53話 変化する日常
今日から、いよいよ新しい学期が始まる。
栞と恋人として付き合うことにはなったけれど、実際のところ何が変わるのかは自分でもよくわからないままだ。
今までと何も変わらない日常が続くのかもしれないし、これからどうなっていくのか、その先の展開なんてまったく見当もつかない。
この胸の奥でくすぶっている落ち着かない感じは、かつて栞にカラオケに誘われて、よくわからないまま返事をしたときのあの感覚にどこか似ていた。
私は、ほんの少しの静かな緊張感だけを連れて、静かに家を出る。
学校に近づくにつれて、私の方を盗み見てくる人の目がやけに多いような気がしてきた。
今までだって、周囲の視線を集めがちだった自覚くらいはある。
けれど、今日はいつもと次元が違う。
それの比じゃないと言い切れるくらい、あちこちからジロジロと見られているのだ。
もしかして、私が栞のハウスキーパーをしていることがどこからか周囲にバレたのだろうか。
それならこれだけ注目されるのも納得はできる。
だけど、もしそれ以外の理由だとしたら一体何だろう。
まあいい。誰かに何か言われたら、そのときに答えればいいだけの話だ。
教室の扉を開けて中に入ると、栞はすでに友達と一緒に自分の席で話をしていた。
「綿津見さん、おはよう」
「栞、おはよう」
朝も挨拶を交わしたばかりなのに、なんでここでまたわざわざ対面で挨拶を重ねるのだろう。
そう疑問に思った、まさにその瞬間。栞のグループの女子が、ガタッと激しく椅子を鳴らして立ち上がり、私を鋭く凝視してきた。
「いつから……」
ただならぬ気配を放つ彼女を特に気にする風でもなく、私は自分の席に座ろうとする。
しかし、それを遮るようにまた鋭い声が響いた。
「綿津見さんは、何時から栞ちゃんを呼び捨てにしてるわけ?」
「ずっとしてるけど。それが何か?」
同じクラスにいる以上はクラスメイトだとは思うけれど、どうしても彼女の名前が思い出せない。
「それが何かって、なんでそんな呼び捨てなんて……っ!?」
「あなたに許可が必要なの? 栞を呼び捨てにしたければすればいい。許可するのは彼女なんだし」
「だけど……!」
「貴女は誰の許可を得て、栞のことを栞ちゃんって呼んでるの?」
相手の目をじっと冷ややかに見据えながら言い返すと、彼女はなぜか今にも泣き出しそうな顔になって、私を強く睨み付けてきた。
「もういいから、綿津見さんもそれくらいにしてね。私のことは呼び捨てでもいいし、呼びたいように言えばいいから」
栞が、泣きそうな彼女の頭をなだめるように、よしよしと撫でている。
それを見ていると、なぜか胸の奥がチクッと不快に痛むのを感じてしまった。
「話はそれでいい?」
それにしても、今日は一体何なのだろう?
私が意識しすぎなのだろうか?
いや、やはり周囲からの視線はいつもよりあからさまで、うっとうしくて仕方がない。
栞が転入してきて以来、廊下からチラチラと彼女を覗き見している人がいるのは知っている。
けれど今日は、栞ではなくて私の方が完全にターゲットになって見られている気がしてならなかった。
その答えを知ることになったのは、始業式も無事に終わり、サッカー部の部活が始まったときだった。
私が部室を出て運動場へと足を踏み入れると、いつもより明らかにグラウンドのまわりの見学者が多い。
周囲の様子をチラリと盗み見てみたけれど、そこにはもう栞の姿はなかった。
きっと、すでに次の仕事に向かったのだろう。
心の中でだけ、そっと頑張ってねと呟いてみる。
次の休憩時間になったら、スマホで応援のメッセージでも送るのがいいかもしれない。
グラウンドを見渡すと、そこには男子サッカー部の前キャプテンである上野君の姿もあった。
彼は今、熱心にメディアの取材を受けている最中だったので、見学者が多いのもきっとそれが理由だろうと当たりをつける。
ふと、上野君がこちらに気づいて何かを言いそうな目配せをしてきた。
けれど、そんな視線ひとつで事情がわかるわけがない。
私はそのまま女子部のあるエリアの方へ向かおうとした。
だがその瞬間、大人たちがカメラやマイクをこれでもかと構えながら、一斉に私をめがけて迫ってきたのだ。
誰かが口々に何かを叫んでいる。
無機質なマイクが目の前に突き出された、まさにその瞬間だった。
私は急激な恐怖に襲われ、その場に激しく座り込んでしまった。
一体、何が起きているというのだろう。
自分の意思とは裏腹に身体がガタガタと震えだし、私はたまらず大声で泣き出してしまった。
それから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
誰かが私の肩にそっと触れてきて、身体がピクッと跳ねる。
「もう大丈夫だから」
耳元で、そんな優しい声が優しく鼓膜を揺らした。
恐る恐る顔を上げてみると、すぐそばに上野君が寄り添ってくれていた。
「もう大丈夫だ。あいつらは行ったよ」
私が不安になって周囲をキョロキョロと見回してみたけれど、確かに先ほどの記者たちの姿はどこにも見当たらない。
「……お前、記者が苦手なのか?」
「そんな感じ」
喉の奥から、そうとしか言葉が出てこなかった。
「上野君が取材されるのはわかるよ。高校選抜に選ばれたんでしょ?」
「まあな」
「じゃあ、なんで私にまで記者の人たちが押し寄せてくるの?」
「先月のプレシーズンマッチだ」
「ん?」
「お前、あの試合で大活躍しただろ」
「あれは唯さんやバニーのおかげ。私はただ、そのおこぼれを貰っただけだよ」
あの日の試合、私は相手の選手に何度も何度も徹底的に潰されていた。
結果として数字は残したけれど、あれは唯さんやバニーが前線で必死に動いてくれたおかげだ。
私はそのおこぼれを最後に押し込んだ、言わばプレゼントを受け取ったに過ぎない。
自分では本気でそう思っている。
「綿津見がどれだけ謙遜しても、残した結果は一ゴール、一アシストだ。特に前線の選手ってやつは、何よりも数字で評価を受けるからな。どんなに泥臭い形だろうが結果を出せば、一瞬でヒーローやヒロインになってしまうのがサッカーっていうスポーツだろ」
「そういうものなんだ」
フォワードというポジションに求められるのが、どんな状況であろうとも泥臭く点を取ることだというのは理解できる。
けれど、シティとレアルの戦いに立つような本物の選手たちなら、あれくらいのプレーは出来て当然なのだ。
私はたまたま運がよかっただけに過ぎないし、本来ならあのプレシーズンマッチの試合にだって、出場することすら叶わなかったはずである。
すべては、監督との賭けの勝負に私が勝って、無理やり手に入れただけの出場機会なのだから。
「納得いってない、って顔をしてるな」
「私?」
「ここ数か月でお前の表情、ずいぶん豊かになったからさ。見ただけでなんとなくわかるよ」
「変わってないです」
「霧生と出会ってから、色々と変わったよ。俺は今のお前の方が断然いいと思うけどな」
上野君は、これまでの付き合いの中で一番と言えるほどの爽やかな笑顔を浮かべて、そう言ってくれた。
私は、他人の目に映るほどそんなに変わってしまったのだろうか。
「綿津見、安心しろ」
「安心?」
「俺たち高校生がメディアのインタビューを受けるには、ちゃんとしたルールが存在するんだ」
「ルール?」
上野君が語る説明を、私はただオウム返しのように聞き返す。
「高校生である以上、公式なインタビューを受ける場合には、必ず保護者か所属する団体の許可を得る必要があるんだよ。今回のケースだと、女子サッカー部の顧問だな」
そんな厳密な決まり事は初めて知った。
マスコミという存在は、こちらの事情などお構いなしに何でも力ずくで聞いてくるものだとばかり思っていたのだ。
あの忌まわしい事件の後、たくさんの大人たちが歪んだ笑顔でカメラを向けてきて。
当時の凄惨な記憶が脳裏にフラッシュバックした瞬間、急激な吐き気が込み上げてきた。
気持ち悪さに耐えかねて、私はその場にぎゅっと身を縮めてうずくまってしまう。
そんな私の異変を察した上野君が、すぐさま茶髪のポニーテールを揺らした女子サッカー部員を大声で呼び寄せた。
私をトイレと保健室に連れていくようにと、的確に指示を出してくれる。
「綿津見さん、大丈夫?」
「迷惑かけた。ごめん」
「部員はみんな事情を知っているから、そんなに気にしないで」
「ごめん」
「もう、何で謝るの? そりゃあ、最初はみんな少しは嫉妬もしたよ。でもあの試合を見てさ、何度も激しく吹き飛ばされても絶対に立ち上がってボールに向かう綿津見さんを見て、みんな本気で応援してたんだから」
「そうなんだ」
名前も知らない部員だけど、本当に申し訳ない。
これから少しずつ、このチームのみんなの名前と顔を一致させていこう。
サッカーは確かに個人技や、ときには我を通すエゴも必要とされる。
けれど、それ以上にチームスポーツだということを決して忘れてはならない。
それは、私の胸の奥に深く刻まれている、唯さんのアドバイスノートに書いてあった大切な言葉だった。
「これからも部活には来るの?」
「迷惑にならないのなら、今まで以上に参加はしたいかな。……公式の試合には出られないんだけどね」
「――それ、訊いてもいいのかな?」
彼女は茶髪のポニーテールを揺らしながら、おずおずとそう尋ねてきた。
「答えられる範囲のことなら、別に構わないよ」
「何で試合に出られないの? これ、以前から部員みんなでずっと思っていたことなんだ。男子を圧倒するほどの実力を持った選手なのに、先生が頑なに試合に出さないなんて絶対におかしいよ」
「先生を悪く言わないで。あくまで私の都合で出られないだけだから。……詳しい内容は言えないんだけどね」
「うん……」
私の言葉に納得がいっていないようで、彼女は口をプクッと膨らませながら、不満そうに私の話を聞いていた。
「じゃあ、あの唯さんが直々に部活に来たのも、やっぱり綿津見さんが目当てだったの?」
「それはどうだろう。唯さんが上野先輩の幼馴染で、元々は唯さんが先輩にサッカーを教えたらしいんだ。オフの期間にたまたま帰国しているタイミングを狙って、先輩が直接お願いしてくれたんじゃないかな」
「でも」
「先輩は本当に後輩思いの人だから、自分が引退する前に、私たちに何か大きなものを残したかったのかもね」
ただ、上野先輩が唯さんにお願いをしたということ自体は本当みたいだけれど、実際の細かい経緯までは私にもわからない。
「だったらさ、今度みんなにサッカーを教えてよ」
「うん。向こうで教えてもらった練習方法でよければ、みんなに教えるね」
本当にうまく教えられるかどうかはわからないけれど、シティの練習メニューから、何か役立ちそうなものをいくつかピックアップして教えればいいだろう。
そんな会話を交わしながら、私はトイレを済ませて保健室へと移動し、静かに身体を休めた。
しばらくして時計に目をやると、部活動の時間はすっかり終わりを迎えている。
私は職員室へと足を運び、対応してくれた先生にお礼を言ってから学校を出た。
栞は、もう今日の仕事が終わっただろうか。
結局、部活の休憩中も体調を崩してメールが出来ずじまいだった。
ひとまず買い出しを済ませて、家に帰ったらゆっくりとメッセージを送ることにしよう。
すっかり日が落ちてあたりが薄暗くなってきた空の下、私はスーパーに立ち寄ってから、自分の家へと戻った。
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