49話 相談
目を覚ましてスマホの時間を見ると朝の6時だった。
今日は栞の仕事が無い日なので、まだ寝ていても大丈夫だろうと思って、マンチェスターの唯さんへメールを送った。
『今お時間良いですか?』
送信ボタンを押してから数分と経たずに返事が届く。
『いいよ』
最近になってようやく手に入れたものだけれど、スマホの機能には今でも驚かされることが多い。
特に、特定のアプリを使えば無料でいくらでも通話ができる仕組みは、初めて知ったときは本当に衝撃だった。
「なんで綾さんはスマホを持たないの?」
「余分なお金使うでしょ。必要ないし」
「でも私とつながってれば、緊急なとき通話出来るじゃん」
「栞、通話するときには通話料っていうのがかかるんだよ。固定電話より高いんだから、それならメールで十分でしょ」
「えっと……? 綾さんもしかして、無料通話アプリを知らないの?」
「無料で通話できるわけないでしょ。どこから通信会社が利益を出すの?」
そこから一時間近くかけて仕組みを丁寧に教えてもらい、私の常識は完全に覆された。
最初はてっきりからかわれているのかと思ったけれど、すべてが事実だと理解したときは、自分の無知さにただ呆然とするしかなかった。
アプリ画面を操作して、すぐに無料通話のボタンをタップした。
コール音が鳴り響くと同時に、先方は待っていたかのようにすぐ電話を取ってくれた。
「お久しぶりです」
「おひさ、綾ちゃん。ノートでわからないところがあった? こんな朝早くかけてくれてさ」
「こちらでは六時だけど、マンチェスターは二十一時ぐらいですよね」
「流石に私のライフスケジュールを知っているだけあるね。どうしたの?」
いつものハキハキとした口調が、スピーカー越しにすぐ近くで聞こえる。
私はベッドの端に座り直した。
「サッカーの話ではないから、迷惑かもしれませんが」
「気にしなくていいよ。誰かに告白でもされた?」
不意を突かれた。
唯さんからそう言われて、私の身体がびくっと大きく跳ねた。
何でそれを知っているのだろうか。
まさかマンチェスターから、昨夜の私の部屋を覗き見しているわけでもないのに、心臓の鼓動が一気に速くなった。
「その反応からするとビンゴだね。相手は、俊ではなくて、栞ちゃんから?」
「何でそれを?」
「見てればわかるし。どうしたの?」
「どうしていいかわからなくて」
耳元から聞こえる唯さんの確信に満ちた声に、私はただ圧倒される。
これが世界最高と言われる司令塔の洞察力なのかな。
受話口から漏れる笑い声に促されるように、私はスマホを握りしめ、昨晩の出来事を最初から順に追って説明をした。
「栞ちゃん可愛そうに」
すべてを吐き出すと、スピーカーの向こうの唯さんは急にケタケタと笑い出した。
可愛そう、と私は首を傾げる。
あのレズ動画を私が偶然知ってしまったため、栞が恥ずかしそうにしていたからだろうか?
「好きな相手にその相手似のでビデオが見つかって、話の流れで服の中に手を突っ込まれて、告白を攻められたってかわいそうでしかないでしょ」
「はぐらかされそうだったから、別に胸触らせるぐらいでしたし、逃げれなくなると思って」
思ったことをそのまま口にしただけなのに、そんなに必要なのかな?
ムードなんて無くても自分の気持ちを言うだけなら同じだと思うのに、唯さんまで呆れたように言う。
「ごめん。それで相談って?」
「だから」
これからどうしたらいいのか、それが知りたくて電話をしたのだ。
「人の事を考える前に綾ちゃんはどうしたいの?」
「私ですか?」
「栞ちゃんの仕事だとか、世間体とか、もし付き合ったとしたら、来年以降は長距離もいいところの恋愛になる。そんな事は一端は、置いておいて綾ちゃんの気持ちは?」
問いかけが、スマホの画面を越えて私の胸の奥へと深く刺さる。
私は、どうなんだろう。自分で自分の気持ちがよく分からない。
「そういう邪魔なものは全部取ってさ。どうしたいの? サッカーもそうでしょ。縁があったとは思うけど、こちらでやれる可能性が出てきた。こちらに来ていなくても今までは、試合にも出られなくても日本でずっとサッカーをしていたのはなぜ?」
「好きだったから、誰に言われても、公式試合に出られなくてもボールをけっていたかったから」
「同じだよ。綾ちゃんが栞ちゃんをどう思っているか。どうしたいかを考えなさい。綾ちゃんが考えているのは、その後だよ。環境だとかそういうのはね」
「はい」
唯さんの言葉が受話口から鼓膜へ真っ直ぐに届く。
母が父を殺して自ら命を絶ったあの日の光景。
当時、私は一回だけ八歳以下の代表に選ばれる可能性があった。
だけどあの事件を知った協会の人たちの考えで、全てが白紙になり、幼い心ながらに私は理解したのだ。自分はもう、サッカーの公式試合には出られないかもしれないと。
それでも公式試合に出られない日々のなかで、ボールを蹴っている瞬間だけは本当に楽しかった。
小学四年生になる頃には、自分から先生に事情を話し、公式試合には出ませんと伝えた。
後から大事になって周囲に迷惑をかけたくなかったから、高校の顧問の先生にもケースワーカーの人たちを通じてその事を事前に伝えてもらっていた。
ただボールを蹴りたくて続けてきた。それと同じことなのだと、唯さんは言ってくれた。
「栞ちゃんの事を考えるのは、綾ちゃんが、それだけ優しいからって言うのもあるんだけどね」
「栞の事は、嫌いではないと思います。でも」
スマホを握る指先に少しだけ力が入る。
「でもか……サッカーだと、何回吹き飛ばされてもゴールにどん欲なのにね。全く。良いんじゃないの同性だろうか。仕方ないしね」
「そんな単純で良いのですか?」
思わず聞き返すと、スピーカーの向こうから唯さんの短い笑い声が漏れた。
「いいんじゃない? マンチェスターにも同性愛者や両性愛者も多いしね。仕方無いんじゃない。男だから好き、女だから好きじゃなくて、その人が好きってなったらさ」
「唯さんにもそういう人がいるのですか?」
「さぁ? どうだろうね。私の場合は、バロンドールを取るために頑張ることで、恋愛は二の次かな。綾ちゃんはいいんじゃない。恋愛に溺れてサッカーをないがしろにするタイプじゃないし」
「どういう事ですか?」
「恋愛にはまっちゃって、そればかりになってサッカーは二の次で自滅する選手を何人も見てきたしね」
「そうなんですね」
原始的欲求だから仕方ないのかもしれない。
私はどうしたいのか、もう少し考えてみたいと思ってしまった。
「来年には、うちに来ることをチームのみんな楽しみにしてるよ」
「その前に、冬休み遊びに行きます。監督が絶対に招待するって言ってましたから」
「私達も成長してるから、同じ実力だったらトップで練習させてもらえないかもしれないよ」
「頑張ります。それに私が活躍できたのは、皆さんがフォローしてくれたからですよ。あの試合のビデオを見てあらためて思いましたから」
「その後のアダルトビデオと同時に」
唯さんは受話口の向こうで笑いながらそう言ってきた。
そうですけどね、と私は内心で小さく苦笑いを浮かべる。
「相談にはのるけど、決めるのは綾ちゃんだからね。忘れないで」
「はい、ありがとうございます。こんな深夜なのに、相談に乗ってくれて」
「いいよ。またね」
「はい」
通話が切れて静寂が戻る。時計の画面を見ると、まだ三〇分ぐらいしかたってはいなかった。
ベッドから立ち上がり、スマホをポケットに滑り込ませる。
そろそろ朝の準備をはじめないと、栞が起きてきちゃう。
まだ冷えた廊下を踏んで、私は朝食を作るためにキッチンへと向かった。
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