話を振ってきた。
「私としては、チャレンジはしたいです。先生が心配してくれているのも、すごくよく分かります。ありがとうございます」
私は八神先生に向かって頭を下げた。
この学校に入学してから、私は先生に結構な迷惑をかけていると思う。
私のために役場まで足を運び、ケースワーカーの人と熱心に話をしてくれていたことも知っている。
『本当はいけないんだけどな』と言いながら、八神先生と奥さんが私のアパートまで来て晩御飯を作ってくれたこと。
そして料理初心者の私でも簡単にできるレシピを、奥さんが丁寧に書いて渡してくれたこと。
これまでの生活で、私は先生に本当に助けてもらったと思う。
「だけど……」
先生はまだ、何かを言おうとして言葉を濁している。
私は先生に向けて首を縦に振った。
気にせず続けてください、という意思を込めて。
「お前にも、ようやく心を許せる友人が出来ただろう。私は、お前たちを一緒に卒業させてあげたいと思っているんだ」
先生は、栞のことを言っているのだろう。
それは、さっき名刺を受け取ったときに、私自身も一瞬だけ頭によぎったことだった。
同じ教室で並んで学び、他愛のない話をして。
卒業アルバムに一緒に写って、同じ日に卒業を迎えるというのは、人生においてこの高校生のときしかできない経験だ。
「大人は学校なんて、と言うかもしれません。ですが、この子たちの高校生活は人生でこの一回しかないんです」
そう言って、八神先生は自身の主張を締めくくった。
「そこまで私のことを心配してくれて、本当にありがとうございます」
私は一呼吸を置いてから、正面のソファに並んで座っている先生方の顔を一人ずつ見つめた。
「先生方がここまで私のために言ってくれて、私はすごく嬉しいです。八神先生が仰ったことも、すべて事実だと思います。今の私には、まだ世間に証明できるような確実な実績はありません。それでも、私の可能性を評価してくれたクラブや、こうして動いてくれたNSTの人たちにも、私は感謝をしたいです」
自分のことについて話しているはずなのに、口から出る言葉はどこか他人事のように響いているような感覚がある。
それでも、私なりに目の前の人たちへの感謝を言葉にしなければいけないと思った。
さっきから同じような言葉を繰り返している気もするけれど、八神先生だけでなく、この場にいる全員に対して、私なりの感謝を伝えなければいけないと思ったから。
「私は小学4年生の時に、自分の冷酷な現実を突きつけられました。今現在は国の社会援助のおかげで、こうして不自由なく学校にも通わせていただいています。だけど、私が昔からずっと叶えたかった夢に向かって、今こうして手が差し出されたのだとしたら、私はその手を取る以外の道は残されていないんです。たとえそれが、私を蝕む毒かもしれないとしても、私は掴み取ります。それに今回は、長谷部唯選手の強い推薦もあるのですから、そんな最悪な結末には決してなりません」
私のその言葉を聞きながら、八神先生とは違って、校長先生やサッカー部の顧問の先生は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。これ以上余計なことを言うな、と無言で八神先生を睨みつけているその視線が、私の目にはどこか滑稽で、少しだけ面白く感じられてしまった。
きっと学校側としては、私が世界的な名門クラブへ渡れば学校の知名度が上がり、今後の入学者数も大幅に望めるとでも皮算用をしたのかもしれない。
先日も上野先輩が、年齢別の高校選抜だったか何かの遠征メンバーに選ばれたばかりだ。
その上に、さらに私がイングランドへ渡るとなれば、学校のブランド力が高まるという計算なのだろう。
そして何より、私の家庭にまつわる過去の爆弾が世間に明るみに出なければ大万歳だ、とでも考えているに違いない。
自分の意見は、すべてこの場にいる大人たちに伝えた。
あとは彼らがどういう判断を下し、どのような手続きを進めるかだけだ。
まだ一八歳になっていない未成年の私には、自分の人生の進路に関する決定権がほぼ無いようなものだと思っている。
最終的には、ここにいる先生たちか、あるいは役場のケースワーカーが私の行く末についての決定を下すのだろう。
たった一年の違いでしかないけれど、この年齢の差というものは、今の私にとっては残酷なほどに大きく、重いものに思えてしまう。
応接室での話し合いを終えて部屋を出た私は、そのまま紅月さんの指示に従って、教室から私物の手荷物をすべて回収した。
いつもなら、このあと授業を終えてから、引っ越しの準備や栞の食事を作る予定だったけど、今日はそういうわけにもいかないらしい。
荷物をまとめ終えた私は、そのまま紅月さんと一緒に校門へ向かった。
校門の前には、すでに会社の車が停められている。
私は荷物を抱えたまま車へ乗り込んだ。
このまま私の身の回りの手続きを終わらせるため、役場へ向かってケースワーカーの人とも話を付けるらしい。
どうやら、まだいろいろと始まったばかりのように思えた。
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