3部完 52話 Liebe 貴女に合って私の世界に色が付き世界が広がった
学校の準備を終わらせ、朝のご飯の用意も全て整えた。
そう思った時だった。廊下の向こう、栞の部屋のドアが開く音に続いて、バタバタと玄関が開閉する音が聞こえる。
そのまま、廊下越しに栞と水無月さんの朝の挨拶が聴こえてくる。
このやり取りも今日で最後なんだと思うとなんだか感傷的になりそうだった。
このマンションに来る前迄の私だったら何も感じなかったんだろうと思う。
少しだけ何やら小声で話をしているようだので、温かい紅茶を淹れてテーブルに置いた瞬間にリビングのドアが開いた。
「おはよう、綾さん」
「綾さん、おはようございます」
リビングに入ってきたのは、いつも通り制服を着た栞と、きっちりとしたスーツ姿の水無月さんだった。
お互いに指定の席に座り、無言でご飯を食べている時だった。
「話は栞から聞きました。綾さんにも一応ね。節度ある関係でいてくれたらいいから」
「いいんですか?」
秋子さんの突然の言葉に、私は箸を止めて聞き返した。
「本当は難しいところだけど、こればかりは仕方のないことだからね」
「秋子さん!」
栞が顔を赤くして非難めいて名前を呼んでいるけれど、秋子さんの言う通り人気女優だから仕方がないとは思う。
もし霧生栞に恋人が出来て、しかもそのお相手が女子高生だなんて世間にばれたら、取り返しのつかない大スキャンダルになってしまう。
「とりあえずは仲のいい感じでいてくれたらいいとは思うわ。栞がどれだけ暴走しても、綾さんはそこまで変わらないと思うしね」
「私だってそこまでバカじゃないよ」
栞は不満そうに唇を尖らせる。
「二人とも異性だったら、多分私は大反対をしていると思う。お互いにとって今が一番大事な時期だしね。でも、同性だからと言って恋愛脳に侵されて、やるべき事をないがしろにしてたら容赦しないわよ。栞には、この学校をやめてもらうし、唯にも連絡して、向こうのプロチームにも話が届くようにしておきますから」
「秋子さん横暴だよ!」
「わかりました。唯さんも言ってました。恋愛にはまっちゃって、そればかりになって選手生命を棒に振った人を何人も見てきたと。そうならないように、しっかりと自分を律してやっていきます」
「了解よ」
水無月さんは何事も無かったかのように、綺麗に澄んだ紅茶を静かに喉へと流し込んでいた。
食事が終わり、私は水無月さんに二つの包みを渡した。
「これ、お二人のお昼の弁当です。夜の分は、カレーを冷蔵庫に入れておいたので、レンジでチンして食べてください」
「……え、お弁当、私への手渡しじゃないの?」
栞が隣からあからさまにショックを受けたような声を出す。
「当分、学校には直接お弁当を持っていく必要は無いから」
「そうだけどさぁ……」
彼女が一体何に対して不満を抱いているのか、私には全く理解が出来なかった。
恋人として受け入れると決めた以上、これからこういう栞の意味不明な行動やこだわりも、一つずつ理解できるように頑張らないといけないのかな、と少しだけ気が遠くなる。
それから、私たちはマンションの地下駐車場に停めてあった水無月さんの車に乗り込んだ。
学校に向かってもらう途中で、私が今まで暮らしていたあのアパートの前に寄ってもらい、そこで二人と別れた。
車が走り去るのを静かに見送ってから、階段を上る。
約一か月半ぶりに足を踏み入れた、自分の部屋を見て少しだけ驚いてしまった。
なぜなら部屋の中に入った瞬間、部屋のすべてが酷く狭く感じられたから。
その狭さは、私の今までの世界の広さそのものにも感じた。
栞と出会って、私の世界は大きく広がった。
今までは、自分の人生なんてどうでもいいと思い込んでいた。
だけど今は、一人ではない。
これからは栞を含めて、私の背中を押してくれたたくさんの大切な人たちが居る。
その人たちの期待に応えるためにも、必死であがいて頑張ろう。
私は、背負ってきた自分の荷物を部屋の隅に静かに置き、ぽつりと呟いた。
「さぁ、進もう」
誰に聞かせるでもない、決意の一人ごとが狭い部屋に小さく響く。
彼女との関係も、大好きなサッカーのことも、すべてを全力でやり遂げて前へと進もう。
私なんかにも、幸せを望んでもいいんだとはっきり言ってくれた、あの愛しい人の為に。
そして何より、私自身のために、これからは一生懸命に自分の足で歩いて行こう。
今まで見向きもしなかった、過去の自分をしっかりと抱え込んで、一緒に前を向いて歩いて行こう。
もう、私一人ではないのだから。
これからは私の隣に、彼女も一緒に歩んでくれるのだから。
灰色の世界にポツンと居た孤独な少女は、偶像の少女に出会って、閉ざされていた世界に鮮やかな色が付き、止まっていた時間を再び刻み始めた。
きっとこの二人は、お互いの目指す世界でうまく行き、お互い同士もこれ以上に深く惹かれ合い、たくさんの幸せを……。
三部、完。
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