47話S 夕食での不意打ち
帰宅後すぐに自室へと駆け込み、私は窮屈だった制服を脱ぎ捨てて、着慣れた楽な部屋着に袖を通した。
ふう、と小さく息を吐いてから、そのまま廊下を渡ってリビングへと足を向ける。
先に帰宅していた秋子さんが気を利かせてくれたらしく、撮影現場から持ち帰った私の重い荷物は、すでに自分の部屋のデスク脇へ綺麗に運び込まれていた。本当にいつも仕事が早くて頭が下がってしまう。
そのままリビングのドアを開け、キッチンへと視線を走らせた。
そこには、お気に入りのエプロンを身に纏い、慣れた手つきで夕食の支度に勤しむ綾さんの姿があった。
西日の差し込むキッチンに立つ彼女の凛とした佇まいは、いつ見ても息をのむほどに美しくて、私はドアノブに手をかけたまま、思わず言葉を失ってその場に釘付けになってしまう。
『絵になる』って、きっとあんな瞬間のことを指すんだろうな。
ずっと眺めていたいけれど、さすがに正面からそんな風に凝視し続けていたら、いくら綾さんでも困惑してやりづらそうにするに違いない。
私はそう思い直し、ソファへ腰を下ろして、スマートフォンの画面に視線を落とした。
けれど、意識のすべてはキッチンの方へと向いていて、画面を見るフリをしながら、チラチラと彼女の横顔を盗み見ていた。
客観的に今の自分の行動を評価するなら、もはや変質者と紙一重と言われても一切言い訳できないレベルだな、と自嘲気味に思った。
パチパチとから揚げの爆ぜる心地よい油の音が、静かなリビングに響き渡る。
昔から、私はこの音が結構好きかもしれない。
綾さんが私の為に、一生懸命作ってくれていると思うと余計にうれしくなるもの。
その温かい想いに乗せるようにして、油の音が軽快なリズムを刻んでいるように聞こえてくる。
キッチンからリビングまで優しく漂ってくる香ばしい匂いも手伝って、なんだかすごく愛おしくて幸せな気持ちになってくる。
ちょうど綺麗にキツネ色に揚げ上がった気配を察し、私はスマホを置いてキッチンへと向かった。
いつも通り、出来た順にホカホカのお皿を両手で受け取っては、トコトコと食卓へと運んでいく。
大皿に山盛りにされたサクサクのから揚げに、彩りの良いシャキシャキのサラダ。炊きたてのご飯に、出汁のいい香りがする温かいお味噌汁。
テーブルの上には、いつもながらバランスの取れた、完璧な夕食がずらりと並んだ。
「いただきます」
手を合わせて箸を取り、まずは一番大きな、まだ熱を帯びているから揚げを口へと運ぶ。
サクッとした小気味いい歯触りの直後、ジューシーなおいしさが口いっぱいに広がった。
やっぱり、綾さんの手料理は文句なしに美味しい。
昨日までの空気感が今は全くしなかった。
ふと見ると、キッチンにはまだ別の大皿が残っていた。
秋子さんは「今日はまだ仕事の書類があるから」と言っていた。
きちんと秋子さんの分も別枠でお皿に取り分けて用意されているのだ。
秋子さんの分は仕事ではないのに、こういう事を自然と行うのは、本当に綾さんらしいと思う。
自分の分を食べ終えたら、冷めないうちにおすそ分け氏に行こうと思う。
私がそんな風に至福の味を噛み締めながら、夢中で箸を動かしている最中のことだった。
それまで静かに手を動かしていた綾さんがふと動きを止め、少しだけ躊躇うようにして私に問いかけてくれた。
「……味付けはどう?」
「うん! 美味しいよ。絶妙な塩味と、レモン汁の酸味が最高かも」
「……なら、よかった」
優しく微笑む綾さんの顔を見て、私は胸の内でそっと息を吐き出す。
もし昨日だったら、不安とモヤモヤで胸がいっぱいで、多分味なんてこれっぽっちもわからなかったはずだ。
でも、今日はすごく美味しく味がわかる。
これも、上野先輩のお陰なんだろうか。
そう考えるのはちょっとだけ癪に感じてしまうけれど、自分の心がすっきりと軽くなったのだけは紛れもない事実だった。
それにしても、何だか珍しい。
いつもならもっと、背筋が伸びていて凛としている彼女なのに、今の「ならよかった」という言葉には、どこか上の空というか、言い淀んでいるようなニュアンスが混ざっている感じがする。
心なしか、私と視線を合わせるのを避けるように、ほんの少しだけ瞳が泳いでいるようにも見えた。
何か私に言いたいことでもあるのだろうか?
「どうしたの、綾さん?」
私の言葉に、綾さんは一瞬だけ驚いたように肩を揺らした。
「……口に合ったようでよかった」
完全に話をはぐらかすような返事に、私は少しだけ身を乗り出して言葉を重ねた。
「綾さんの手料理は本当においしいから、口に合わない方が難しいくらいだよ。反対にあまりにも美味しすぎるから、他のものが食べられなくなっちゃいそうなのが怖いかも」
お世辞でも何でもなく、それが私の嘘偽りない本音だった。
実際、現場で貰うロケ弁とかも十分に美味しいはずなのに、最近は綾さんのご飯の方がずっと恋しくなってしまうのだ。
そのせいで、仕事中に「早く綾さんのご飯食べたいな」なんて、小さな物足りなさを感じてしまう時があるくらいなのだから。
昨日は変に意識しすぎちゃって、綾さんとまともに会話すらできなかった。
だけど、それを差し引いても今日の綾さんはやっぱりどこか変だ。
朝は見送りに出てこなかったし、さっきの上野先輩とのドタバタがあって今はいつも通りに戻ったように見えるけれど……いや、やっぱり絶対におかしい。
何か深刻な考え事でもしているのかな。
もしかして、昨日話した『来月の契約更新』のことだろうか?
私の本音を言わせてもらえるなら、契約なんて関係なくこのままずっと一緒にいてほしい。
だけど、大好きな人と毎日同じ屋根の下で暮らすなんて、今の私には刺激が強すぎる。
毎日のように平常心をへし折られそうで、自分でも自分の理性がちょっと怖い。
もし私が芸能人じゃなくて、どこにでもいる普通の女の子だったら、とっくに当たって砕けろの精神で告白していると思う。……まぁ、受け入れてもらえるかどうかは、完全に別問題なんだけど。
でも逆に、私が芸能人をしていなかったら、こんな都心の豪華なマンションに暮らすことなんてできていない。
そうなったら綾さんをハウスキーパーとして雇うこともなかったし、きっと私は今も実家で親元にいるはずだ。
これじゃあまるで、卵が先か鶏が先か、みたいな話だなぁと思えてくる。
から揚げを食べているからそう思ったのかな?
「……ふぅ」
ぐるぐると巡る思考を一度打ち切るようにして、私はジューシーなレモン汁をたっぷりかけたから揚げをパクリともう一口食べた。
口いっぱいに広がる美味しさに、ちょっとだけ天国が見える。
続いてお味噌汁をゴクッと飲んでいる時、ふと視線を感じた。
……ん?
綾さんが、私のことをじーっと見つめている。
あまりにも真っ直ぐに見つめられ続けるので、私はなんだか恥ずかしくなってきて、もしかして、と最悪の可能性が頭をよぎった。
「あの、綾さん……私の顔に何かついてる? もしかしてお味噌汁のわかめが歯にくっついてるとか……!?」
おそるおそる尋ねた私に、綾さんは表情をほとんど変えないまま、さらりととんでもない爆弾を落としてきた。
「気にしなくていいよ。いつも通りかわいい顔だから」
はぁ? 「い、いつも通りかわいい顔」……って、今、綾さんの口からそう言った!?
いや、言ったよね!? 幻聴じゃないよね!?
脳内が処理落ちを起こした瞬間、信じられないくらいびっくりして、手元が激しくお留守になった。
ガシャァン、と派手な音を立てて、お味噌汁の入ったお椀が手から滑り落ちてしまった。
テーブルの上へ一気に広がっていく温かい汁が目に映った。
「わあぁぁ! やっちゃった!」
やばい、ばやい……じゃなくて! 落ち着いて私! 落ち着けぇぇ!
まさか綾さんの口からそんな甘い褒め言葉が飛び出すなんて天変地異の前触れかとパニックになっていると、綾さんはすぐに動いてくれた。
「大丈夫?」と声をかけながらキッチンから素早く布巾を手に取り、テーブルの上の大惨事を流れるような手際で拭き取って処理していく。
あまりの頼もしさに、惚れ直すのを通り越して拝みたくなってしまう。
「ごめんね、綾さん。急に『いつも通りかわいい』なんて言われちゃうから、本当にびっくりしちゃって……」
私の情けない謝罪に、綾さんは不思議そうに首を傾げた。
「でも、栞は、普段から言われ慣れているでしょう?」
「ま、まぁ……お仕事柄、そりゃあ言われ慣れてますけど! だけど、綾さんは普段そういうこと言わないでしょ? だから、なんていうか……不意打ちっぽく直撃したから、びっくりしちゃ……っ」
普段そんなこと言わない綾さんから、なんの脈絡もなくそんなことを言われたら、誰だって心臓がドキドキするに決まっている。
そう言えばこの人、自分自身に無頓着だったわ。
もう、本当にずるいなぁ!
こんな些細な一言に一喜一憂して、限界化している今の私は、客観的に見ても頭の中がお花畑全開になっていると思う。
しかも、自分の顔が耳の裏まで真っ赤に熱くなっているのが、鏡を見なくてもはっきりと分かった。
心臓のバクバク音が綾さんに聞こえてしまいそうで、めちゃくちゃ恥ずかしい。
「……よくわからないけれど、驚かせてしまってごめんね」
私の真っ赤な顔を見て、綾さんは申し訳なさそうにパチクリと瞬きをした。
「ううん、こっちこそ、お味噌汁こぼしてごめんね」
パチッと目が合うと、また胸の奥がキュンと跳ねた。
やっぱり今日の綾さんは、いつもと違ってどこか甘い気がする。
私もなんだかよくわからない返事をして、その場をごまかしてしまった。
上野先輩の一件で前の空気に戻ったというのは、あくまで表面的なことだけで、根本的な問題は何も変わっていない。
私は綾さんが好き。
うん、もう認めよう。全面的に認めちゃう。
なにしろ、綾さんに雰囲気が似ているアダルトビデオをわざわざダウンロードしちゃったくらいなんだから、もう認めるしかない。
まずはここが大前提。
そのうえで、来月の契約のことも含めて、しっかりと綾さんと向き合って話さないといけない。
なんて胸の中で熱く決意を固めていたら、いつの間にか綾さんは食事を終えて、自分の部屋に戻っていってしまったみたいだった。
完全に考え事に没頭しすぎてタイミングを逃しちゃった。
私も気を取り帰すと、冷めないうちに秋子さんの部屋へ綾さんの手料理をおすそ分けしに行き、それから自分の部屋へと戻った。
そこで、ふとさっきのアダルトビデオの件で思い出した。
……待ってそういえば、DVDってビデオ、プレーヤーに入れっぱなしじゃん!
あれを見られたら絶対にまずいから、今のうちに取り出さないと。
私は大慌てで、デッキからそのディスクを取り出した。
でも、取り出す前に、綾さんが近くに居ないことをしっかりと確認してから、念のためにそのビデオを再生してみる。
画面に映し出されたのは、本編が始まる前に入れた。
綾さんが出たあのサッカーの試合のダイジェスト映像だった。
うん、間違いない。画面の中で躍動する彼女の姿を見て、確かにあのビデオだと確認する。
そうして一度画面を消し、今度こそディスクをトレイから戻した。
自分の部屋のベッドに腰掛けて、私は少しだけ自問自答を繰り返す。
これから綾さんの部屋に行って、ちゃんと話をしよう。めちゃくちゃ緊張するけれど、ここで逃げちゃダメだ。
私はゆっくりと深く息を吐き出し、意を決して綾さんの部屋に向かってそのドアをノックした。
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