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【三部開始】 Liebe   作者:
3部 1章 最高のイングランドの経験

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44話S 私の気持ちは

 部屋の空気が重い。カーテンの隙間から差し込む夕陽が、ベッドの上のクッションを淡く橙色に染めている。

 今日、綾さんが帰ってくる。

 その事実だけで、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。息をするのも苦しい。

 スマホの画面を何度も更新する。ヨーロッパの移籍市場は今、真っ只中だ。

 ハウスキーパーの契約は確かに8月末まで残っている。でも、9月になれば——。

 「もう、止める理由なんて何もないよね……」

 指先が震える。画面に映るのは、綾さんがシティの練習場で撮られた笑顔だった。

 汗で濡れた前髪、輝く瞳、そして——私が見たことのない、純粋で無垢な笑顔。

 レアル戦での1ゴール1アシスト。

 練習初日の紅白戦で2ゴール1アシスト。

 無名の17歳の日本人少女が、世界の頂点にいるクラブで輝いている。

 ネットの記事で彼女のことを「未来の星」と書いていた。

 ただトライアウトが終了したので彼女の情報はこれ以上なかった。


 ……本当に、綾さんのことを想うなら、喜んであげなきゃいけない。

 わかってる。頭では、ちゃんとわかってる。

 なのに、目から涙が溢れて止まらない。

 普段なら、流そうと思えば流せる。泣きたいのを我慢しようと思えば我慢できる。

 でも今は、感情が勝手に喉を熱くして、視界をぼやけさせる。

 同性だ。

 脈なんて、最初からあり得ない。

 それでも、好きになってしまった。

 「なんで……私、こんなに……」

 声が掠れる。

 ベッドサイドに置いてあったクッションを両手で掴み、壁に向かって全力で投げつけた。

 どんっ、という鈍い音が部屋に響く。

 クッションは壁に当たって跳ね返り、床に落ちてから転がった。

 その拍子に、台本のページが何枚かめくれ上がる。

 今度のドラマで覚えなければならないセリフ。

 でも、文字が全く頭に入ってこない。

 私は膝を抱えてベッドにうずくまった。

 スカートが皺になるのも構わず、額を膝に押しつける。

 無茶苦茶言ってるって、自分でもわかってるのに理不尽な気持ちがあふれてくる。


「ただいま」

 玄関のドアが開く音と同時に、柔らかい声が響いた。

 私は部屋のドアを少しだけ開けたまま、ずっと待っていた。

 その瞬間、身体が勝手に動いていた。

 廊下を駆け出し、彼女の姿を目にした途端、胸の奥で何かが弾けた。

 私は迷わず、彼女の豊かな胸に飛び込んだ。

 むにゅっと、柔らかくて温かい感触が顔全体を包み込む。

 甘い、優しい匂いが鼻をくすぐった。

 私は顔を強く押しつけるように、両腕を彼女の背中に回してぎゅっと抱きしめた。

 離したくない。この温もりを、全部自分のものにしたい。


「……どうしたの、栞?」

 綾さんの声が少し戸惑っている。それでも彼女は、私の頭を優しく抱き寄せてくれた。

 優しい手が、Tシャツの背中をゆっくりと撫で下ろす。

 「戻って……きてくれた……」

 声が震えて、うまく言葉にならない。

 熱い涙が溢れ、綾さんの白いブラウスに染みを作った。

 嬉しすぎて、怖すぎて、胸が張り裂けそうだった。

 綾さんは私をそっと抱き返しながら、困ったように小さく息を吐いた。

 銀色の長い髪が、私の頰に触れてさらりと滑る。


 「ただいま。……戻ってきたけど、どうしてそんなに不安そうなの?」

 その言葉に、身体がびくっと反応した。

 私はさらに強く腕に力を込めた。

 細いウエストなのに、抱きしめると驚くほど芯が強い。

 私が全身の体重を預けているのに、綾さんは微動だにしない。

 まるで大木のように、根を深く張った存在感。

 顔を上げると、赤い瞳が私を真っ直ぐに見下ろしていた。

 「どうしたの? たった一週間、家を空けていただけでしょう?」


 ……一週間。

 彼女にとってはそうかもしれない。

 でも私にとっては、夏休みの毎日が不安と想像で埋め尽くされ、永遠のように長かった。

 「……もう、日本には帰ってこないんじゃないかって、思ってた」

 掠れた声で答えると、綾さんはふっと柔らかく笑った。

 「ん? それとも、私が帰ってこない方がよかった?」

 「誰も、そんなこと言ってないよ!」


 綾さんだ。

 私の知っている、優しくて少し天然な所もある、あの綾さんだ。

 私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じて、ようやくぎゅっと抱きついていた腕をゆっくりほどいた。


「おかえりなさい……」

 声が少し掠れていたけど、ちゃんと笑顔を作れた。

 綾さんは「ただいま」と柔らかく返してくれた。その自然なやり取りに、ほんの少し安心した。

 ふと視線を下げると、綾さんの足元に白いスーパーの袋が置かれていた。


「綾さん、それ……?」

「今日のご飯。何か変?」

「いいの……? 帰ってきたばかりなのに」

 綾さんは肩をすくめて、いつもの少しからかうような笑みを浮かべた。

「私はこの家のハウスキーパーだけど、首になった?」

「違うってば! そうじゃなくて……せっかく戻ってきたのに、無理しなくてもいいのにって思って」

「作りたいから買ってきたの。……いらないなら今日は作らないけど」

「そういうことじゃなくて……!」

 私は頬を熱くしながら慌てて首を振った。

「久しぶりに、綾さんのご飯が食べたいの。まさか今日食べられるとは思ってなかったから……本当、食べたい」

 すると綾さんの赤い瞳が優しく細められた。

 銀色の長い髪が夕陽に透けて輝き、唇の端が少し上がる。

 恥ずかしそうで、嬉しそうで。

 すごく綺麗で、可愛らしい顔。


「うん、なら少し部屋に戻って着替えてくるわね。栞は悪いけど、買い物の荷物を冷蔵庫に入れておいてくれる?」

「……かまわないよ。綾さんのご飯のためなら、喜んで」

 私は袋を両手で抱え上げながら、胸の内で小さく息を吐いた。


 私が冷蔵庫に最後の袋を押し込み、扉を閉めたその瞬間。

 綾さんがリビングルームに入ってきた。

 軽やかな足音がして、すぐに奥のキッチンへ向かう。

 冷蔵庫を開け、夏野菜やじゃがいも、にんじん、玉ねぎを次々と取り出す。

 透明のボックスからカレールーの箱を取り出すのを見て、なるほど、カレーなのかもしれないと思った。

 何往復か冷蔵庫と調理台の間を行き来したあと、綾さんは部屋の隅にある備え付けの電話を取った。

 受話器を耳に当て、静かに話し始める。


 「……ただいま戻りました。今、夕食を作っているのですが、もしよろしければご一緒にいかがですか?」

 二人きりのご飯ではないけれど、秋子さんだったら仕方がない。

 きっとお土産も渡したいのだろう。

 私はキッチンの入口から、そっと綾さんの料理する姿を盗み見ていた。

 多分、ばれてはいないと思う。

 やがて綾さんの料理が一段落したので、私も配膳を手伝うことにした。

 予想通り、夏野菜をふんだんに使ったカレー、サラダ、そしてコーンスープが並んでいた。

 配膳が終わり、私たちが席に着こうとしたちょうどその時、玄関の方から秋子さんの声がした。

「お邪魔します。綾さん、お帰りなさい」

「ただいまです」


 私たちが席に着き、「いただきます」の挨拶をしっかりと交わした。

 一口食べると、トマトの酸味がしっかり効いたカレーが口いっぱいに広がる。

 夏野菜の甘みとスパイスのバランスが絶妙で、とても美味しい。


 綾さんは足元に置いていた紙袋を取り出し、綺麗なケースを私と秋子さんにそれぞれ渡してきた。

「何がいいのか分からなくて……定番だけど、チョコレートを選んでみました」

「ありがとう、綾さん」

 私と秋子さんが、ほとんど同時に感謝の言葉を返した。

 綾さんは、少し照れたように微笑みながら、銀色の長い髪を耳にかける仕草をした。

 赤い瞳が柔らかく細められ、頬がほんのり桜色に染まっている。

 その表情が、普段の凛とした綾さんとは違って、すごく可愛らしくて。

 私は一瞬、胸が締めつけられた。

 綾さんは照れを隠すように軽く咳払いをして、続けた。


「水無月さん。唯さんから伝言を預かっているんです」

「私に? ……なあに?」

「はい。『秋ちゃんの要望通りにはならなかったけれど、いろいろと前には進んだ気がする。私にとってもね。また帰国した時、またいっぱい話そうね』とのことでした」


 秋子さんは複雑な表情を浮かべ、小さく微笑んだ。

 ……何を唯さんに頼んだの?

 私は思わず秋子さんを強く睨んでしまったかもしれない。

 食べていたスプーンが止まり、胸の奥で不安が渦巻き始める。


「どうしたの、栞? 仕事で何か嫌なことでもあった?」

 綾さんから急に声をかけられ、私はびくりと肩を震わせた。

 仕事で嫌なことなんてない。

 ただ、本当のことは言えないだけ。

「……べつに。いつも通りだよ」

 小さな声で、それだけ言うのが精いっぱいだった。

「ただ、ずっと綾さんの食事が食べられていなかったから……元気が出ないだけかも」

 私の声は小さく、テーブルに落ちるように消えていった。

「もう大丈夫よ。夏休みが終わるまでは、しっかりと家事をさせてもらうからね」

 綾さんの声は優しく穏やかだったが、その言葉が今は胸にずっしりと重くのしかかった。

「夏休みいっぱい。……それ以降は?」

 やはり夏休みが終わったら、イングランドに行くの?

 本音を言いたいのに、聞くのが怖くて喉がからからに乾く。指先が冷たくなって、息が浅くなる。

「それは……分からないわ。最初の約束は『夏休みいっぱい』だったから、それ以降は話し合いじゃなかった?」

 カチャリ、とスプーンが皿に当たる音が、部屋の中に大きく響いた。

 私は気づいた時には立ち上がっていた。

 椅子が後ろにずれる音が耳に刺さる。膝が少し震え、指先が冷たい。

 綾さんを真正面から見つめた。

 銀色の長い髪が照明の下で淡く光り、心配そうに私をじっと見つめている。

 その綺麗な瞳を見ているだけで、胸の奥が締めつけられて言葉が出てこない。

「……そうだけど」

 声が掠れて、ほとんど息のようにしかならなかった。

「今日の栞、どうしたの? 何を不安がっているの?」

「別に。いつも通りだよ」


 そうじゃない。

 ここで「九月以降はどうするの」と聞けばいいのに、勇気が出ない。

 唇を強く噛んだまま、私は結局食事を終えて、自分の部屋に戻った。

 秋子さんが帰ったのを確認してから、震える指で彼女にメールを送った。

『あとから秋子さんの部屋に向かうから』

 すぐに「了解」の返信だけが来た。


 私は、綾さんがお風呂に入ったのを確認してから、そっと部屋を出た。

 廊下の冷たい床が足の裏に張りつき、心臓の音が耳にうるさい。

 同じマンションの秋子さんの部屋へ向かい、チャイムを鳴らす。

 すぐに「空いてるわよ」という、いつもの柔らかくて優しそうな声が返ってきた。

 ドアを開けると、秋子さんはリビングルームで私を待っていた。


 テーブルの上には、湯気の立つミルクティーが二つ。

 甘い紅茶の香りが、部屋いっぱいに漂っている。

「栞、一旦それでも飲んで落ち着いたら」

 私は言われるままにカップを両手で包み、温かさを確かめながら一口飲んだ。

 舌に優しい甘さとミルクのまろやかさが広がる。でも気持ちは全然落ち着かない。

 私はカップを置くなり、秋子さんをキッと睨みつけた。

「私が唯にお願いしたのが気に入らないの?」

「わかってるのに、そんな風に聞くのは卑怯だよ」

「そうね。でも唯の件で来たのでしょう?」

「そうだけど……何をお願いしたの?」

「別に大したことではないわ。彼女が向こうで存在感を出せたら、背中を押してもらえないかしらって言っただけよ」

「何で!」

 私は思わずテーブルをバンと叩いて立ち上がった。

 手のひらが熱く痺れ、椅子が後ろに勢いよく倒れそうになる。

 秋子さんを見下ろしながら、声が震えた。

「彼女の為だから、そしてあなたの為でもあると思ってるわ」

「どういう事?」


 私は不機嫌を隠さずに聞き返した。

 彼女は、静かに息を吐き、穏やかな目で私を見つめ返してくる。

「わかってるのに、そのように聞くのはよくないと思うんだけど。栞に聞くけど、このまま彼女が日本で頑張って、日の光が出ると思うの?」

「それは……」

 言葉が詰まった。

 喉の奥が熱くなって、胸の奥がざわつく。

 否定できない自分が、悔しくて仕方なかった。

 出るはずがない。


 綾さん自身に問題なんて、何もないのに。

 母親が自分の旦那を殺して、綾さんまで道連れにしようとした。

 最後は、綾さんの目の前で自ら命を絶ったという。

 これだけで、十分にスキャンダルだ。

 どんなに圧倒的な実力があっても、この暗い過去がすべてを飲み込んでしまう。

 表向きは「親の罪は子供には関係ない」と言うけれど、そんなのはただの建前。

 日の光が強く当たれば当たるほど、この黒い鎖は彼女の細い身体を、容赦なく締め上げていく。


「彼女はプレマッチを見たように、やはり実力があり、サッカーに情熱を持っているわ。だから唯にお願いをしただけよ。綾ちゃんはその誘いを断ったみたいだけど」

 秋子さんはそう言って、スマホの画面を私に見せてくれた。

 差出人は唯さんだった。

 『「君が留学ビザを取得して、現地の学校へ真面目に通いながら、うちの練習に参加すればいい。日本で普通に練習を重ねるより、ここで過ごす時間の方が何倍も実りが多いはずだ」って監督、そこまで綾ちゃんを買ってたよ。そして断った後で、「明日帰るって言いました。もしそれでも興味があるんだったらまた〇からチャレンジさせてください」って、そこまで言い切って断ったよ』


 本当に綾さんは、生真面目というか……なんというか。

 綾さんらしいと思った。

「冬休みも呼ばれてるみたいよ」

 確かにその後にそう書いてあった。

 私はドキッとして、胸の奥がざわついた。

「一八歳までは大丈夫だから安心しなさい」

 秋子さんは確信を持った声でそう言って、優雅に紅茶を一口飲んだ。

 カップを置く仕草さえ、まるで「その前に座って落ち着きなさい」と言わんばかりに飲んでいた。

 私は素直に椅子に腰を下ろし、秋子さんの話の続きを聞いた。


「国際サッカー連盟のルール上ね。一七歳までの外国人の入団は禁止なの。例外はあるけど、それが先ほど書いてあった学業をしっかりやった上の留学ビザね。それでも試合には出られないと思うけど」

「なら……」

「そう。完全なプロ契約をするとしたら一八歳。でも彼女の誕生日は四月なの。向こうのシーズンは五月後半ぐらいで終わり、八月か九月あたりに次のシーズンが始まるから、この一年は無事だとは思うわよ」


 一年は大丈夫なんだ……。

 私はサッカーのルールにそこまで詳しくなかった。

 秋子さんが私のマネージメント以外にも、綾さんのことをここまでしっかり考えてくれていることが、少しだけ嬉しかった。

 でもその嬉しさの裏側で、胸の奥がちくちくと疼く。


「私の為って?」

「それこそ愚問よね」

 秋子さんにきっぱりと言われ、私は何も言い返せなかった。

 唇を強く結び、視線をテーブルに落とす。

 指先が無意識にカップの縁をなぞり、熱い紅茶の残り香が鼻をくすぐるのに、喉はからからに乾いていた。


「貴女は茶の間でも有名な女優よ。わかってるわよね」

「わかってるけど……」

 私は唇を強く噛み、視線を逸らした。

「レズでしたって、世間が許すと思うわけ?」

「レズじゃない」

 声が少し尖った。

「綾さんの事が好きなんでしょ。恋愛的な意味で」

「そうだけど、同性愛者じゃない。綾さんだから」

「同性を好きになった=同性愛者って、世間はそう思うの?」

「私だったら……」

 言葉が詰まる。指先が無意識にテーブルの端を強く握りしめていた。

「私だったら何を言われても大丈夫って言いたいの?」

「そうだけど……」

「彼女の家のスキャンダルを踏まえて、それでも言えるの?」

「もちろん」

 私は秋子さんを真正面から睨みつけた。でも声が震えていた。

「彼女がまたいろいろ攻撃されても、あなたは無事だと言えるわけね」

「それは……」

 私の熱はそこで急に冷えた。

 胸の奥が一瞬で凍りつき、何も言い返せなくなってしまった。

 喉が熱く、目頭がじんわりと痛くなる。

「有名女優のお相手は同級生の女性。その過去は……きっとどれだけ隠そうとしてもばれるわよ」

 秋子さんの声は静かだったが、容赦なく突き刺さってきた。

 私はすごく泣きそうな顔で彼女を睨み続けていた。

 視界がぼやけ、まつ毛の先が湿るのを感じる。

「これがまだひとつだったらいいんだけど、マスコミの絶好の餌食になるわよ。でも外国なら自分の力でどうにでもなれるわ。だから背中を押したの」

「だけど……」

「私も彼女の事を思ってと言ってるけど、もちろん水無月芸能事務所の事も計算に入れてるわよ」

「うん……」

「今日はゆっくり休みなさい。そして彼女としっかり話し合いなさい」


 先ほどまでのきつい表情が消え、秋子さんはいつもの優しいお姉さんの顔に戻っていた。

 柔らかな微笑みと、穏やかな眼差し。

 その優しさが、余計に胸に染みた。

 私は何も言えずに小さく頷いた。


 その後、重い足取りで自分の部屋へと戻った。

 廊下の冷たい空気が火照った頰を刺すように冷たい。

 部屋のドアを閉めた瞬間、膝から力が抜けてその場にしゃがみ込んだ。


 ……綾さん。

 好きだという気持ちが、こんなにも重くて、苦しくて、怖いなんて。

 私は膝を抱え、額を腕に押しつけた。

 熱い涙が一筋、静かに零れ落ちた。

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