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【三部開始】 Liebe   作者:
3部 1章 最高のイングランドの経験

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43話A 帰国へ

 私は唯さんの家に泊まらせてもらっている部屋を、来たとき以上に綺麗に片付けた。

 時計はもう深夜に近かったけど、唯さんの部屋のドアをそっとノックした。


「まだ起きてますか……?」

「いいよ、入ってきて」


 ドアを開けた瞬間、少し息を飲んだ。

 唯さんはソファの背もたれに体を預け、鼻に透明な細いチューブを通していた。

 部屋の隅では、見慣れないスタイリッシュな金属製の機械が、低い駆動音を静かに響かせている。

 淡い青白い光が、機械の透明なボトルの中で細かな泡を無数に弾かせていた。

「あ、ごめんね。びっくりした?」

 唯さんはチューブをつけたまま、いつもの柔らかい笑顔を向けてくれた。

 その声は少し掠れていて、今日の試合の疲れが滲んでいた。

「これ、高濃度の水素と酸素を吸う機械なんだ。激しい試合や練習の後は、こうやって呼吸からリカバリーするのが一番身体がすっきりするの。……私の、試合後のルーティンみたいなものかな」


 私は今日、マッサージの後に同じ機械を使わせてもらったばかりだった。

 それでも、唯さんが自分の部屋でまでこんな本格的なケアをしている姿を見ると、胸の奥が静かに震えた。

 稼働する機械の低い唸り音と、ボトルの中でせわしなく弾ける泡の音。

 無機質で、でもどこか優しいその音を聞きながら、私は改めて思った。

 世界で戦う選手は、ピッチの外でもこんなに自分の身体をいたわっているんだ……。

 練習や試合だけじゃなくて、日常のすべてを整えながら戦っているんだ。


 機械から「ピッ」という短い電子音が響いた。

 同時に、ボトルの中で激しく踊っていた細かな気泡が、すうっと消えていく。

 透明だった水が、再びただの静かな液体に戻った。

「あ、タイマー切れちゃった。もう一時間も経ってたんだね」

 唯さんは名残惜しそうに肩をすくめ、鼻からチューブをゆっくり外した。

 少し汗ばんだ額と、試合後の疲れが残る柔らかい表情が、部屋の柔らかい照明に浮かび上がる。

「ちょうど終わったみたい。綾ちゃん、ソファに座ってて。これの手入れしたらちゃんと話聞くから」

「はい……」


 唯さんは慣れた手つきでチューブの先端を丁寧に拭き、透明な専用ケースに丸めて収めた。

 それから専用の水を新しいボトルに注ぎ、私の隣にちょこんと腰を下ろした。

 身長差のせいかもしれない。

 パッと見は、本当にサッカー選手には見えない。小さくて、華奢で、どこか守ってあげたくなるような姿だった。

 公式プロフィールでは身長160センチに満たず、体重も50キロ以下と書かれていた。

 イングランド女子サッカーの平均身長は165センチ以上で、フィジカルが強い選手ばかりの中で、彼女が体格負けして倒される場面を、私は一度も見たことがなかった。


「どうしたの? 興奮して寝られないの?」

「そういうんじゃないです……お礼を言いたくて」

「お礼?」

 唯さんは本気でわからないという顔で首を傾げた。

「最初は、なんで唯さんにそこまで言われなきゃいけないんだろうって思ってましたけど……」

「あれはね、サッカー好きなくせにどんどん孤立しているあなたを、ちょっとだけいじめたかっただけだよ」

 舌を小さく出して笑う唯さんに、私はどう反応していいかわからず、ただ頬を緩めた。

「そういえば……契約を破棄するの、わかっていたんですか?」

「栞ちゃんに『帰る』って言って、反故はしないでしょ。それにあなたには、日本でちゃんとケリをつけないといけないこともあるしね」

「ケリ……ですか?」

 私は唯さんの言葉の意味が、うまく掴めなかった。

「今のあなたは、少し前までのあなたとは違うんだよ。私もいるし、このチームの人もね。でも日本では栞ちゃんや秋ちゃんもいるでしょ」

「何でそこで栞や水無月さんが出てくるんですか?」

「そっかぁ……今日、試合が始まるまで何度もスマホをチェックしてたよね」

「そうですか……?」

 そんなにチェックしていただろうか。

 自分ではそこまで意識していなかったのに、唯さんには全部見透かされている気がして、少し居心地が悪くなった。

「少なくとも家を出発するまでに三回、クラブハウスで二回、スタジアムについてからも二回。合計七回は見てたよ。どうして?」

「そんなにしてません……」

「栞ちゃんからのメールが来ないから、気になってたんでしょ?」

「何でそこでまた栞が出てくるんですか?」

 つい声が少し高くなってしまった。

 意識して上げたわけじゃないのに、思わず甲高い声が出てしまい、自分でも少し恥ずかしくなった。頬が熱くなるのがわかる。

「秋ちゃんがメールを送らないでしょ。学校もない。なら残るのは栞ちゃんだけじゃない」

「何でと言われましても……昨日メールを返したら一向に返信がなくて、何かあったのかなと思って……」

「そうなんだ。どんなメール送ったの?」

「見ますか?」

「いいの?」

「構いませんけど……楽しいものじゃないですよ」


 私は少し迷いながらスマホを唯さんに差し出した。

 画面に並んでいたのは、たわいもない日常のメールだった。

 この土地に来てからの写真を何枚か添付しただけの、素朴で短い内容。

 ムーンシティのメンバーとバーで食事をしたときの賑やかな写真、唯さんの家にみんなが遊びに来てくれたときの集合写真、チームスタッフが撮ってくれた練習風景——。

 どれも特別な出来事ではなく、ただの日常を切り取ったものばかりだった。


 唯さんは画面をじっくりと眺めながら、時々「あ~」とか「う~」とか小さく唸っていた。

 眉を少し寄せ、指で画面をスクロールする仕草が妙に真剣に見える。

「どうかしたんですか?」

「いや……綾ちゃん、笑顔が多いなって思って」

「悪い事ではないですよね?」

 笑顔が多いから唸られるなんて、初めて聞いた。

 もちろん真剣な場面で笑っていたら不真面目だと思われるかもしれないけど……なんで?

「日本にいた頃の綾ちゃんは、サッカーをしていてもこんな笑顔、ほとんどなかったよ」


 そう言われて、私ははっとした。

 確かにそうだ。

 それはつまらないとかではなくて……なんだろう? 

 胸の奥がざわつくような、言葉にできない感覚だった。


「栞ちゃんは少し嫉妬したんじゃないかな?」

「嫉妬ですか? どうして?」

「ん~……栞ちゃんと綾ちゃんって、仲のいい友達だよね」

「栞がどう思っているかはわかりませんが……私にとっては命の恩人だと思っています」

「ん~、栞ちゃんは綾ちゃんの自然な笑顔を、じかに見たことがないから嫉妬したんじゃないかなって思っただけ」

「どうして……?」

「本人に聞いてみてもいいんじゃない? 明日には帰るんだしね。会えるのは明後日になるのかな」

「そういえば、時差の事すっかり忘れてました。栞はもう現場から帰宅してますよね」

「多分ね。確か向こうも今日仕事が終わるんだったよね。一泊したとしても、明日の夜には着くんじゃないかな」

 唯さんは優しく、けれどどこか真剣な目で私を見つめた。

「栞ちゃんとは、納得するまで話した方が良いよ」

「どうして先ほどから栞が出てくるんですか?」

「お姉さんからの心配事かな。それ以上は言わないよ。……で、綾ちゃんの相談は何だったの?」


「ここまで……本当にありがとうございました」

 私はソファから立ち上がり、深く頭を下げて、そしてソファに座り直した。

「うん。この間渡したノートを見て練習すればいいと思うよ。そしてここでもらったスポブラで練習するのはもちろんだけど、いつもの姿でも軽く練習はしておいてね」

「本当にスポブラ付けてると胸とか痛くならないからすごいですよね」

「綾ちゃんは無駄に大きいから余計にそうなるんでしょうね」

 唯さんは少し意地悪そうに目を細めて、くすっと笑った。

「気づいてると思うけど、綾ちゃんのあの独特のリズムのドリブルは、これからも生きるから」


 そう言って唯さんは立ち上がり、机の引き出しを開けた。

 中から一枚の名刺を取り出し、私に差し出してくれた。

「それもあげる」

 唯さんはそう言って、私に名刺を差し出した。

 受け取った名刺には、シンプルで上品な文字で「櫻華流古武術」と書かれていた。

「格闘技ですか?」

「体の使い方を教えてくれるよ」

「格闘技ですよね?」

「私も体の動かし方の基礎だけ教えてもらったかな。有名どころだと、バロンドールも獲ったフランスの英雄ジルベールは幼少の頃に柔道をやってたという話もあるよ」

 それは知らなかった。

 なんで柔道だったんだろう……と一瞬考えたが、すぐに唯さんの言葉が続いた。

「私は身長が低いからね。いろいろ考えた末、身体の動かし方だけを古流の武術で学んでいたの」

「そうだったのですね……」

「その名刺の人に、私の名前を出せば、格闘技ではない体の動かし方をちゃんと教えてくれるよ」


「本当にありがとうございます」

「綾ちゃんはまだ若いんだから、人生諦めるな」

 そう言って唯さんは立ち上がり、座っている私の頭を優しく撫でてくれた。

 温かくて、小さくて、でも力強い手のひらだった。

 その感触に、胸の奥に温かいものを感じた。

「もしプロになれたら……もちろんその時も求められたら、私はこのチームに来たいと思います」

「うん。楽しみに待っているよ。冬はクラブが招待すると言ってるから、その時にはレベルアップした綾ちゃんを楽しみにしてる」

「その時は唯さんを抜けるように頑張ります」

「また泣かしてあげるよ」

「はい」

 私はそう言って、うまく笑えたかどうかわからないけど、精一杯笑顔を作った。

 唯さんも静かに微笑み返してくれた。

 私は唯さんの部屋を出た。


 次の朝。

 さすがに唯さんもクラブの練習があるので、クラブ側が心配してくれたのだろう。

 ロンドン行きのフライトに合わせて、少し体格の良い男性スタッフさんが付き添いをしてくれた。

 マンチェスターの空港でお別れではなく、ヒースロー空港まで一緒に来てくれた。

 セキュリティを抜けた後、スタッフさんは穏やかな笑顔で私に言った。


「ありがとうございます。ムーンシティの皆さんにも、ありがとうと伝えておいてください」

「監督が、冬にまた会えるのをチーム一同楽しみにしていると言っていましたよ。それでは、よい帰国を」

「はい……本当にありがとうございました」


 スタッフさんは軽く頭を下げ、私の荷物がきちんと預けられたのを確認してから、ゆっくりと踵を返した。

 搭乗ゲートに向かう長い通路を、一人になった瞬間、色々な事を思い出していた。


 夏休みに唯さんにあった事。

 唯さんにボロボロに負けて泣いた事。

 栞が支えてくれて、背中を押してくれた事。

 ムーンシティでの一週間。

 紅白戦の事

 ムーンシティのみんながパブで歓迎会をしてくれたこと。

 パブで出会ったサポーターの熱意

 一週間のプロの練習。

 初めての世界の舞台。

 プレマッチ戦。

 エティアス・スタジアムの熱意

 得点を決めた時の感触。

 66番のユニフォームや使用したボールなどのプレゼント。

 唯さんの部屋で交わした夜の会話。

 すべてが、夢のように鮮やかで、でももう終わってしまった。

 私は搭乗券を握りしめ、ゆっくりと息を吐いた。

 これで、本当に……

 私のシティWFCでの一週間のトライアウト生活は、終わったんだ。

 さぁ日本に戻ろう。


 私と栞の関係が、想像もできないくらい大きく変わるなんて。

 今の私は、まだ何も知らなかった。



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