48話S 綾さんの返事
「綾さん。まだ起きてる?」
返事を待つ間、ドアノブに添えた指先が冷たく強張っていった。
尋常ではない自分の脈が、静かな廊下に響いているようにさえ思えてしまった。
数々の大舞台やオーディションを経験してきたけれど、それらのどれよりも今が一番緊張しているかもしれない。
「起きてるから、入ってきていいよ」
中から届いた落ち着いた声に背中を押され、ゆっくりとドアを開けた。
部屋の主照明は消されていて、勉強机の小さなスタンドライトだけが灯っている。
その明かりのもとで、綾さんはノートを広げて読んでいたようだった。
暗がりの自室から机の光に照らされて振り返る彼女の姿を見つめながら、おずおずと中に足を踏み入れる。
本人には自覚がないとは思うけれど、本当に絵になる人だなって思う。
「どうしたの?」
「……話があって」
下を向いたまま、どうにかそれだけの言葉を絞り出した。
話したいことは山ほどあるのに、肝心の切り出し方が全く見つからない。
「私は貴女の事を異性と同じように好きです」だなんて、そんな突拍子もない言葉をこの場でいきなり口にできるわけがなかった。
「話だったら、リビングに行く?」
「ここでも……いいよ」
「わかった。じゃあ、そこに置いてあるベッドにでも座って。その間に、何か冷たい飲み物でも持ってくるから」
差し出された言葉に素直に頷き、マットレスの端へ遠慮がちに腰を下ろした。
パタンと静かにドアが閉まり、綾さんが部屋を出て行ってしまう。
彼女がキッチンへ足を運ぶくらいなら、最初からリビングルームのソファで待っていた方がよかったのかもしれない。
けれど、そんな後悔すら、すぐに別の思考にかき消されていった。
ふわりと、鼻をくすぐる独特の匂いがしてきた。
綾さんの香りが漂っているこの部屋で、私の理性は最後まで保ってくれるのだろうか。
そう考えた途端に、顔から火が出そうなほどの恥ずかしさと、どこか後ろめたい気持ちが同時に押し寄せ、身体の震えがさらに強くなってしまった。
カチャ、と廊下からドアノブの回る音が聞こえて、思わず肩がびくりと跳ねる。
「これでよかった?」
「……ミルクティー? ありがとう、綾さん」
「蜂蜜入りだけどね」
「うん……」
手渡された結露するグラスを受け取り、熱を帯びた喉へと一口滑り込ませた。
ほんのりと広がるハチミツの優しい甘さが、冷たくて美味しい。
だけど、ここからどう切り出せばいい。
薄暗い室内を満たすのは、冷房のかすかな稼働音だけ。すぐ近くの椅子に腰掛けた綾さんから、またあのいい香りがふわりと届いて、それだけで頭がおかしくなりそうだった。
駄目だ、早く言わなきゃ。
自分から「話がある」と言って部屋に押し掛けておいて、焦りばかりが募り、沈黙の重さに息が詰まりそうになっていた、その時だった。
「栞はさ……私に、何を求めているの?」
「どういう事?」
その直球の質問に、心臓が痛いほど跳ね上がる。
それどころか、目の前の綾さんは躊躇わずに左手を背中へと回し、指先でブラのホックをパチンと外した。
静かな部屋に小さな音が響くと同時に、私の右手首が容赦なく掴まれてしまった。
彼女自身のトップスの裾から、遮るもののなくなった服の中へと一気に引き込まれた。
手のひらに直接、驚くほど熱くて柔らかい綾さんの肌が触れる。
あまりの情報量の多さで、頭が真っ白になってしまった。
彼女の指先に手首を固定されたまま、弾力のある生のおっぱいを直に、強く握りしめてしまう。
指の隙間から溢れる肉の生々しい柔らかさと、手のひらを直に叩く彼女の心臓の強い鼓動に、もう何が何だか分からなくなっていった。
「違う」
本当は違うなんて言いたくないのに、唇が勝手に拒絶の言葉を漏らしていた。
「ならなんで、私似の女優と栞に似た女優のエッチなビデオを見てたの?」
「見たの?」
自分の声が激しく震えた。
あの最悪な秘密のビデオを、よりによって綾さんに見られていたなんて。
あれは彼女が、イングランドに行ってから偶然見つけたものだから、私が見ていたのは帰国してからのこと。
どうしよう、完璧に変だと思われている。
頭の中で最悪の否定がどんどん出てきて、恥ずかしいのを通り越して今すぐここから逃げ出したい。
なのに、足がすくんで一歩も動けなかった。
もし、このまま綾さんに嫌われて拒絶されたらどうしよう。
体温がみるみる上がっていくのが分かり、頭も完全にパニックを起こして、もうどうしていいのか分からなくなってしまった。
「トレイを開こうとしたら間違って再生しちゃって。この間のプレオープンの試合だったから見てたら、試合終わったと同時に……」
「あれ……は……」
言葉が詰まった。もう耳まで真っ赤になっているのが、自分でも痛いほど分かる。
全身の震えが止まらなくて、私の手のひらを通じて綾さんの胸が小刻みに揺れていた。
柔らかくてすごく気持ちがいい。
なんて、そんなことを考えている場合じゃないのに。
どうしよう。ガチで、パニックで頭がおかしくなりそうだった。
「勝手に見たのは悪いと思っているけど」
「そ……それは」
「胸を触ったり、キスしたり、私を抱きたいの? 前も言ったけど、性欲は仕方ないものだから別に構わない。時間外労働だけど、貴女が望むのなら抱かれてもいいよ」
「違う!」
その言葉にはっとして、私は弾かれたように綾さんの胸から手を引き剥がした。
私は彼女の顔をじっと睨みつける。
「そうやって抱かれるの、嫌なくせに!」
私は性欲の為に綾さんを抱きたいわけじゃない。
どうやったらこの気持ちが伝わるのだろう。
そういう風に性欲のはけ口として抱かれるのは、本当は好きじゃないくせに。
抵抗しても無駄だからと無抵抗になって、自分自身を諦めて、何でもないような反応をしているだけ。その冷え切った諦めが、私をたまらなく悔しくさせた。
どうしたらこの人に分かってもらえるのだろう。
「仕方ないよ。そういう欲は誰にでもある。我慢の限界を超えたとき、人は時に犯罪に走るんだ。私の母親がそうだったからよくわかる。……なら、それを止めてあげるのも悪くないでしょう?」
綾さんの過去を知っていたら、その諦めのような考えに至るのもわかる。
嫉妬から不安になり、自分の旦那を殺してしまった人。
愛が深すぎて、綾さん自身も手にかけようとした人。
そして、よりによって綾さんの目の前で自殺をしてしまった人。
どうしてそこまでの狂気的な気持ちに陥ったのか、私にはわからない。
けれど、それほどまでに綾さんのお母さんは、愛情が深すぎたのかもしれない。
綾さんのいとこは、彼女を純粋な情欲の対象として、こじらせてレイプした。
上野先輩は、綾さんのあの淡々とした態度にわからなくなって、どうしていいかわからずにレイプ未遂をしてしまった。
だからって、自分を身代わりに差し出すような言葉が出るんだと思っているけれど、私は彼らとは絶対に違う。
私は、ただの性欲の処理として貴女を求めているわけじゃない。
綾さんの事をもっと知りたい。
ずっと一緒に居たい。
私は、もっとお互いにわかりあいたいし、そのつながりの延長上で、彼女を強く抱きたいとも思う。
深く、つながりたいんだ。
あと、これも今すぐ伝えないと、きっと綾さんは私をただの同性愛者だと思っているかもしれない。
「別に、私はレズじゃないからね」
私の突然の言葉に、綾さんがぴくっと細い肩を反応させた。そんな仕草が、本当にかわいい人だと思う。
だけど、本当に最悪だ。もっと雰囲気がいい感じで、まともな流れで告白したかったのに、これじゃ最悪すぎるよ。
「もぅ、最悪……」
「ごめん、勝手に見て」
「違うってば……もう!」
なんで気づかないの、この人は。
レズ動画を見られたのは死ぬほど恥ずかしいけれど、デッキの中に入れっぱなしにしていた私も悪い。
「もぅ。この鈍感」
私は焦れったくなって、綾さんの首に腕を回して力強く抱き着いた。そのまま唇を重ねて、軽くキスをする。
彼女の柔らかくいい香りが、口の中の粘膜にまで深く入って来る。
私は、戸惑う彼女の唇を割って、少しだけ舌を彼女の中に入れた。
ぬるりと濡れた舌同士をきゅっとくっつけさせて、その生々しい熱さを確かめ合ってから、名残惜しくゆっくりと離れた。
「し……おり」
「こうまでしないとわかってもらえないと思って。そうだよ、もぅ私は綾さんが好きだよ! もっとムードのある感じにしたかったのに台無しだよ」
「あの……私が女性だってわかっている?」
「反対にそのスタイルで男性だったら怖い!」
メリハリが凄すぎるその完璧なボディラインで、男性だと思ったらただの馬鹿でしょ?
どうせこの人、自分の気持ちを伝えるだけなら、ムードなんて無くても全く同じだと思っているんだろうね。
「別に私、女性愛好者じゃない。男性とか女性とか関係ない。私は綾さんだから好きなの」
「それって……」
「そうだよ。異性みたいに綾さんの事が好きです。今、ムードとか関係ないって思ったかもしれないけど、そういう雰囲気っていうのは心理的に働くの。全くもう!」
何で私は、こんな怒り散らかすような言い方をしながら告白してるの?
こんな変な告白の仕方をするのは、この世界にきっと私ぐらいだ。
ドラマや映画の告白シーンも大概だけど、いま自分がやっていることも結構変だとは思う。
実際の告白というのは、フィクションみたいに綺麗に決まるものじゃなくて、全部このようにどこか変になってしまうものなのだろうか。
リアルで男に告白されたこともあるし、お芝居の中でヒロインとして告白をした事もされたこともある。
けれど、芸能界でずっと長くやってきた私だって、こんな支離滅裂な告白のシーンは一度も演じたことがなかった。
「怒りながら言うと疲れると思うけど、酸素足りてる?」
「どうもありがとう。開き直るけど、私は綾さんを愛してる」
この人は何を聞いてるの、全く!
酸欠の心配なんて今することじゃないでしょ。
けれど、そうやって呆れたように問いかけてくる綾さんの瞳を、私はもう恥ずかしさでうつむくことなく、キリッと真っ直ぐに見据えて言い切った。
私には、もうこれ以上付け足して言うべき言葉が無かった。
心の中にあったいちばん重い本音は、すべて放たれてしまったのだ。
後は、目の前にいるこの人が私の熱をどう受け止めて、どんな返事をするか、それだけだった。
私の胸を突き刺すように、彼女の唇が小さく動いた。
「ごめん」
そうだよね。
いくら執着や悪意のないフラットな綾さんでも、同性の女の子からいきなり愛してるなんて詰め寄られて、気分がいい事なんて有るはずが無い。
そうなると、彼女のいつものパターンからして、私に気を使ってこのハウスキーパーの仕事を勝手にやめて、静かに私の前から消えていってしまう可能性がある。
この人は、変なくらい優しい。
自分の生活や安全よりも、いつだって他人の都合や事情を最優先で尊重してしまう人だから。
だから、それだけは絶対にさせないように、今すぐ私の口から釘を刺して伝えないといけない。
「だよね……だからってハウスキーパーを首にするとか、そういう事はしないから」
断られる覚悟はあったはずなのに、じわりと視界が歪んで目に涙があふれてくる。
流しては駄目だ、ここで泣いたら彼女が心配する。
私は奥歯を噛みしめ、溢れそうになる熱い塊を意識の力だけでグッとせき止めて、潤んだ瞳のままじっと彼女を見つめた。
そんな私の必死の抵抗を前にして、綾さんは静かに首を横に振った。
「早とちりしないで」
「早とちり?」
早とちりって何が。私の告白は今さっき綺麗に玉砕したはずなのに、心臓がどくんと大きく跳ねる。
頭の理解が追いつかなくて、私はただ掠れた声でオウム返しにしか聞くことが出来なかった。
「謝ったのは、すぐに返事が出来ないから。少しだけ時間が欲しい」
「理由、訊いてもいい?」
時間が欲しい、その予想外の言葉を耳が拾った瞬間、胸の奥が熱く焦げつきそうになる。
その理由をどうしても、今すぐ聴きたかった。
「私の事を知らずに告白してくるのはどうせ体目当てだと思ったから、そういうのは別にどうでもいい存在なの。でも栞は……違うと思う。私の事を知って、人として好きだって言ってくれたのはうれしく思う。そのうえで男女みたいに付き合いたいと思ってるんだよね」
彼女は、私の目を真っ直ぐに見据えたまま、そうはっきりと言葉を紡いでくれた。
綾さんの事をもっと知りたい。
知れば知るほど、この人に底なしに惹かれていくのが痛いほど分かっているから。
「そう言われると照れるけど……うん」
私は、カッと顔が赤くなるのを感じながらも、今度は一歩も引かずに彼女を真っ直ぐに見つめて頷いた。
「私にとって、栞は赤の他人じゃないんだ。実際イングランドに居ても、ふとしたことで栞のことを考えてた時もあった。だからこそ、抱きたいのなら抱けばとは言えない。それは貴女をバカにしているから」
ヤバイ。
あの綾さんに、そこまで特別に思ってもらえていたなんて、信じられないくらい幸せだ。
てっきり私の独り相撲だと思い込んでいたから。
ガチでヤバい、涙のコントロールが全く出来ない。
熱い塊がボロボロと頬を濡らしていった。
「ごめん……泣かせるつもりではなくて……どう言えば伝わるかな」
綾さんは、ひどく申し訳なさそうな顔をしていた。
どう言えば私の心に届くのか、一生懸命に考えてくれているのが凄く伝わってくる。
たいていの人は、この気まずい静かさに耐えかねて、暗黙の拒否だと思って逃げてしまうものだ。
だけど私は、綾さんの目をじっと見つめていた。
「だから返事は少しだけ待ってほしい。それでいいかな?」
「もちろんだよ」
待つのなら、いくらでも待つよ。
さすがに数年とか数十年とか言われたら困っちゃうけれど。
「でもつらくなるよ。栞の仕事を考えたら表には出せないから」
「その時考える」
いまの時代、同性愛者だからといって、そこまで大事件にはならないかもしれない。
けれど、流石に現役の人気女優であり歌手でもある私の立場を考えたら、トップニュースを飾る大騒ぎになっちゃうよね。
もし本当にいつか世間に公開することになるんだったら、秋子さん達に、しっかり相談しておかないといけないな。
大勢の人に迷惑をかけてしまうから。
そんな現実の重いリスクを並べられても、私の覚悟はちっとも揺らがなかった。
「話ってこれじゃないよね。何だったの?」
綾さんからそう訊かれて、私はハッと我に返った。
話したかったことは、まさにこれからのことだった。
偶然にも私の思いがぶち撒かれたので、もう開き直って聞くことが出来た。
「えっと、これからの事を聴きたいなぁって思って。サッカーの事や学校の事。これから綾さんがやりたいことを聴きたいと思って」
私は、彼女の描く将来の展望を知りたかった。
この人が、これから進みたい方向を知っていれば、その隣で私がどのように行動すればいいのか、一緒に考えることができるから。
「わかった。なら私が考えてる事を話すね」
そう言って、綾さんはゆっくりと教えてくれた。
やはり、大好きなサッカーは、イングランドのプロリーグで上を目指してやりたいこと。
学校生活や進路をどうするか、いま頭の中にある計画を淡々と、けれど確かな意志を込めて私に聞かせてくれた。
そして最後に、この告白に対する返事は、遅くても今年中にしっかりと出すと言ってくれた。
「うん」
胸いっぱいの愛しさを込めて私は小さく頷くと、アイスハニーミルクティーのグラスを片付け、温もりといい香りの残る彼女の部屋をゆっくりと出た。
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