54話A 突然の訪問と賭け
久しぶりに自分の部屋でご飯を作っていると、言いようのない強い違和感が胸の内に広がっていく。
今までは基本として三人分の食事を用意していたのに、急に私一人分の分量だけで済んでしまうこと。
元々は長い間ずっと一人きりで生活していたはずなのに、この一ヶ月半というものは、いつも栞や水無月さんが居てくれた。
ぽつんと食卓に並ぶ、自分だけのために用意した一人のご飯。そこに少しだけ寂しさを感じている自分に気づき、私自身が一番驚いていた。
ただ以前の当たり前だった生活に戻っただけなのに、どうしてこんなにも心が寒く感じるのだろう。
そんな風に自問自答しながらスプーンを動かしていると、突然、玄関のドアを激しくノックする音が響き渡った。
薄いアルミ製の扉が、外からの衝撃で小刻みに震えている。
栞かなと一瞬だけ頭をよぎったけれど、彼女ならノックと同時に私の名前を大きく呼ぶはずだ。
それに、部屋に来る前には必ずメッセージの一本くらい送ってくるに決まっている。
壁の時計へと目をやると、時刻はすでに夜の二十二時を回ったところだった。
新聞の勧誘にしては非常識すぎる時間だし、こんな深夜に宅配便の配達が来るはずもない。
私はどこか胸騒ぎに近い嫌な予感を抱きながらも、ゆっくりと鍵を外してそっと扉を開けた。
「綿津見さん、ですよね」
第一声がそれだった。私は驚きのあまり、思わず奥へと一歩後ずさりしてしまった。
「え……あ、はい」
私が小さく答えた瞬間、目の前に立つ男は強引にドアの隙間へと革靴をねじ込んできた。
こちらに絶対に扉を閉めさせないための、冷徹で慣れた手口だ。
男はすでにスマートフォンの録音アプリを起動させており、その黒い画面を容赦なく私に向けて突きつけながら、矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。
「この間のシティとレアルのプレシーズンマッチで、一ゴール一アシストを決めたムーンシティの練習生って、あなたですよね? 世間が注目しています、一言お願いします!」
一体、何が起きているというの。
あまりの急展開に、私の頭は完全にフリーズしてしまう。
至近距離で突きつけられたカメラのレンズ、大人の威圧的な怒鳴り声、そして逃げ場の一切ない狭い玄関口。
この男が必死に追っているのは、彼らにとってはただの「現在の魅力的なサッカースクープ」でしかないのだろう。
けれど、強引に距離を詰めてくる大人の姿を目にした瞬間、あの日の地獄が鮮明すぎるほど脳裏に蘇ってしまった。
無数の大人たちに身動きが取れないほど囲まれて、容赦なくフラッシュの光を浴びせられた、あの日の忘れたい恐怖。
急激に酸素が足りなくなり、上手く呼吸をすることができない。
身体が恐怖で完全にすくんでしまい、私はその場から一歩も動けなくなってしまった。
「何をしているのですか! それは明確な不法侵入ですよ、今すぐ警察を呼びます!」
その鋭い一喝が、アパートの薄暗い廊下に激しく響き渡った。
凛とした声を聴いた男は、チッと大きく不快そうに舌打ちをして、突きつけていたスマートフォンを素早く引っ込めると、逃げるようにして階段をドタドタと駆け下りていった。
私が激しく上下する呼吸を必死に抑えながら、声のした方へと視線を向けると、そこにはひどく息を切らせた水無月さんが立っていた。
「水無月さん……?」
「綾ちゃん。無事みたいね、本当に良かった……」
彼女の姿を視界に捉えた瞬間、張り詰めていた緊張が一気に解け、私の目から大粒の涙がとめどなく溢れてきた。
「今からここを出るから、すぐに移動の準備をして」
言われるがままに最低限の荷物だけを大急ぎでまとめ、彼女の後ろをついていくと、アパートのすぐ前に一台の車がハザードランプを点滅させて停まっていた。
急かされるようにして後部座席に乗り込むと、驚いたことに、そこには栞が静かに座っていた。
「栞……どうしてここに?」
「仕事の帰りだったからね。ちょっと気になったから、水無月さんの車でここに寄ってもらったの」
「どうして?」
私はもう一度、全く同じ質問を繰り返してしまった。
パニックに陥った今の頭では、もう少し別の聞き方を探す余裕なんてなくて、その拙い言葉しか出てこなかったのだ。
「あ、もしかして、なんで私がこのトラブルを察知してここに来られたのって、そういう意味で聞いてる?」
私が小さく頷くと、栞は少し困ったように眉を下げて笑いながら、手元にあるスマートフォンの画面を私に向けて見せてくれた。
「上野先輩から、緊急のメッセージが入っていたのよ」
「え? 栞、先輩と直接やり取りをしてるの?」
「まさか、普段はしてないって。どうやら唯さんに私のアドレスを聞き出したらしくて、こっちがびっくりしたくらい。……今日の部活のとき、男子の取材陣の人たちがしつこく綾さんにアタックしようとしていたでしょ? 先輩、それがずっと引っかかっていて心配で仕方がなかったみたい。もしよかったら、仕事の終わりに綿津見の様子を見に行ってあげてくれないかって、そう連絡があったの」
それを聞いて、私は驚きのあまり胸の奥が微かに震えた。私はいつも、こうして周囲の優しさに助けられてばかりだ。
「流石に事態を重く見た唯さんが、上野君に私の連絡先を教えたの。もちろん、最初に私への確認があって、私が許可を出した上での話なんだけどね」
運転席から、前を向いたまま水無月さんが言葉を補足してくれた。
「それでね、事情を知った秋子さんが、ネットワークを使って少し裏で調べてくれたのよ」
水無月さんはルームミラー越しに、いつもよりずっと真剣な眼差しをこちらに向けた。
「明日の朝に出る週刊誌のネット版に、綾ちゃんの記事が載ります」
それは一体、どういうことなんだろう。
私は座席のクッションに深く身体を沈め、水無月さんの心強い背中をただじっと見つめることしかできなかった。
「今日、上野君の公式インタビューが終わった直後、どさくさにまぎれて綾ちゃんに突撃しようとしていた悪質なフリー記者がいたみたいなの。その中の一人が、学校の敷地内で勝手に綾ちゃんの写真を撮って、そのまま半ば強引に記事をアップロードする準備を進めたみたい。信頼できる記者に直接聞いて、しっかりと裏を取ったわ」
彼女はそこまで一気に言うと、ふう、と小さく息を吐いた。そして、心配そうにこちらの顔を覗き込んできた。
「流石に私としてはどうにかしてあげたいのだけど、綾ちゃんはどこかの芸能事務所に所属しているわけではないですから。大元の掲載を無理に止めることもできないのが現状なのよ。だから、いったんマンションにかくまおうと思ったの」
「……また迷惑をかけてしまって、すみません」
「取材相手が未成年なんだから最低限のルールは守るだろうって、少し油断してしまったこちらの落ち度もあるわね」
水無月秋子さんは、車を器用に運転しながら、責める風でもなく優しくそう言葉を紡いでくれた。
「ねえ、綾さん。もういっそのこと、私と一緒に暮らそうよ」
「それはダメだよ、栞」
「だけど! さすがにこんなストーカーみたいに記者が突撃してくるような状況なのに、このままほっとけるわけないって」
「流石にこれ以上、栞に迷惑をかけるわけにはいかないから」
「もう、怒るよ! なんで自分の彼女が困っているときに助けようとしない恋人がいるなんて思っているの。全くもう!」
ぷいっと顔を背ける栞の様子を見ながら、運転席の水無月さんが冷静に言葉を挟んでくる。
「栞の感情論は一度置いておくとして、さすがに綾ちゃんが元のアパートで今まで通りの暮らしを続けるのは、私も大いに心配ですよ。あそこはセキュリティが皆無に等しいですし、今日みたいに悪意を持った人間が不法侵入しようと思えば、いつでもできてしまう構造ですからね」
「だけど、これ以上は本当に迷惑をかけられません」
いくら栞と正式に恋人同士になったのだとしても、これ以上彼女たちの領域に甘えるわけにはいかないのが私の本音だった。
これからも学校生活は続いていく。
私の正体が世間にバレてしまうのは最悪まだいいけれど、もしも栞と私が『そういう特別な関係』なのだと周囲に露見してしまったら。彼女のこれまでの努力や芸能人生そのものが一瞬で崩壊してしまう可能性だってあるのだ。
それだけは、私には到底耐えられそうになかった。
栞はそんなこと関係ない、と笑い飛ばすかもしれない。
けれど、マネージャーである水無月さんなら、ビジネスとしても絶対にそこは阻止をするはずだ。
「そうですね。それに、栞の立場が悪くなったら、私達も本当に困りますし」
「秋子さん!」
栞が水無月さんに反論するように鋭く名前を呼ぶけれど、大人の社会には厳然たるルールが存在する。
冷酷な言い方をしてしまえば、きっとこういうことなのだろう。
『商品価値が下がるのを良しとする店主は、この世に一人もいない』。
この言葉は、来年になればきっと私自身の身にも全く同じことが言えるはずだ。
プロのサッカー選手になった瞬間から、選手自身が一つの商品として扱われるということ。
私たちは常に世間からの厳正な評価を受け、その対価として大金を頂くことになる。
私はまだプロの契約を結んでいるわけではないけれど、その輝かしい道へ進める可能性がゼロではないのだから、今この瞬間からプロとしての意識を強く持たなければいけない。
「かといって、このまま綾ちゃんをあの無防備な部屋に戻すのも、非常に気が引けます。ねえ、綾ちゃん。ここで一つ、私と賭けをしてみませんか?」
「賭け、ですか?」
「ちょっと、秋子さん! 私、そんなの何も聞いてない!」
栞は、またしても非難めいた口調でマネージャーの名前を叫んでいた。
「今初めて言いましたから、知らなくて当然ですよ」
そんな栞の焦りを含んだ抗議など最初から気にも留めていない様子で、水無月さんはルームミラー越しに私へとまっすぐ視線を向けてくる。
「それで、綾ちゃん。賭けに乗るかしら?」
当事者である栞すらも事前に知らされていない内容なのだとしたら、これは完全に水無月さんの独断による提案なのだろう。
一体、これから私は何を言われるのだろうか。
暗い車内の中で、私は緊張を孕んだ唾をそっと飲み込んだ。
「約一年間、こちらで安全に住める場所を用意します。その代わり、もしあなたが無事にムーンシティへ入団できた場合は、数年をかけてかかった費用、プラス二割を上乗せして請求いたします」
「もし、入団が出来なかった場合はどうなるのですか?」
水無月さんの口から飛び出した、あまりに現実的でシリアスな条件。
これはあくまでビジネスとしての『賭け』なのだ。
ならば当然、私がムーンシティへの入団に失敗してしまったときの代償だって、あらかじめ用意されているに決まっている。
「そのときは栞の付き人になってもらい、将来的にうちの事務所から芸能界デビューをしていただきます」
「……私に、そんなことができると?」
「ビジュアルに関しては文句なしの合格点ですよ。もちろん、そのときは過去の事件のこともすべて事前にこちらから表に出します。あとから週刊誌などに嗅ぎつけられてスキャンダルにでもなったら、それこそ目も当てられませんからね」
水無月さんのあまりにビジネスライクな提案に、私の隣で栞が声を荒らげた。
「秋子さん、さっきから何を言っているの!?」
「栞は黙っていなさい。私はボランティアや慈善事業をしているのではないのよ。今はビジネスとして、綿津見さんと直接お話をしているの」
水無月さんはルームミラー越しに、冷徹とも言える芸能マネージャーとしての目を私に向けてくる。
「……同じような賭けを、私は向こうでもしました。そういうことでしたら、喜んでお世話になります」
「そう、受けるのね」
「はい。それに、あのまま私がアパートに居座り続けたら、周囲で普通に暮らしている他の住人の方々にも多大な迷惑をかけると思いますので」
私の決断を聞いて、水無月さんは少しだけ表情を和らげたように見えた。
「流石に、栞と全く同じ部屋で同居させるというわけにもいかないから、マンションの低層階にある別の空き部屋ということになるけれど、それでも構わないかしら?」
「寝泊まりできる場所さえあれば、私はどこでも大丈夫です」
「わかったわ。後日、きちんとした法的効力のある契約書を作成するので、サインの方よろしくね」
「はい。よろしくお願いいたします」
新学期が始まったばかりだというのに、どうしてこれほどまでに私を取り巻く状況が激変してしまうのだろう。
私はただ、誰にも邪魔されずに静かにサッカーをしていたかっただけなのに。
栞は、ひどく心配そうな表情を浮かべながら、その小さな両手で私の片手をぎゅっと握りしめてくれていた。
私は空いている反対側の手をそっと伸ばし、彼女の頭を優しく撫でた。
「綾さん……」
「心配してくれてありがとう、栞」
「そりゃあ、心配するよ……」
「水無月さんも、本当にありがとうございました」
お礼を告げると、運転席の水無月さんはルームミラー越しに肩をすくめてみせる。
「私はただ、そこに魅力的なビジネスチャンスがあったからそれを使用しただけですよ」
けれど、本当はそうではないことくらい、私にもちゃんとわかっている。
水無月さんは、私が甘えや同情による救いの手を拒否することなんて、最初からすべて計算のうちだったに違いない。
対等なビジネスとしての取引であれば、私がその提案に乗ることも、きっと完全に見抜かれていたのだ。
実際、あのアパートで悪質な記者が退散していく際、他の部屋のドアが細く開いて周囲の住人がこちらを窺っていたことに、私は気づいていた。
これ以上あの場所で騒動が大きくなれば、周囲に多大な迷惑をかけてしまう。
それならば、今はあえて水無月さんの手のひらの上で躍らされてみるのも、決して悪い選択ではないのかもしれない。
それに、これは私の勝手な憶測でしかないけれど、水無月さんは私がムーンシティの入団テストに落ちることなんて、これっぽっちも考えていないのだろうと思う。
だからこそ、もしも入団できなかった場合の条件として『芸能人としてデビューさせるために過去の事件をすべて表に出す』という厳しい言葉を口にしたのだ。
あのセリフはきっと、私のプロサッカー選手になるという覚悟の強さを、ビジネスパートナーとして試したのだと思う。
繋いだ栞の修復された手のぬくもりをじんわりと感じながら、私は車の窓の外を流れていく綺麗な夜景をじっと眺めていた。
車は静かに速度を上げ、栞の住む高級マンションへと向かって静かに走っていった。
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