55話A 突然の電話
流石にすぐには新しい家を用意できなかったらしい。
今日案内されたのは、先月まで私が暮らしていた部屋だった。
ここ最近、目まぐるしく動き出した環境のせいで、まだ頭がうまく働かない。
ベッドに横たわっていると、普段は静かなスマホが、かすかな振動を伝えてきた。
液晶画面を覗き込むと、そこには『唯さん』の二文字が表示されている。
画面が示す日本の時刻は23時。そのすぐ隣には、マンチェスターの午後3時という時刻が並んでいた。
向こうへ渡ってから、時計の表示を二つの世界に設定しておいて本当によかったと思う。
こればかりは、現代の文明の利器に感謝するしかない。
初めは「そんなに高いものは必要ない」としぶっていた私を、栞や水無月さんは、熱心に説得してくれた。
その話を唯さんに打ち明けた時も、彼女は「これからはメールでの連絡が中心になるんだから、絶対に持っていた方がいいよ」と、弾けるような笑顔で背中を押してくれたのだった。
「はい、綿津見です」
『綾ちゃん。久しぶり、元気にしてた?』
「……もしかして、あの騒動のことを知って電話をくれたんですか?」
『ふふ、勘のいい子は嫌われるよ?』
「そんなことを言ったら、唯さんなんて世界中から嫌われちゃいますよ」
イングランドリーグ・ムーンシティWFCの不動の司令塔。女子日本代表のキャプテンでもある彼女を、嫌う人間なんてそうそういない。
以前、なぜそこまで戦況が見抜けるのかと尋ねたら、彼女は「ただの勘だよ」と笑っていたけれど、絶対に違う。
『華麗なる魔術師』と呼ばれる彼女は、ピッチを一瞥するだけで、全選手の数手先の動きを予測しているのだ。
それを「勘」という一言で片付けてしまうのだから恐ろしい。
さすが、今年も年間優秀選手に選ばれた天才だとは思う。
天才というと怒られるけど、彼女はそれに輪をかけて人一倍練習をしているのを知っている。
才能があって人の数倍サッカーに向き合っているんだから、本当にすごい人だとは思う。
受話器から伝わる大人の余裕と優しさに、凝り固まっていた心が少しだけ解けていくような気がした。
「そういえば唯さん、年間優秀選手のノミネート、おめでとうございます。バニーにもお祝いを伝えてもらえますか?」
『ありがとう。彼女も綾ちゃんからそう言ってもらえたら、きっと喜ぶと思うよ。――それで、話を戻すけれど、そっちは本当に大丈夫なの?』
「はい。幸い、水無月さんと栞のおかげで助かりました。上野先輩が心配して、栞に連絡を入れてくれたみたいです」
『俊も、自分で直接行けばいいのにね』
「連絡があった時は21時を回っていましたから。男子高校生がそんな時間に夜出歩いたら、下手したら補導されちゃいます。だから、仕事で遅くまで起きているだろう栞に連絡をしたんだと思いますよ。明日会ったら、ちゃんとお礼を言っておかないと」
『ふふ、俊も喜ぶと思うよ。何があったかは知らないけれど、あの子、綾ちゃんのことかなり気にしていたからね。……もしかして、そういう関係だったりする?』
「そういう関係、ですか?」
思い当たる節がなくて、私はそのまま聞き返した。
『え、そういう関係って言ったら、あれしかないでしょ?』
そこまで言われてもピンとこなかったが、少し考えて、ふと思い出す。
「わかりました。あれですね」
『そうそう』
「サッカーの仲間で、同じ部の先輩後輩です」
『違う! なんでそうなるの!?』
「違いますか? だとしたら、もう何も思い浮かばないんですけど」
『普通そういう時は、恋人同士になったとか、そういう甘い展開を想像するものでしょ?』
「そんな関係じゃありませんよ。それに、唯さん自身が以前言っていたじゃないですか」
『私、色々言ってるからなぁ。なんだっけ?』
「恋愛をすると彼氏中心の生活になって危険だから、のめり込みすぎないように気をつけなさいってやつです」
『ああ、それね。……うん、俊も報われないねぇ』
「……ごめんなさい」
なぜ私が唯さんに謝っているのか自分でもよくわからなかったが、とりあえず謝っておいた。
実際のところ、上野先輩とはそんな関係では絶対にない。
ただ――『実は、栞と付き合うことになりました』と、ここで打ち明けるのもなんだか気恥ずかしい。
唯さんなら、口が裂けても他人に言いふらすような人ではないと分かっているのだけれど。
『それじゃあ、雑談はここまでにして本題に入るね』
「わかりました」
『数日後、あなたに会いに行く人がいるわ』
「えっと……私に、ですか?」
誰だろう。
クラブの関係者だろうか。
でも、ムーンシティはイングランドのクラブだから、今の私には直接関係がないはずだ。
それに今の私は、日本ではスキャンダルまみれの扱いになっている。世間に見つかればイメージも悪いはずなのに、そんなリスクを犯してまで会いに来る人がいるとは思えなかった。
『会ったこともない人だから、今いくら考えても無駄よ』
こちらの思考を見透かしたように、唯さんが受話器の向こうで小さく笑う。
『私が所属している『NST SPORTS』っていう、エージェント会社があるの』
エージェント、という単語を聞いた瞬間、背筋がすっと強張るのがわかった。
どこかのマスコミか何かの組織だろうか、と警戒心が跳ね上がる。
『そうだね、分かりやすく言うなら、栞ちゃんに対する秋ちゃんみたいなポジションの人、かな』
「……ですが、私は何の実績もない人間ですよ」
『実績ならあるわ。前回の試合のときと、あとは私が会社の方に、チームの紅白戦のビデオを見せておいたから』
「それは……唯さんに、ご迷惑だったのでは?」
『おまけにあなた、レアル・ブランカスのルシアとユニフォーム交換をした人物でしょ?』
「あれは、本当にたまたまです」
『この間もね、ルシアから『あの子はいつこっちの世界に来るの?』って聞かれたよ』
「唯さんとルシアは、お友達なんですか?」
『そこまでの交流はないんだけどね。ただ、向こうもあなたのことが気になって仕方ないみたい』
ルシア・カストロ。
あの柔軟な身のこなしから繰り出される圧倒的な突破力は、思い出すだけでも鳥肌が立つ。
ベンチから試合を見ていた時、彼女のプレイはまるで輝いているかのように眩しかった。
『おっと、また話が脱線しちゃった。要するにね、綾ちゃんが純粋にサッカーだけに打ち込めるように、全力でサポートしてくれる会社なの。そこの担当者が、直々にあなたに会いに行くから』
「ですけど……」
『うん、日本にいる間は水無月プロダクションにお世話になることも、彼女たちの口から聞いてるよ。栞ちゃんのハウスキーパーっていう名目のポジションでしょ?』
「はい、その通りです」
『そっちの状況をスムーズに動かすためでもあるの』
「どういうことですか?」
『大人の事情で、面倒な手続きがいくつもあるのよ。でも、そこはプロに任せておけば大丈夫だから』
大人の社会の話が出てきて、私は完全に返答に窮してしまった。
こんな時、一体どう振る舞えば正解なのだろうか、わからなかった。
『不安なのは分かるけれどね』
「はい。それに、私の過去は……」
『そこは私も会社には言っていないよ。それは綾ちゃんの、心の奥底の問題でもあるからね』
「ですが、日本の会社なら、私のような爆弾を抱えた人間からはすぐに手を引くのでは?」
『多分大丈夫だと思うよ。プロになって安心してプレーをするには、こういうエージェントが居てくれた方が安心できるのも本当よ』
「……私には、エージェントの費用を払えるだけのお金がありません」
『そこなら心配いらないよ。私が出すから』
「そんな、唯さんにこれ以上の迷惑はかけられません!」
『もしプロチームに入団できなかったら、秋ちゃんのところで芸能人デビューする予定なんでしょ?』
「そういう話にはなっていますけど……」
『じゃあ、その時に出世払いで返してもらおうかな』
そう言って、唯さんは受話器の向こうで悪戯っぽく笑った。
私の困惑をよそに、彼女の声はどこか楽しそうだ。
『敵も多いけれどね、綾ちゃんの味方も同じくらい多いんだから。そこは安心して』
「……はい」
『次に会う時、一段と成長した姿を見せてもらうのが私の条件。楽しみにしてるね』
「分かっています。皆さんからいただいたアドバイスノートを、何度も見返して練習していますから」
『あとは英語ね。そのあたりもNST側から、英会話学校か家庭教師の紹介があると思うわ』
「本当に、至れり尽くせりですね」
『最初は投資に近いものだから。綾ちゃんの英語力なら心配ないと思うけれど、使わないと感覚が鈍ってしまうからね』
「……ありがとうございます」
『用件はそれだけ。あまり栞ちゃんと一緒にいて、せっかくの腕を錆びつかせないでね?』
「唯さんっ!」
普段の私なら絶対に口にしないような大声で、先輩の名前を呼んでしまっていた。
『ふふ、秋ちゃんから全部聞いてるよ。おめでとう』
「……反対は、しないのですか?」
恋愛をすると周囲が見えなくなって危険だ、と。そう言っていたのは、他ならぬ唯さん本人のはずだ。
『綾ちゃんも栞ちゃんも、盲目的に恋に溺れるタイプには見えないからね。オンとオフのスイッチがしっかりしている二人なら、そこまで心配していないよ』
それだけを告げると、唯さんは私の返事を待たずに、満足したように通話を切ってしまった。
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