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【三部開始】 Liebe   作者:
3部 1章 最高のイングランドの経験

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46話 仲直りA

 八月の容赦ない西日がアスファルトをじりじりと焼き焦がし、まとわりつくような熱気が肌を刺す。

 UVクリームを塗っていても、容赦なく照りつける直射日光はきつかった。

 三日前までいたマンチェスターの、あのひんやりとした曇り空が恋しくなってくる。

 気怠さを抱えながら、私は白いノースリーブのサマーニットに風通しのいいロングスカートを合わせ、両手にスーパーの買い物袋を下げて歩いていた。


 ふと視線を上げると、向こうから上野君が歩いてくるところだった。

 彼は私の姿を見つけると、ハッとしたように足を止め、その視線を微かに泳がせた。


「綿津見久しぶりだな」

「上野キャプテン」

「前みたいにさんづけはないのか?」

 上野君は苦笑いしながら話しかけてきた。

「別にいいですけど、こんにちは、上野さん」

 私が淡々と返すと、上野君は周囲を気にしながら、声を潜めて謝罪の言葉を口にした。

「本当にあの時はごめんな。ごめんで済む話じゃないけど」

「会うたびに謝られても困ります。それに性欲は誰にでもありますから」


 私としては、本心からそう思っているだけだった。

 あの出来事は、実害の及ばなかったあくまでも凌辱未遂に過ぎない。

 じりじりと照りつける太陽の下で、私は当時の記憶をぼんやりと手繰り寄せていた。

 そういえば、あの時も確か栞が駆けつけて助けてくれたのだっけ。


 被害者である私がとうに受け入れている事実を、なぜ加害者である上野君の方が、いつまでもこうして重苦しく引きずっているのだろう。

 彼の必死な様子を見ていると、その罪悪感の理由がいまいち掴めなかった。


「何か用でした?」

「ほら、向こうの試合見たけどすごかったぞ。いろいろ話を聞きたいと思ってな」

 

 何を話せばいいのか分からなかった。

 私にとってあの試合は、運に助けられただけのようなものだと思っている。


「一ゴール、一アシストって、初出場でもそうそう見られない結果だけど、実際どうだった?」


 彼もやはり、サッカーがすごく好きなのだろう。

 彼目当てにスカウトが来ていると、女子サッカー部の部活で聞いた記憶がある。 


「あれは偶然です。唯さんやバニーなど、周囲の選手が凄すぎたから、相手が私のチェックをおろそかにしていただけ。三年連続得点王の選手を、マークから外すわけにはいかないでしょう」

「だけど、やっぱりすごかったと思うぜ。何度倒されても前を向いてたしな」

 彼は、手振り交えて解説してきた。

 こういう話を聞くと、試合に出られてやはり嬉しく思えてきた。

「本当に普通の奴なら、とっくに諦めて心が折れてたと思うぜ」

「……本来なら、私じゃない選手が出るはずの枠でしたから。中途半端な姿は見せられませんでした」


 あの時実際は、心なんてとっくに折れそうだった。

 世界のトップレベルが集うピッチの上で、何度も無慈悲に叩きつけられ、圧倒的なフィジカルの差に絶望した。

 それでも、いくら監督との賭けに勝ったからとはいえ、本来なら出場するはずだった他の選手の枠を、私が奪ってしまったのだ。

 なら、どんなに無様で惨めでも、ピッチを降りるその瞬間までは前を向いて、ゴールを目指すことしか出来ないと思った。

 それが私の責任だと思ったし、フォワードのやることはゴールを狙う事だから。


「そういえば綿津見、なでしこには行かないのか?」

「私は、日本のピッチには立てないと思うので」

 ズキッと心が痛むがこれに関してはもうあきらめがついていた。

「そうか……。なぜか国内の試合にも出てないもんな。先生に理由を聞いても、事情があるの一点張りだし。何か、俺に手伝えることはないか? ……勝手な罪滅ぼしだけどな」

「でも上野さんは、唯さんに私を紹介してくれましたよね」

「俺は『すげえ奴がいる』って伝えただけだ。あのチャンスを実力でもぎ取ったのは、お前自身だよ」

 その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。

「たまにでもいいので、また男子の練習に参加させてもらえませんか。向こうで、身体の使い方がなっていなかったので、負けてばかりなので、もっと鍛えたいんです」

「分かった。俺からも先生に頭を下げてお願いしておくよ」

「ありがとうございます」


 そうやって、容赦なく照りつける西日の下で上野君と言葉を交わし、そろそろ別れようとした、まさにその時だった。 

 ふいに、私たちのすぐ近くに一台の車が停まった。

 助手席のドアが開いて、栞が焦った様子で降りてくる。


「綾さん! 大丈夫!?」

 開いたドアの隙間から運転席に目をやると、水無月さんの姿が見えた。

 私が気づいて彼女に一礼したら、水無月さんも軽く頭を下げて、そのまま駐車場の方へと車を走らせていった。 


「大丈夫って?」

「だって……」


 栞はそこまで言って言葉を詰まらせ、私の隣に立つ上野君を強く睨みつけた。

 栞はどうやら以前の事をまだ寝に持っているみたいだった。

 なんで被害者の私ではなく栞が根に持っているのか不思議だけど。

「普通はそういう態度になるよな」

 上野君は栞の険しい表情を見て、そう言っていた。

「当たり前でしょ。また綾さんに何かしようとしているのでは?」

「違うって、たまたま家に帰ろうとしたところで綿津見に会ったから、あの試合をの事を聞いてただけだよ」

「私は何もされてないよ。大丈夫」


 私が両手にスーパーの買い物袋を下げたまま、淡々と間に入っても、二人の間の火花は収まらなかった。

 上野君は困り果てたように、少しだけ視線を泳がせた。


「綿津見と話すには、霧生の許可が必要なのか?」

「違うけど、だけど……どうせ綾さんの事だから気にしてないとか言ってるんでしょ」

「まぁ当たりだな」

 そう言って上野君は力なく苦笑いをしていたけど、この緊迫した空気の、一体どこに笑う要素があるのだろう。

 私には彼のその感情の機微が、やっぱりどうしても理解できなかった。


「何が楽しいか、とか思っていそうだな」

 私の顔を見て、上野君が呆れたように言った。

「綾さんだしね」

 隣で栞も、同じように深くため息をつく。

 確かに心の中でそう思ってはいたけれど、なぜ二人とも揃ってそんな呆れ顔をしているのか、私にはさっぱり分からない。


「二人とも、なんでそんな疲れた目で私を見るの?」

 私が両手に買い物袋を下げたまま尋ねると、上野君は諦めたように首を振って、今度は栞の方を向いた。

「霧生」

「なんですか、上野先輩」

「こいつをどうにかするの、めちゃくちゃ大変だぞ」

「はあ!?」

 栞はなぜか、上野君にそう言われた瞬間に顔を真っ赤にしていた。


 今の会話のどこに照れる要素があるのだろうか。

 それとも本当は、栞は上野君のことが好きで、私が彼と親しげに話しているからやきもちを焼いているのだろうか……。

 もし、そうだとしたら。


「栞、ごめん」

「えっ、ごめんって、綾さん何が?」

 急に謝った私に、栞が目を丸くする。

「栞が上野君のことが好きで、私が話していたからやきもちを焼いたのかなって」

「違うから! なんで私がこんな奴を!」

 そうやって栞が必死になって抗議をすると、上野君は緊張感の解けた様子で、すごくケタケタと笑い出した。

「あはは、俺はもうとっくに諦めてるからな。……何しろ、世間じゃ『国民の妹』なんて言われてる霧生が相手だしな」

 冗談めかす上野君のことを、栞はすごく鋭い目で思いきり睨みつけていた。

「おお、怖い怖い」

 上野君はわざとらしく身をすくめてまた笑っている。

 そしたら急に、それまで怒っていたはずの栞も、その瞳にみるみる涙を浮かべて、上野君と一緒に笑い出した。

 突然の彼女のその反応に、さっきまで軽口を叩いていた上野君のほうも、一体どうしたのかというように戸惑っている感じがした。


「あはは、ごめんごめん。……まさかあんたが、普通の高校生と同じように私を扱ってくれるとは思わなくてね。そんな風に接してくれる相手って、綾さんしかいなくて。みんなは私のことを、どうしても『芸能人の霧生栞』っていう風に見てたからさ」


 栞は目元に浮かんだ涙を指先で拭いながら、どこか晴れやかな顔で言った。

 上野君は少しバツが悪そうに頭を掻きながら、彼女の言葉に応じる。

「いまさら、元は敵だった奴のことを『芸能人の霧生栞』としては見られないしな」

 二人のやり取りを両側の買い物袋を下げたまま眺めながら、私は純粋な疑問を口にした。

「栞と上野君って、喧嘩してたの?」

「してないから、綾さん」

 栞は呆れたように苦笑しながら、私の前に一歩歩み寄って、その表情を和らげた。

「綾さんがもう、あの件を何とも思っていないのなら、私も上野先輩に対してああいう態度をとるのはやめるね。……今まで、ごめんね」


 栞は私から上野君の方へと向き直ると、言葉の終わりに合わせて、彼に向かってしっかりと頭を下げだした。

「いや、そもそも全部悪いのは俺だしな。霧生は気にするな。……じゃあ、俺はそろそろ帰るわ。綿津見、またどこかで話そうぜ」

「もちろん、またね」

「ああ、じゃあな」

 上野君は手を軽く振ると、今度は引き留められることもなく、歩道を歩いて去っていった。

 何かよく分からないけれど、栞と上野君が仲直りをして、友達になったみたいだ。


「栞?」

「何、綾さん? ……あ、その荷物、半分持つね」

 栞はそう言って、私の右手に下がっていた重いレジ袋の持ち手を自然に受け取ってくれた。

 軽くなった手を一度握ったり開いたりしながら、私は隣を歩き出す。

「うん、ありがとう。今日はスーパーで鶏肉が安かったから、夜ご飯はから揚げだよ」

「本当に? やった、楽しみ」

 隣で弾む栞の声を聞きながら、私はアスファルトからの熱気を受け止める。

 なんだか、イングランドに行く前の、あの頃の雰囲気にすっかり戻ったような感じがした。

 今朝、あのDVDを見てしまったときの、胸の奥にあった言葉にできない気怠さや気まずさ。そして、日本に帰ってきてからのお互いの変な空気感が無くなった気がした。

「Liebe」をお楽しみいただけましたか?


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