48話A 栞とのお話
部屋の中で、私は唯さんからもらったノートを膝の上に広げていた。
ページの端を指でなぞりながら、考え事を巡らせていた。
連絡をしようと思ったけれど、マンチェスターは今、昼の十二時頃。
時差を考えると、すぐに返事が来るはずもない。スマホを握った手が、静かにベッドサイドに戻された。
そういえば、唯さんが勧めてくれた古武術の道場にも連絡を入れなければ――。
そんなことをぼんやり考えていた矢先、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
このマンションに今いるのは、私と栞だけだ。誰なのかはすぐに分かった。
でも、こんな時間に……?
「綾さん。まだ起きてる?」
ドアの向こうから、いつもより少しだけおとなしい声が聞こえる。
「起きてるよ。入ってきて」
ゆっくりとドアが開き、栞が部屋の明かりに照らされて現れた。
肩を少し丸め、視線を床に落としている。
いつもの雰囲気とは違う。
どこか守るように縮こまった姿に、私はわずかに眉を寄せた。
「どうしたの?」
「……話があって」
栞はそう言うと、唇を軽く噛んだ。下を向いたままの横顔が、部屋の柔らかい照明に淡く浮かび上がる。
「リビングで話す?」
「ここで……いいよ」
「わかった。じゃあ、ベッドに座ってて。その間に飲み物作ってくるね」
栞は素直に頷き、ベッドの端に腰を下ろした。
座り方は相変わらず綺麗なのに、指先がシーツの端をそっと摘まんでいるのが見えた。
キッチンに向かいながら、私は小さく息を吐いた。
わざわざここまで来て飲み物を作りに来るなんて、結局リビングで話せばよかったのでは――そんな自嘲が一瞬よぎってしまった。
ガラスのグラスを二つ並べ、少量のお湯に蜂蜜を丁寧に溶かし入れる。
甘くまろやかな香りが、夜のキッチンに静かに広がった。
熱いお湯を注ぐと、ティーバッグがゆっくりと沈み、琥珀のような濃い茶色が湯の中で揺れる。
二分間、立ち上る湯気をぼんやり見つめながら蒸らした後、温かいミルクを注ぎ込んだ。
白いミルクが茶色に溶け合い、柔らかく色を濁らせていく。
最後に氷を二つ落とすと、カチンと澄んだ音が響き、グラスの中で液体がゆっくりと冷え、淡い乳白色を帯びた温かみのある薄茶色に変わっていった。
アイスハニーミルクティー。
少し甘すぎるかもしれない。
でも、話が、真剣なものになりそうな予感がしたからこそ、せめてこの甘さで心を少しでも和らげてあげられたらと思った。
グラスをトレイに載せて部屋に戻ると、栞は先ほどよりさらに小さく縮こまっていた。
膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、視線は自分の爪のあたりに落ちている。
緊張が、部屋の空気まで少し重くしている気がした。
「これでよかったかな?」
「……ミルクティー? ありがとう、綾さん」
「蜂蜜たっぷり入れてみたよ」
「うん……」
グラスを受け取った栞の指先が、わずかに震えていた。
そのまま数分が過ぎても、彼女は何も言わない。
部屋には、エアコンの低い稼働音と、グラスの中で氷が溶ける小さな音だけが響いていた。
私はそっと息を吸い、静かに切り出した。
「栞はさ……私に、何を求めているの?」
「どういう事?」
これ以上、無意味な沈黙につき合うつもりはなかった。
左手を躊躇わずに背中へと回し、指先でブラのホックをパチンと外す。
そのまま栞の細い右手を掴み、自分の服の裾をめくって、その手のひらを中へと強引に潜り込ませた。
遮るもののなくなった剥き出しの私の胸に、彼女の手を直接、強く押し当てる。
「綾さん……っ!?」
手のひらに直に触れた柔らかな肉の熱さに、栞が悲鳴のような声を上げた。
けれど、私は彼女の手首を掴んで固定したまま、視線も動かさずに淡々と口を開いた。
「こういう事がしたいんじゃないの?」
「違う」
「ならなんで、私似の女優と栞に似た女優のエッチなビデオを見てたの?」
「見たの?」
栞の声が激しく震えた。
信じられないというように泳ぐその瞳から、一瞬で血の気が失せた。
次の瞬間には、首元から顔全体へと一気に真っ赤な熱が染め上がった。
下唇をギュッと強く噛みしめ、肩をすくめて全身をガチガチに硬くする。
今すぐこの部屋から逃げ出したいのに、両足だけが床に張り付いたように一歩も動かないように見えた。
「トレイを開こうとしたら間違って再生しちゃって。この間のプレオープンの試合だったから見てたら、試合終わったら同時に……」
「あれ……は……」
目の前の栞は、耳まで真っ赤に染まったままだ。
服の中で、彼女の身体が小刻みにガタガタと震え始めていた。
その振動が私の胸を掴んでいる手のひらへ直に伝わり、私の胸そのものが小刻みに揺れ動いている。
「勝手に見たのは悪いと思っているけど」
「そ……それは」
「胸を触ったり、キスしたり、私を抱きたいの? 前も言ったけど、性欲は仕方ないものだから別に構わない。時間外労働だけど、貴女が望むのなら抱かれてもいいよ」
「違う!」
栞は急に私の胸から手を引いて、じっと睨みながらそう言ってきた。
そうじゃないのか?
ならどういう意味だ?
「そうやって抱かれるの、嫌なくせに!」
「仕方ないよ。そういう欲は誰にでもある。我慢の限界を越えたとき、人は時に犯罪に走るんだ。私の母親がそうだったからよくわかる。……なら、それを止めてあげるのも悪くないでしょう?」
私は静かにそう言いながら、栞の顔を見つめた。
本当は、こんな話などしたくなかった。
なのに、深夜に目にしてしまったあの映像が、どうしても頭の奥にこびりついて離れない。
栞の本音を、ちゃんと聞きたい。
彼女は私に、何を求めているのだろう。
友人?
ハウスキーパー?
それとも、性欲を抑え込んでくれる、ただの逃げ場?
栞はノーマルではなく、同性に惹かれる人だったのだろうか。
……いや、それ以前に。
彼女にはたくさんの恩義がある。
もしあの時、栞が居なければ私は死んでいたかもしれない。
自分が寝込んだとき、三日間も代わりにバイトへ行ってくれたこと。
熱中症で倒れそうなところを助けて、病院にまで運んでくれたこと。
仕事場が撤退して、職を失った私を、こうしてハウスキーパーとして雇ってくれたこと。
色々な縁が繋がっていたのだろう。唯さんとの出会いだって無関係ではない。
彼女が居なければ、私はずっと一人きりのままだった。
そう思えば、身体の一つくらい彼女に渡したって構わないと思う。
当時は知らなかったけれど、人気女優であり、歌手もこなす栞が同性愛者だと世間に知られたら、それこそ取り返しがつかない事態になる気もする。
「別に、私はレズじゃないからね」
突然、栞がぽつりと言った。
黙り込んでいた彼女の声に、私は思わず目を瞬かせた。
……なら、なぜ私に似た女優と、自分に似た女優が出ているアダルトビデオを?
「もぅ、最悪……」
「ごめん、勝手に見て」
「違うってば……もう!」
栞は顔を背け、耳まで赤くしながら小さく叫んだ。
人の物を勝手に見たのは、確かに良くない。
でも、「違う」って、何が違うというのだろう。
「もぅ。この鈍感」
突如として視界が反転した。
栞の細い腕が首元へ緩く回され、引き寄せられる。直後、口元に凄く温かい感触が押し当てられた。
あまりの至近距離に彼女の顔がアップとなって迫り、私の目は大きく見開かれる。
驚く間もなく、隙間の空いた唇から少しだけ舌が滑り込んできて、そして名残惜しそうにそっと離れていった。
「し……おり」
「こうまでしないとわかってもらえないと思って。そうだよ、もぅ私は綾さんが好きだよ! もっとムードある風にしたかったのに台無しだよ」
「あの……私が女性だってわかっている?」
「反対にそのスタイルで男性だったら怖い!」
何でそんなに切れているのかがよくわからない。
自分の気持ちを伝えるだけなら、ムードなんて無くても同じだと思う。やはり栞はどこか変だ。
「別に私、女性愛好者じゃない。男性とか女性とか関係ない。私は綾さんだから好きなの」
「それって……」
「そうだよ。異性みたいに綾さんの事が好きです。今、ムードとか関係ないって思ったかもしれないけど、そういう雰囲気っていうのは心理的に働くの。全くもう!」
「怒りながら言うと疲れると思うけど、酸素足りてる?」
「どうもありがとう。開き直るけど、私は綾さんを愛してる」
先ほどの怒りや今朝みたいな凄く照れている顔ではなく、キリッと私を見て言ってくれている。
その強い眼差しから、すごく本気だというのがよくわかる。
私はどうだろう?
栞の事は気になる?
気になる存在だというのははっきりしている。
けれど、同じように、異性みたいに好きかと言われたらどうだろう。
もし付き合ってと言われたら、いつも通りに「構わない」って言うのは駄目だという事はわかる。
いつもなら、どうせ相手は性欲の対象として付き合いたいと思っているから別にどうでもよかった。
でも、今回は私を真っ直ぐに見て、判断して告白をしてくれた。
なら私も本気で考えないといけないと思う。
「ごめん」
私が小さく呟くと、栞の長い睫毛が悲しげに伏せられた。
「だよね……だからってハウスキーパーを首にするとかそういう事はしないから」
じわりと目に涙をためているけれど、震える声を必死に抑えて、すごくはっきりと答えてくれてはいる。
私は首を横に振った。
「早とちりしないで」
「早とちり?」
涙をこぼさないように上を向こうとした栞が、不思議そうに瞬きをして私を見返してくる。
「謝ったのは、すぐに返事が出来ないから。少しだけ時間が欲しい」
「理由、訊いてもいい?」
拒絶されたわけではないと気づいたのか、彼女の潤んだ瞳が、私の顔をまっすぐ捉えた。
「私の事を知らずに告白してくるのはどうせ体目当てだと思ったから、別にどうでもいい存在なの。でも栞は……違うと思う」
「私の事を知って、人として好きだって言ってくれたのはうれしく思う。そのうえで男女みたいに付き合いたいと思ってるんだよね」
私はどう言ったら伝わるか、一生懸命考えて伝えた。
「そう言われると照れるけど……うん」
栞は顔を赤くしながらも、私を真っ直ぐに見つめて頷く。
「私にとって、栞は赤の他人じゃないんだ。実際イングランドに居ても、ふとしたことで栞のことを考えてた時もあった。だからこそ、抱きたいのなら抱けばとは言えない。それは貴女をバカにしているから」
私の言葉を聞いた栞の眼に、じわりと涙がたまっていった。
「ごめん……泣かせるつもりではなくて……どう言えば伝わるかな」
「ごめんね、綾さん。そこまで考えて言ってくれてるのがうれしくて涙が出てきたの」
そう返されて、私は何も言えなくなってしまった。
どう言えばいいんだろう。
これほど自分のことを考えてくれている彼女に対して、かけるべき正しい言葉が見つからない。
「だから返事は少しだけ待ってほしい。それでいいかな?」
「もちろんだよ」
「でもつらくなるよ。栞の仕事を考えたら表には出せないから」
「その時考える」
涙をためたまま、彼女は逃げずにそう言い切った。
人気女優としてのキャリアを壊すリスクを前にしても、彼女の覚悟は全くブレない。
なら、私も相応の誠実さで返さなければ失礼だと思った。
「話ってこれじゃないよね。何だったの?」
多分違うはずだ。
栞の話というものを聞かないで帰らせるのはよくないだろう。
こんな雰囲気で悪いとは思うけど、一応聞いてみた。
「えっと、これからの事を聴きたいなぁって思って。サッカーの事や学校の事。これから綾さんがやりたいことを聴きたいと思って」
「わかった。なら私が考えてる事を話すね」
胸の奥に、確かなうれしい気持ちが灯っていた。
私の事を本気で考えてくれているのが痛いほどわかる。
だからこそ、自分の将来の展望をしっかりと言おう。
叶うかどうかはわからないけれど、そのうえで最善を尽くした未来を、彼女の前で考えてみたかった。
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