51話A 栞に対する返事
こんな緊張をするノックはいつ以来だろう。
ムーンシティの監督室に入った時とは、また違う異質な感じがする。
今から私は彼女に返事をする。
この返事によっては、これからの栞との関係が変わるし、以前の関係には戻れないことは分かっている。
私にその決意があるのだろうか。
指先をドアに当てる瞬間の迷いを見透かされたかのように、ノックをした瞬間、栞からすぐに「綾さんでしょ。入ってきて」と言われてしまった。
私が返事に来ることを多分彼女もわかってたのかもしれない。
彼女の声に背中を押され、私はドアノブを回して中に入った。
部屋の明かりの下、彼女は鮮やかな青色の寝間着姿で私を招き入れてくれた。
流石に第一線で活躍する女優だけあって姿勢がどこまでも綺麗で、ただのパジャマなのに完璧に着こなしているって感じがする。
「こんな夜遅くに済まない」
「夜遅いって言ってもまだ二十二時だよ」
「明日から学校が始まるしね。午後から仕事でしょ?」
ハウスキーパーをしていたため彼女のスケジュールは頭には入っていたけど、一応確認のため聞いてみた。
「うん。始業式終わったらその足でスタジオ入りだよ」
「歌だっけ?」
「そうそう。今回のドラマの主題歌を歌わせてもらう事になったんだよね」
「栞はすごいね」
「何が?」
不思議そうに小首を傾げる彼女を前にしていてどれだけ凄い事をしているのか気づいてないんだなぁと思った。
彼女らしいと言えば彼女らしいかも。
学校や芸能界の仕事もしっかり両立させていて、この家に来てすぐ暮らすようになってから初めて知った事だけど、女優だからドラマは当たり前だけど、バラエティの収録に歌手、そしてたまに情報番組にまで生出演している。
私からすれば、学校のほかにサッカーをして、野球をして、さらにバスケやバレーを同時に一線級でプレイしている感じがする。
そしてその全ての場所で、たくさん人に喜ばれているんだから本当にすごいと思う。
私の出す返事で、ただでさえ多忙な栞の負担が増えるのではないのか。栞の真っ直ぐな顔を見てたら、私の言おうとした決意が今にも吹き飛びそうになる。
でも、返事をしないで、このままの関係を続けるなんて出来るはずが無い。
私はこの間、あの時はぐらかすこともできたのに、私から深いところまで踏み込んでしまった。
自分の意思で行動をした以上、その後に訪れる結果の事は、いいも悪いもしっかりと最後まで後始末をしないといけない。
栞は私をベッドの端へ座るように勧めてくれた。
彼女はそのまま勉強机の椅子を引いて、腰掛ける感じだった。
あの時と真逆の立ち位置だなぁと思ってしまった。
「綾さんがそう言う風に考えこむなんて、珍しいよね」
「私だって、考えることだってあるよ」
椅子に深く腰掛けた栞が、面白そうに目を細めて私を見てくる。
失礼だよね。
まったく本当に、彼女は私を何だと思っているんだろうか。
「出会った頃の綾さんだったら、「気にしない」というか、「関係ない」と言ってたよ」
「それ人間じゃないでしょ」
さすがに私は、そこまでたんぱくじゃない。
「でも結構返事は、「知らない」か「興味もない」の一点張りだったし、私が倒れて見つけた時も何も聞かなかったでしょ」
「あれは、人それぞれ事情があったと思うし、お酒の匂いとかもなかったから、大事な事があったと思ったわけだし、あったばかりの人間がずかずか聞くのも違うでしょ」
私は一体、何に対してこんな言い訳をしているんだろう。
そうじゃない。きちんとこれからの話をしないといけないのに、今までのこの何気ないやり取りが、どこか気持ちがいい。
このままずっとこうしていたいとさえ思う。
本当に今、返事をしていいのだろうか?
「このまま話をしていてもさ。私は嬉しいからいいんだけどね、夏休み最後だからパジャマパーティー的なお話会って言うのは綾さんらしくないしね」
パジャマパーティって何?
え? パジャマを着たらもう寝るだけでしょ?
なんでパジャマを着てわざわざ騒ぎ出すの?
「パジャマパーティが何って言う顔してる。もう綾さんらしい」
そう言いながら、栞はコロコロと鈴の鳴るような声で笑い出した。
何がそんなに楽しいんやら、私にはさっぱり分からない。
「パジャマパーティって、友人宅でパジャマを着ながらお菓子を食べながらおしゃべりをしたり、映画鑑賞をしたりして夜更かしするんだよ」
「同じマンションで今は暮らしているから、それやる意味あるの?」
全く意味ないでしょ? 何でそんな意味がない事をわざわざやろうとするのか理解できない。
「もうそれでいいよ。綾さんが、話しにくい顔をしているのは、返事の事だよね?」
「うん」
私が自分から言わなければいけないのに、結局は栞が、口火を切ってくれた。
「一つだけね。約束があるんだけど」
約束、という強い言葉に心臓がドキッとした。
もし断ったらもう赤の他人、とでも言われるのだろうか。
そりゃそうだね。
告白を断った相手と一緒にいるのは、きっと苦しいだろうし。
「私はどんな結果だろうが、今までとなるべく同じ関係でいたい。友達として。綾さんもそうしてほしいな」
「でもそれじゃ、栞が苦しいでしょ?」
告白を断った相手と友人のままでいたいというのは、絶対に辛いでしょ。
恋愛感情というものがよくわからない私でも、それぐらいの理屈はわかる。
でも栞は、私がどんな判断をしても、今まで通りでいたいって言ってくれた。
本当にこの子は、すごく優しいと思う。
なんで他人に興味がない私なんかに、ここまで真っ直ぐに構うんだろう。
今度、その理由を聞いてみたいとも思ってしまう。
「苦しいと思うけどね」
彼女はそう言って、ほんの少し困ったような苦笑いをしてかえしてくれた。
「断られる前提での話になっちゃうんだけどね。それでも綾さんと友達でいたいんだよね。こんなこと言うと、断りにくくなっちゃうよね」
栞の顔が、今にも泣きそうになっているのがわかる。
お芝居をする俳優さんは、自由自在に自分の意思で表情を変えられるという。
彼女の表情には全くそれが出ていないのはさすがにトップ女優だとは思う。
だけど、私には、彼女が心の中で今にも泣きそうになっているのが非常にわかってしまう。
「栞がどんな気持ちでそう言った事は、このさい置いておくよ。私は決断を変えるつもりはないから」
「本当に綾さんらしい」
「嘘偽っても意味がないから」
「うん。それでいいよ」
栞は、なんだかもう私が、言う言葉を勝手に判断をしている感じだった。
完全にフラれる側のセリフだと思い込んで、諦めたように小さく息を吐き出す。
「勝手に判断をしないで?」
「違うの?」
「私が言う前に勝手に判断するなと言ったの」
「うん」
なんだか栞が、納得いってない感じがするけど、もう言っちゃおう。
早く言わないと、また同じ話の堂々巡りになるのは目に見えていた。
「私は栞の返事に来ました」
「うん」
「条件付きで私は栞を受け入れるよ」
「うそ」
栞の目が限界まで見開かれた。
「ここまで来て嘘言っても仕方ないでしょ?」
「うん……だって、今の流れって断る前提の話じゃん」
「だから条件付きって言ったでしょ」
普通にただ受け入れるんだったら、あんな前ぶりは必要ない。
けれど私には、これが必要な手続きだと思う。
栞が私を求めてくれた気持ちそのものは、純粋にうれしかった。
女性同士でそういう行為をしたいという衝動は、私にはまだよく分からない。
けれど、生き物として性欲が存在する以上、そういう気持ちが湧き上がってくるのも仕方ない事なのかな、とも思う。
そういう行為というのは、他人の身体と一番ダイレクトに繋がっている状態の事だから。
唯さんにも相談して、自分なりに深く考え抜いた上で、私はあえて「条件付き」という言葉を選んだ。
「条件って何? 毎月お金を50万欲しいとか?」
「それ詐欺だから。お金が目的でそんな事は言わないよ」
「知ってる」
全く、本当に私を何だと思っているのか。
「栞の事は気になるのは本当なんだ。親善試合の前、栞からメールがこなくて不安になった」
私は、あのイングランドでの事を思い出して、自分の本心をまっすぐに打ち明けた。
前日まで何度もラリーが続いていたやり取りが、突然途絶えてしまったあの時間。もちろん栞の仕事が忙しくて、メールを返す気力すら無かったのかもしれない。
けれど、私はスマホの画面を見つめながら、すごく不安だった。もしかしたら、初めての大きな試合を前にして、自分でも気づかないうちに緊張していたせいもあったかもしれないけれど。
「あれは……ヤキモチなんだよ」
「ヤキモチ?」
そんな嫉妬を焼くような心当たりなんて、私には無かった。
「イングランドにわたった綾さんは、凄く楽しそうだった。チームメンバーと笑いながらとか、バーでのお客さんとの笑顔とか……私が見たことのない綾さんだったから」
そうだったんだ、と私は小さく瞬きをした。
私はてっきり、あまりにも仕事が忙しいからスマホに手が付けられない状態なのだとばかり思い込んでいた。
「話を戻すね。私は栞みたいに、人を愛するっていう事がいまいちわからないの。もしここで栞が、私を抱きたいと言ったら、どうぞって言っちゃうかもしれない」
「ダメでしょ。そんなの」
栞は顔を真っ赤にして、そんな風に自分を安売りしちゃダメだというように抗議してくる。
けれど、今まで彼女が私に注いでくれたたくさんの恩義を思うと、私に返せるものはこの身体しかないから、求めてくれるならいつでも差し出すよと言えてしまうのだ。
「そんな事は望んでないんだよね。抱きたい気持ちがあるのは認める。でもね。そういう抱きたいじゃなくて、えっと……」
「栞の言いたいことはわかるつもりだよ。友人と恋人の違いって何だろうと思ったら、体の関係がある無しじゃないかと思ったの」
「それは極端すぎだよ」
呆れたように肩をすくめる栞を見て、私は膝の上で視線を落とした。
そうは言うけれど、では本当の違いって何なのだろう?
友達と映画や買い物に行くのと、デートで映画や買い物に行く違いは何?。
恋人だと胸の内の気持ちが違うのだろうか?
それは、ただの人の心理が起こす錯覚に過ぎないのではないか。
だから恋人になりたいと言われても、今の私にはよく分からない。
それでも、自分を特別だと言ってくれた栞の気持ちは、純粋に嬉しかった。
そんな何もわからない私でもいいのなら、私は彼女を受け入れたいと思った。
「今は友達以上恋人未満の中途半端に聞こえるかもしれないけれど、それでいいのなら」
「それでもうれしい。私はてっきり断られると思ったから」
栞の大きな瞳から、今度こそ我慢しきれなくなった涙がポロポロと零れ落ちる。
「私に、愛というのを教えて欲しい。私の愛する人は霧生栞だと、自分自身でちゃんとわかるようにしてほしいんだ」
本当は、そんなものは、誰かに教わるものではなくて、自分自身で見つけないといけないことくらい分かっている。
私も努力はしてみるつもりだ。
けれど、そのための手助けを大好きな彼女に欲しいと願うのは、いけない事なんだろうか。
「教えられる物じゃないけどね。それでも、綾さんが納得できるように私も努力はしてみるよ」
涙を指先で拭いながら、彼女は愛おしそうに微笑んだ。
「えっと、不束者ですけどよろしくお願いします」
私がベッドの上で丁寧にお辞儀をすると、栞は涙を浮かべたまま、今度はお腹を抱えるようにして笑い出した。
「それちがうやつ! それ結婚でお嫁さんが言うセリフじゃん」
「そうなの? 普通はこういう時に言う挨拶だと思ったから」
「本当に綾さんらしい。とりあえずはいつも通りだね。でも、ファーストキスの責任は取ってもらわないと」
「キスって、お仕事の演技で何度もしているでしょ?」
「してないってば! あれはそういう風に見せてるだけ。本物の恋人や夫婦で共演しているんだったらあり得るかもしれないけどね」
「そうだったんだ」
私はてっきり、テレビの向こうのキスくらいは実際にしているものだとばかり思っていた。
「なら、ベッドシーンは?」
「あれも全部演出。本当にはしてないって。昔は本当に大変だったみたいだけど、今はそういうの厳しいから絶対にないから!」
「そうだったんだ。本当にしていると思ってた」
「それじゃただの公開エロだよ。ありえないってば」
さっきまでの張り詰めた涙はどこへやら、栞はベッドの横の椅子で楽しそうにケラケラと笑っている。
もし本当に本番をしているのだとしたら、それだけすべてをかけていると思ってはいた。
そう言う風に見せるからやはりカメラマンも俳優も本当にすごいんだなと改めて感じてしまった。
こうして、私たちは晴れて一応は恋人同士になったわけだけれど。
明日からの日常の中で、私は一体、何をすればいいのだろうか。
「ならさ、このまま一緒に暮らすのは?」
「それは駄目。けじめはつけないと。栞は仕事があるし、私もサッカーがあるよ。きっと一緒に居たら、お互いの大事なものをないがしろにすると思う」
私が即座に拒むと、栞はしゅんとした子犬のような目をして私をじっと見つめてくる。
本当に質が悪い。出会った頃の私なら迷わず無視していただろうに、今の私には振り払えるはずが無かった。
このまま甘い環境にずるずると居続けたら、私はきっと栞に依存してしまう。
どんどん彼女しか見えなくなって、結果的に大きな負担をかけてしまうのは目に見えていた。
「はぁ~。なら一つだけ約束してあげる」
「なに?」
「学校のお昼の弁当は作ってあげる。一緒には食べてあげられないけどね」
「なんで?」
「友達いるでしょ」
「だけど……」
「私は栞の学校生活に波を立てたくはない。きっと私が場に入ると荒れるから」
「でも、弁当作って渡したらばれるでしょ」
「それも考えてるから多分大丈夫」
「教えて」
「いや」
身を乗り出して訊ねてくる彼女の追及を、私はばっさりと却下した。
「恋人っぽい事はそれぐらいしかできないけど、今はそれで納得してくれると嬉しい」
「うん」
栞は不満そうに唇を尖らせてベッドの上で小さく頷く。
なんか残念そうにしているけれど、私の方だってこれ以上のことをする余裕はない。
どういう風に行動すれば「恋人」として正しいのか、さっぱり分からないからだ。
でも、そもそもお弁当を作って渡す行為自体、かなり恋人っぽくないだろうか。
もし周囲に見つかってやっかみが私に来るだけなら別にいい。
けれど、この世の中には可愛さ余って憎さ百倍という言葉がある。
ファンや周囲の嫉妬の刃が、栞に少しでも向くのだけは私が嫌だから、これだけは絶対に納得をしてもらう必要があった。
ふと見ると、栞はまだ名残惜しそうに肩をすくめて寂しそうな顔をしている。
私はベッドの横から少しだけ身を屈め、彼女のぷにぷにしている柔らかいほっぺにそっと唇を寄せた。
ちゅ、と小さな音が静かな部屋に落ちる。
「お休みのキスだよ」
突然のことに栞は目を丸くして、完全に呆然と固まっていた。
私はそんな彼女を視線に収めながら、部屋のドアを開けてゆっくりと外へ出ていった。
廊下を進みながら、自分の思考がふわりと宙に浮く。
栞が、私の彼女なのか。
私も女なんだけど、その場合は彼女と彼女になるのかな。
イングランドに行く来年までに、まずは日本で少しは部活に顔を出して、自分の身体を徹底的に鍛え直さないといけないね。
そして栞ともなるべく一緒に居られる時間を作れるように頑張ろう。
私はそう思いながら自分の部屋へ戻った。
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