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【三部開始】 Liebe   作者:
3部 1章 最高のイングランドの経験

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46話S 過去の記憶と仲直り

 なんだか仕事が身に入らない。

 あの、すべてから逃げ出した時とはまた違う感覚だった。

 あの時は「芸能人としての私」という記号だけが一人歩きして、誰も「霧生栞」という一人の人間を見てくれなかった。

 つらくて、苦しくて、自分自身が偶像の重みに押し潰されそうになっていた。

 でも、今は違う。

 今はただ、私が綾さんに対して抱く気持ちだけで、胸がいっぱいになってしまっているのだ。


「やる気が無いのなら帰れ!」

 監督の怒声が脳裏に蘇る。

 仕事には、いつだって真面目に取り組んできたつもりなのに、どうしても集中力が散漫になってしまう。

 撮影がすべて終わった後、私は各部署のスタッフや出演者全員のもとへ、頭を下げて謝り回った。


「その年齢だから、色々と悩むことがあるのはわかるよ。でもね、どんなにつらくても、一度カメラの前に立ったらそれを出したらダメだ。わかってると思うけどね」

「本当に、申し訳ありませんでした……」

「もし一人で抱えきれない悩みがあるのなら、水無月マネージャーに相談してみたらどうだい」

「はい……」


 ーーやる気がないなら帰れ、か。

 そういえば、そんな言葉を十二年以上前にも言われたことがあったっけ。

 なんだか、すごく懐かしい。

 まだ小学校に上がる前で、仕事と遊びの区別すらついていなかった頃の話だ。

 あの人は、幼い私に対して本気で怒ってくれた。

 周囲の大人が「子供だから」と甘やかす中で、その人だけは子供の私にもわかる言葉で向き合い、それでいて大人と同じように厳しく叱ってくれたのだ。


 確かあの時、私は泣いてしまった。

 けれど、それは理不尽さに拗ねたわけじゃない。

 自分が本当に悪いことをしたのだと理解して、情けなくて悲しくなったから、泣きながら必死に謝ったのだ。

 思い返せば、あの瞬間だったかもしれない。私がこの活動を「遊び」ではなく「仕事」だと強く認識して行動し始めたのは。


 切なくも、温かい思い出。

 あれは確か……サッカースタジアムでの撮影だったと思う。

 ディレクターと選手、それから道具の説明をするスタッフがいた。

 そしてーーグラウンドの外から「お父さ~ん」と声を張り上げ、手を振る私と同い年くらいの女の子。

 艶やかな、吸い込まれそうなほど綺麗な黒髪。

 そして、まるでルビーのように妖しく、美しい、燃えるような赤い瞳。

 その姿に、幼いながらも心臓が跳ね上がるほどドキッとしたのを覚えている。

「あ……!」

 点と点がつながり、全身に電流が走ったような衝撃が駆け巡る。

 あの時の女の子。あの、夜の帳を溶かしたような美しい黒髪と、ルビーのように煌めく赤い目をした少女はーーまさか、綾さんだったんじゃないの?


 私、あんなに昔から、彼女に出会っていたんだ。

 頭を振って我慢しようとしても、思考は完全にハイジャックされていた。

 結局、どれだけ反省しようとしても、私の心はまた綾さんのことでいっぱいになってしまっていた。


 秋子さんの運転する車に揺られながら、私たちはマンションへと向かっていた。

「栞、大丈夫?」

 助手席の私を気遣うように、秋子さんが横目で視線を送ってくる。

「……怒られちゃった」

「あのバラエティの時以来じゃない? あんなに派手に怒られたの」

「うん。でもね、今思い出したの。私、綾さんに、あの時に出会ってたんだと思う」

「いつの話?」

「ほら、あのバラエティの撮影の時、『お父さん』って呼んで手を振ってた女の子、覚えてない?」

「さすがにそこまでは覚えてないわよ。あれ、もう十二年も前でしょ?」

「うん……」

「まぁ、いいわ。とにかく今は、しっかり話し合いなさい」

「……会ってくれるかな?」

「喧嘩でもしたの?」

「喧嘩っていうか……今朝、なんか変な感じだったの。朝の見送りに出てくれなかったの、初めてだったから」

「それは、確かに珍しいわね」

「私、何か怒らせるようなことしたのかな……」

「ここ最近の栞、ちょっと情緒不安定だったじゃない」

「それは、自覚してるけど……」

「だから綾さんも、どう振る舞っていいか分からなくなっちゃったんじゃないの?」

「そうだと、いいんだけど……」


 俯きかける私に、ハンドルを握る秋子さんが「あ」と小さく声を漏らした。

「……あそこにいるの、綾さんと、唯の弟分の男の子ね」

「え?」

 秋子さんのその言葉に弾かれたように、私は顔を上げてフロントガラスの先をしっかりと凝視した。

 間違いない。

 立っているのは、綾さんと、上野だ。


「秋子さん! あの近くで車止めて!」

「ちょっと栞、いくらなんでも男性と話してるからって、すぐに割り込もうとするのは……」

「私、そこまで嫉妬深くないって! ……あの男、以前、綾さんをレイプ未遂した奴なの!」

「嘘でしょ!?」

「こんなことで嘘なんてつかないの、秋子さんだって知ってるでしょ!?」


 私のただならぬ声気を察した秋子さんは、瞬時に表情をこわばらせ、綾さんたちのすぐ近くで急ブレーキを踏んで車を止めてくれた。

 タイヤが鳴るのとほぼ同時に、私は助手席のドアを強く押し開けた。

 心臓が早鐘を打つ。考えるより先に足が動き、私は綾さんのもとへと遮二無二駆け寄った。


 「綾さん! 大丈夫!?」

 息を切らせて駆け寄った私に、けれど綾さんは、なぜか私の後ろの方に視線をやって小さく一礼をしていた。

 ……ちょっと、なんで平然としてるの!?

 レイプ未遂犯の上野と二人きりで何を話してるの?

 もう少し危機感を持って、警戒してほしい。

 焦る私が振り返ると、秋子さんの車が駐車場の方へと向かっていくところだった。

 待って秋子さん、何かあったら警察を呼んでもらおうと思ったのに! ……っていうか、私のスマホ、車の中に置いたままだ!

 丸腰であることに気づいてゾッとした私は、とにかく綾さんを守るため、彼女と上野の間に割り込むようにして割って入った。


「大丈夫って、何が?」


 綾さんは小首を傾げた。

 ……何がって、綾さん、今何を言っているの!?

 貴女は目の前の男に乱暴されかけたのに。

 なんでそんなに平気そうな顔をしていられるの?

「だって……」

 あまりにも平然と聞き返されたせいで、私はそれ以上の言葉が続けられず、そんな間抜けな返事をするのが精いっぱいだった。


「まあ、普通はそういう態度になるよな」

 私の険しい表情とただならぬ警戒心を察して、上野が苦笑交じりに言った。

「当たり前でしょ! また綾さんに何か良からぬことをしようとしてるんじゃないの!?」

 私は上野を親の(かたき)のように鋭く睨みつけた。

「違うって。たまたま家に帰ろうとしたところで綿津見に会ったから、あの試合のことを聞いてただけだよ」

 言い訳に騙されるものかと、私は上野からなるべく視線を外さないようにしながら、背後の綾さんの様子を伺った。

「私は何もされていないよ。大丈夫だから」

 綾さんは、両手にずっしりと重そうなスーパーの買い物袋を下げたまま、困ったように私たちを見つめていた。

 本当にただの買い物帰りのようだ。

 上野は私に睨まれて居心地が悪そうに、少しだけ視線を泳がせている。


「……綿津見と話すには、いちいち霧生の許可が必要なのか?」

「そういうわけじゃないけど! だけど……どうせ綾さんのことだから、『私は気にしてない』とか言ったんでしょ」

「まぁ、当たりだな」


 上野の言葉に、私は天を仰ぎたくなった。やっぱりそうなんだ。

 何でこの人は、こんなにも自分を大事にしないのかな?

 綾さん自身、自分がどれだけ無防備で、どれほど目を引く美人なのか、これっぽっちも自覚していないんじゃないの?

「今度は、何がそんなに楽しいんだろう、とか思っていそうだな」

 上野は綾さんの締まりのない顔を見て、呆れ果てたように呟いた。

「……綾さんだしね」

 癪だけど、この瞬間だけは上野と完全に意見が一致してしまった。

 私は綾さんの隣で、深いため息をつくことしかできなかった。

 何が一番タチが悪いかって、被害に遭いかけた本人が一番ケロッとしていて、何の危機感も抱いていないことだ。

 本当に、この人には振り回されてばかりで困ってしまう。


「二人とも、なんでそんな疲れた目で私を見るの?」

 綾さんが不思議そうに首を傾げると、上野は諦めたようにかぶりを振り、今度は私の方を真っ直ぐに向いた。

「霧生」

「なんですか、上野先輩」

 私がトゲのある声で返すと、彼は深くため息をついた。

「こいつをどうにかするの、めちゃくちゃ大変だぞ」

「はあ!?」

 なんで私の気持ちがこいつにバレてるの!?

 すごくムカつく。……けれどそれ以上に、心臓を撃ち抜かれたように耳元がカッと熱くなっていくのが分かった。


「栞、ごめんね」

 そんな私たちを見て、今度は綾さんが申し訳なさそうに眉を下げた。

「えっ……? ごめんって、綾さん何が?」

 今のやり取りの、一体どこに綾さんが謝る要素があったのだろう。

 相手はあの綾さんだ。また突拍子もない勘違いをしているに違いない。

 私は何が飛び出してきてもいいように、一応身構えた。

「栞は上野君のことが好きなのに、私が親しげに話していたから、ヤキモチを焼かせちゃったのかなって」

 ……そうしたら、どうしてそういう結論になるの!?

 この雰囲気を見て、どうしてそんな言葉が出てくるのか、私の頭では到底理解が追いつかない。

「違うから! なんで私がこんな奴のこと、好きにならなきゃいけないのよ!」

 私が顔を真っ赤にして必死に抗議すると、上野先輩はそれまでの緊張感が嘘のように、お腹を抱えてケタケタと笑い出した。

 お前が笑うな! 私はあまりの理不尽さに、思わず拳を振り上げてしまった。

「あはは! 俺はもうとっくに諦めてるから安心しろよ。……何しろ、世間じゃ『国民の妹』なんて言われてる霧生が相手だしな」

 冗談めかして両手を挙げる上野を、私はキッと睨みつけた。

「おお、怖い怖い」

 上野は、わざとらしく身をすくめて、また楽しそうに笑う。

 ああ、もう!

 張り詰めていた糸がプツリと切れた瞬間、なんだか無性におかしくなってしまった。

 感情がぐちゃぐちゃになって、瞳にみるみる涙が浮かんでくる。


「っ……ふふ、あはははは!」

 今度は私の方から、抑えきれない笑いが込み上げてきた。

 上野と一緒に声を上げて笑い出す。

 いきなりブチ切れていた私が爆笑し始めたので、今度は上野の方が戸惑って固まっていた。

 その呆然としたマヌケな顔が、余計に私の笑いのツボを刺激する。


「あはは! ごめん、ごめん……っ」

 私は目元に浮かんだ涙を指先で拭いながら、お腹を押さえて息を整えた。

「……まさかあんたが、私を普通の高校生と同じように扱ってくれるとは思わなくてさ。今までそんな風に接してくれる相手って、本当に綾さんくらいしかいなかったから。みんな私のことを、どうしても『芸能人の霧生栞』としてしか見てくれなかったのに」


 私が芸能科のある特別な学校ではなく、この普通の高校を選んだ理由。

 それは、もちろん綾さんがそこにいることが大前提だったけれど、もう一つは「普通の学生生活」を送りたかったからだ。

 それなのに、クラスメイトは全員私を特別視して、芸能人としてしか見てくれなかった。

 まさか上野が、一番「普通」に突っかかってきて、普通に接してくれるなんて、思いもしなかったのだ。


「いまさら、元は敵だった奴のことを『芸能人の霧生栞』としては見られないしな」

 上野は、少しバツが悪そうにポリポリと頭を掻きながら、私の疑問に答えてくれた。ぶっきらぼうだけど、そこに嫌味は一切ない。


「栞と上野君って、喧嘩してたの?」

 そんな私たちのやり取りを、綾さんは重そうな買い物袋を両手に下げたまま、不思議そうに眺めてこんなことを言ってきた。

「……してないから、綾さん」

 本当に、綾さんはどこまでも私を笑わせてくれる。

 おかしくて、なんだか張り詰めていた肩の力が一気に抜けていくのが分かった。

 当の本人がこうして過去を水に流して、前を向いている。

 それなのに、私一人だけがいつまでも頑なに心を閉ざして、意固地になっていても仕方ないよな、と思えた。


「綾さんがもう、あの件を何とも思っていないのなら、私も上野先輩に対してああいう態度をとるのはやめるね」

 私は綾さんから正面に向き直り、上野先輩の目を真っ直ぐに見つめた。

 私は今までの態度を含めて深く頭を下げた。


「……今まで、ごめんね」

 私の言葉に、上野先輩は一瞬だけ驚いたように目を見開いたけれど、すぐにいつもの不敵な笑みを浮かべた。

「いや、そもそも全部悪いのは俺だしな。霧生が気にすることじゃない。……じゃあ、俺はそろそろ帰るわ。綿津見、またどこかで話そうぜ」

「もちろん、またね」

「ああ、じゃあな」

 上野先輩は軽く手を振ると、背負っていた憑き物がすべて取れたような、どこか晴れやかな足取りで、そのまま歩道を歩いて去っていった。

 その後ろ姿を見送る私の胸には、もう刺々しい感情はひとかけらも残っていなかった。

「栞?」

「何、綾さん? ……あ、その荷物、半分持つね!」

 上野先輩の姿が見えなくなるまで見入ってしまい、重い荷物をそのまま持たせっきりだったことに気がついた。

 私は慌てて、綾さんの細い手から片方の買い物袋を半分引き受けた。

「うん、ありがとう。今日はスーパーで鶏肉が安かったから、夜ご飯はから揚げだよ」

「本当に!? やった、楽しみ!」

 お互いに袋を半分ずつ持って、並んでマンションへと歩き出す。

 ……上野先輩には、少しだけ感謝しなきゃいけないかもしれない。

 綾さんが帰国してから今朝までの何とも言えない雰囲気が、今は、以前の様な距離感で、綾さんと話せている気がした。

「Liebe」をお楽しみいただけましたか?


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