58話S もうひとつの恋の決着
授業中、正式に恋人同士になったばかりの私たちがこれから何をしようか、そんな甘い考えを巡らせていた、まさにその時だった。
『2年1組、綿津見綾さん。至急、応接室まで来てください』
スピーカーから流れた校内放送の直後、それまで静かだった教室内の一斉に空気が変わり、あちこちから騒がしい話し声が響き始めた。
私は昨日、秋子さんから大まかな内容を聞かされていた。
だから、おそらく唯さんのサポートしている会社が動いたのかなと予測はできた。
けれど、昨日の夜に話が出たばかりで、今日の午前中にはもう学校に来るなんて、いくら何でも仕事が早すぎると驚いてしまった。
その後、授業が終わってお昼休みの時間になり、綾さんは一度だけ教室に帰っては来た。
けれど、私とろくに言葉を交わす暇もないまま、すぐにまた出て行ってしまった。
一体どういう状況になっているのか、今すぐにでも彼女から直接聞きたかったのに。
「何かあったのかしら?」
いつも一緒にお昼ご飯を食べている新庄さんが、不思議そうにそう声をかけてきた。
一緒にお弁当を食べていると言うよりは、ほぼクラスの女子たちが中心になって集まって食べている、という賑やかな空間なのだが。
私は、ただ綾さんの話し合いがスムーズに進めばいいな、とそればかりを祈るように考えていた。
「あの子って、確か親が居ないんでしょう?」
「え、そうなの?」
「だから一人暮らしをしているらしいよ。一体何をしてしまったんだろう」
「応接室に呼び出されるなんて、普通はあり得ないよね」
「あの人、いつも無口で何を考えてるか分からないし」
「放送の言い間違いじゃないの? 応接室じゃなくて、本当は生徒指導室だったりして」
「あ、それあり得るかも」
「でも、サッカーは凄く上手いんでしょ? もしかして……どこかにパパでも出来たんじゃない?」
「パパって……まさか、いかがわしい方面のスポンサーってこと?」
サッカーが上手とパパの話は関係ないでしょ?
何でそういう話になるの?
最初は、どうでもいいようなただの噂話だった。
けれど、言葉が重なるにつれて話の方向性がどんどんおかしな方へとずれていき、綾さんの印象を悪くする方向へと向かっていくのが分かった。
どんどん下世話な妄想へと突き進んでいくクラスメイトたちの言葉に、私の胸の奥で怒りが限界まで膨れ上がっていく。
耐えかねた私は、手元にあった自分の机を、勢いよく手のひらで叩きつけた。
激しい音が教室に響き渡り、周囲の視線が一斉に私へと集中するのが肌で分かった。
「私は、人をけなす言葉は嫌いだよ。本当かどうかも分からないのに、そうやって人を貶める話をするのも嫌い。美味しいご飯もまずくなるし、聞いていて気分も良くないよ。それにね、そんな話を口に出すのは、自分自身を貶めることになるんだよ」
私はそれだけを言い放ち、再び自分の席に座って食事を再開した。
せっかく美味しい綾さんの手料理を詰めてきたお弁当なのに。
綺麗に巻かれただし巻き卵も、ジューシーな鶏の唐揚げも間違いなく絶品のはずなのに、下世話な話を聞かされたせいで、なんだか味が色あせてしまったような気がする。
教室内を包む空気も、先ほどより明らかに悪くなってしまったのを感じていた。
いつもの私なら、周囲の他愛のない噂話なんて聞き流しているはずだった。けれど、さすがに綾さんの風評被害をスルーすることだけは、どうしてもできなかった。
それにしても、なぜあの人はいつも綾さんを目の敵にするのだろう。
私には不思議で仕方がなかった。
綾さんは確かに、自分自身が興味の無い対象に対しては、普段から何を考えているのか分かりにくいところがある。
こちらから何か話を掛けてみても、「そう」とか「興味ない」とか、短い単語だけで返事をする人だから、周囲が掴みどころがないと感じる理由は分からなくもない。
けれど、だからと言って、なぜそこまでして綾さんを窮地に落とそうとするのかは一向に理解できなかった。
重苦しい雰囲気のままお昼休みが終わり、今日の学校の授業もすべて終了した。
私も帰るための準備を終えて、教室から廊下へと出た、まさにその時だった。
「栞ちゃん」
背後から鋭い声が私を呼び止めた。
なに、と振り返る前に、私はその声の主が新庄さんだと分かった。流石に毎日学校でその声を聴いていれば、耳に届いた瞬間に誰のトーンなのかを判別することくらい容易だった。
「少しだけお話があるんだけどイイ?」
向けられた彼女の視線は、どこか切迫した熱を帯びている。私は左腕の腕時計に視線を落とし、次の予定までにまだ時間があるのを確認した。
「30分程度だったら大丈夫だよ。話はここで?」
「部室でもいい? 流石にここだと人目があるから」
部室に場所を移したところで話し合う内容の本質は同じだろう、と内心で思ったけれど、確かに生徒たちが行き交うこの廊下で立ち話をするのは、余計な人目を引きすぎるのも分かった。
そうして彼女の後ろに付いて向かった先は、美術準備室だった。
重い扉を開けて中に入ると、私の予想に反して、室内には静寂が広がっており誰の姿もなかった。放課後の特有の西日が、誰もいない机を虚しく照らしている。
「今日の部活は?」
「今日は、まだ新学期始まったばかりだから休みよ」
新庄さんはそう言いながら、私と距離を詰めるようにして対峙した。
遮るもののない静かな個室の空気が、じりじりと肌を刺す。
「私を個室に迎えて何の話?」
私自身、この人と一度しっかりと話をしてみたかったのも事実だった。
だからこそ、ここまで付いてきたのだ。
「あの人とどういう関係なの!」
彼女は、胸の奥に溜め込んでいた感情を爆発させるように叫んだ。その瞳には、強い嫉妬と焦燥が混ざり合っている。
「あの人? 個人名を出してもらわないと私もわからないよ」
「そうやってはぐらかすの。……綿津見さんよ」
「前も言ったけど、友達だよ」
友達、と口にしながら、私は自分の記憶を少しだけ探った。
以前、彼女のことが少し気になると周囲に言った記憶はあるけれど、まさかこんな風に問い詰められる理由になるとは思わなかった。
流石に今のこの緊迫した状況で、私たちが恋人同士だなんて言えるはずがない。
そんなことを正直に明かせば、面倒な事になるのは目に見えているから。
「言い換える。なんであの人が栞ちゃんと同じマンションにいるの? あの人の家は安っぽいオンボロアパートなのに」
「新庄さんに言う必要ある?」
彼女に対して、私は声を荒らげることなく、冷ややかな視線を真っ直ぐに向け返した。
「質問を質問で返すのは卑怯だよ。一ファンとして聞きたいの」
一ファン、という言葉を身勝手な盾のように突きつけてくる新庄さんに対して、私はただ、綾さんが私の部屋にいてくれる理由を淡々と口にした。
「彼女の料理がおいしいからハウスキーパーとして雇っただけよ。たまたま綿津見さんが働いているバイト先のお店が閉めることを聞いたから。それだけ」
「なら私も雇ってもらってもいいでしょ」
嫉妬に駆られたように、新庄さんは子供が我を張るような理不尽な理屈で食い下がってくる。
放課後の美術準備室には他に誰もおらず、窓から差し込む夕暮れ時の西日が、私たちの間の張り詰めた空気を不気味に赤く染め上げていた。
「間に合ってるよ」
「なんであの人なの? あの人は、栞ちゃんの事を知らなかったのに」
新庄さんは一向に納得がいかないというように、激しい焦燥感を剥き出しにして私を睨みつけてくる。
なぜそこまで他人のプライベートを執拗に嗅ぎ回るのか、私は胸の奥で冷ややかな警戒心を一段と強めていた。「味が私好みなのと、私を知らないのは関係ないでしょ」
「そうやってごまかすのはよくないわよ」
新庄さんはさらに一歩、私との距離を詰めて凄んできた。
ここで頭に血を上らせて言い返してしまえば、ただでさえ不穏なこの話がさらに面倒な事態になる。私は胸の奥の警戒心を一段と強めながら、彼女の剥き出しの敵意を正面から見据え返していた。
新庄さんはまっすぐに私に向かって歩み寄ってきた。
けれど、まさか学校の教室の中でそんな強引な事まではしてこないだろうと、高を括って気にかけなかったのが本当によくなかった。
次の瞬間、予想だにしていなかった女性特有の身体の肉の柔らかさを、正面から全身に感じた。
あまりの突然の出来事に、彼女に正面から力任せに抱き付かれたのだと理解するまでに、ほんの数秒の遅れが生じてしまう。
抵抗する間もないまま、自分の唇に、ぬるりと暖かい肉の感触が押し当てられた。
そこで初めて、私は自分が新庄さんにキスをされたのだと、衝撃と共に理解した。
「……っ!」
私は全身の力いっぱいに彼女の身体を押しのけ、強い敵意を込めて彼女を真っ直ぐに睨みつけた。
すぐにスカートのポケットから手鏡とハンカチを取り出し、拒絶の意思を示すように何度も唇を強く拭う。視線の先では、押しのけられた拍子に床へと倒れ込み、声を上げて泣いている新庄さんの姿があった。
私はハンカチを握りしめたまま、その泣き崩れる彼女と正面から向き合った。
「……同じ女性同士だから、今回のこの件はこれ以上騒ぎ立てずに不問にしてあげる。だけど、なんでこんな無茶苦茶な事をしたの?」
私の静かな問いかけに、新庄さんは涙で濡れた顔をゆっくりと私に向けて、声を震わせながら言ってきた。
「貴女が綿津見さんに感じている気持ちと、全く一緒なのよ。私は……私は、貴女のことが好きなのよ!」
床に座り込んだまま、感情を吐き出すようにそう告白してくる彼女に、私は冷淡なトーンを崩さなかった。
「好きだからって、同意もなくいきなりキスをするなんて、正直に言って意味が解らないんだけど」
「だって……綿津見さんとは、何時もそういう事をしているんじゃないの!?」
新庄さんのその叫びを聴いて、私の胸の中に複雑な感情が湧き上がる。
大好きな綾さんと、日常的にそんなに甘いことが出来たらどんなに幸せだろう。
けれど、そんなことを一度でもしてしまったら、私の彼女に対する独占欲や欲求がそれこそ収まらなくなってしまう。だからこそ、私は恋人になってからも必死に理性を働かせて自重しているというのに。
「私は、あの人が大嫌い! 普段から何を考えているのか全く分からないし、行動の意図だって意味不明なのに……どうしてそんな人が、栞ちゃんの心を奪っているのよ。あの人が嫌い。なんで、なんであの人じゃなきゃダメなのよ!?」
涙を流しながら綾さんへの憎悪を口にする新庄さんを見つめながら、私は静かに言葉を返した。
「それってね、『どうして私を好きになったの?』って他人に理由を聞くのと同じことだよ。人が人を好きになることも、誰かにどうしようもなく惹かれることも、そこに特別な意味や分かりやすい理由があるわけじゃないんだから。何かしらのきっかけはあるにしてもね」
綾さんをカラオケの時に、あのような事をした人はこの人だとわかっていた。
その卑劣な嫌がらせを知ったとき、すぐに新庄さんを問い詰めることもできたはずなのに、結局今まで私が何も言えなかった本当の意味が、こうして放課後の誰もいない美術準備室で正面から向き合ったことで、今度こそはっきりと分かった。
新庄さんの起こした強行な行動自体は、決して他人に勧められたものではないし、許されることでもない。
けれど、窓から差し込む夕暮れ時の西日に赤く染まりながら、床に泣き崩れて私を見つめる彼女の目の光が、普段の私が綾さんを見つめる時の恋焦がれる目と、あまりにもよく似ているからだと思った。
「栞ちゃんの仕事が芸能界だと知っている、困ることもわかるけれど、同性だけど私は貴女が好きです。付き合ってください」
「最初っからそう言ってくれたらよかったのに、でもごめんそれはできないよ」
「あの人がいるから?」
「どうしてそう思うの?」
私が静かに問い返すと、新庄さんは涙を流したまま、床に座り込んだ身体を震わせて私を見上げてきた。放課後の静まり返った個室の中、私たちの言葉だけが張り詰めた空気をヒリヒリと震わせている。
「普通なら同性だとか、仕事があるから断るって思うよ」
「わかるよ。私は栞ちゃんのことが好きだもん。貴女の公開録音や貴女が出ているTV番組やドラマ等全部チェックしているんだよ。見てればわかるよ」
ファンとしてそこまで熱心に私の活動を見てもらえていることは、一人の表現者として純粋に嬉しいと思う。
けれど、だからといって私には、新庄さんが望む形で答えるわけにはいかない。
なぜなら、私の心の中には、もう綾さんが居るんだから。
「ごめんね」
ここでいくら謝っても、彼女の傷ついた心に対しては何の意味もないことは分かっている。
けれど、今の私の頭には、ただこの拙い言葉しかどうしても思いつかなかった。
こういう切ない告白を断る場面において、これまで出演してきた数々のドラマの台本の中では、きっと沢山違ったし、綺麗で気の利いた言い方があるはずなのに、今の私はそのどれ一つとして思い出すことができなかった。
「そんなにあの人が良いの? どんなところが良いの?」
新庄さんは溢れる涙を拭おうともせず、絞り出すような掠れた声音で私に問いかけてきた。
その瞳には、私への切ない恋慕と、答えを聴くのが怖いという怯えが混ざり合って激しく揺れていた。
「新庄さんがわからないって言点てた部分かな? 最初はなんて変な返しをするんだろうって思った。そして口調はそっけないけれど実は優しい人だとわかった事かな」
これではのろけ話を私が好きだと言ってくれている人に言っているだけではないのか。
自分の口から出た無遠慮な言葉の響きに、私は胸の奥がチクリと痛み、強い自己嫌悪に陥ってしまう。
泣いている彼女をこれ以上傷つけたいわけではないのに、綾さんのことになると、どうしても熱い気持ちを隠すことができないのだ。
「そう」
新庄さんは自分自身の荒れ狂う感情を何とか納得させるためか、ぽつりと短くそう言ってきた。
目の前の床に力なく座り込んだ彼女の肩が、微かに震えている。
「ごめんなさい」
「何に対して?」
突然、俯いて小さな声で謝罪の言葉を口にした彼女に、私は少しだけ戸惑いながらそう聞いてしまった。
「抱きしめてキスした事」
「私もごめんね。気持ちにこたえられなくて」
向けられた真っ直ぐな好意を拒絶せざるを得ない心苦しさに、私の胸の奥が締め付けられる。
新庄さんはさらに視線を深く落としたまま、震える声で言葉を続けた。
「あとあの人を貶めるようなことをして誘導したことも」
「それは綾さんに謝って、言っても多分「そう」だけで終わるんだと思う」
普段の彼女の、何事にもブレないあのそっけない対応を思い浮かべながら私が言うと、新庄さんは少しだけ自嘲気味に口元を歪めた。
「あの人にしたことは悪いとは思うけど謝らない。だって言っても堪えそうにないし、独り相撲で自分がみじめになると思うから」
「嫌いだと言ってる割にはよく見てるね」
私が少しだけ驚きながらそう指摘すると、新庄さんはハッとしたように小さく息を呑み、それから諦めたように静かに告白を始めた。
「栞ちゃんが好きになった人だし、どういう人か知りたかったから」
「あの時尾けていたよね」
私がかつての出来事を静かに、責めるようなニュアンスを一切交えずに口にすると、新庄さんは驚いたように顔を上げた。
「知ってたの? でも私だけじゃないよ」
「ん? 違うの?」
「正確には、あの人を追ってたのは私だけじゃないってだけ」
新庄さんの口から飛び出したその予想外の言葉を耳にした瞬間、私の背筋をすっと冷たい戦慄が駆け抜けていくのが分かった。室内の張り詰めた空気が、一瞬で凍りついたかのように重くなる。
「綾さんに? いつ?」
「確か夏休後半ぐらいかな? 一応栞ちゃんのマンションは知っているから、部屋までは知らないけれど、一目見たくて」
「どんな人?」
「多分記者の人じゃないかなあとは思う。声かけるのも怖いから近寄らなかったけれど」
新庄さんのその衝撃的な証言を聴いた瞬間、私の胸のざわつきは一気に跳ね上がった。
夏休みの後半というかなり早い時期から、すでにプロの大人の記者が綾さんの周囲を執拗に嗅ぎ回っていたなんて。
昨日秋子さんが車を飛ばしてあのアパートへ駆けつけなければ慢らなかったほどの大きな危機の種は、私たちが全く気づかないほど前から、ずっと不気味に植え付けられていたのだ。
これは少し秋子さんに報告は入れておいた方が良いのかも。
私は、床に泣き崩れる新庄さんにゆっくりと近づいて、その身体を優しく抱きしめた。
突然の私の行動に彼女は一瞬だけ身体を硬くしたけれど、すぐに私の肩に自分の顔を乗せるようにして、声を殺して堰を切ったように泣いていた。
私の服の肩口が、彼女の熱い涙で次第に濡れて重くなっていくのを感じる。
私を、きらびやかな世界の芸能人としてではなく、一人の等身大の人間として本気で好きになってくれて、本当にありがとう。
「はじめっから勝ち目がないって全部分かってたけれど……芸能人の栞ちゃんじゃなくて、普通の高校生の霧生栞ちゃんとして出会って、そうやって接してれば、私にもまだ少しは勝ち目があったのかな?」
「わからない」
私は静かにそう答えて、彼女の背中に回した腕に力を込め、もう一度ゆっくりと強く抱きしめた。
こんなことをするのは、ただの私の我が儘であり、身勝手な自己満足だということは自分でも痛いほど分かっている。
突き放された側からすれば、最後にこんな温かい感触を知ってしまったら、余計に未練が残って諦めきれなくなってしまうかもしれない。
それでも、もしこれが彼女にとってあまりにも悲しい失恋の思い出になってしまうのだとしても、真っ直ぐに向き合ってくれた彼女に対して、私は何かを返したくなってしまったのだ。
それから、お互いにこれ以上は何も言わずに私たちはそっと身体を離した。
夕闇の迫る美術準備室を後にして、私は正面玄関を出て、校門の先で秋子さんが待っている車の方に向かって、静かに歩き出した。
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