42話 人生が変わると感じた日
悪夢はアディショナルタイムに待っていた。
ルシア選手が、爆発的な高速ドリブルでディフェンスを置き去りにし、強烈なシュートを放った。
万事休すかと思われたその瞬間、守護神・山瀬さんが、驚異的な反応で拳を突き出し、ボールを鋭くパンチングではじいた。
私は、命拾いしたと思ってほっと胸を撫で下ろした、その時だった。
はじかれたボールがルシア選手の頭上を越え、その真後ろへと弧を描いて落ちる。
彼女は、ボールから目を離さず、体をひねりながら宙へ跳んだ。
まるで格闘技のバックスピンキックだった。
空中で反転した彼女のかかとが、正確にボールを捉える。
吸い込まれるような軌道を描いたヒールシュートに、ピッチ上の誰もが、そしてベンチの私たちさえも一歩も動くことができなかった。
ネットが残酷に揺れ、非情なゴールが告げられる。
握りしめていたスポーツタオルが、私の手から力なく床へ落ちた。
人の反射神経を超えていると思った。
彼女がなぜ黒豹と恐れられているのか。
私はその本当の意味を、初めて理解させられた。
結局、プレマッチは2対2の同点で幕を閉じた。
試合が終わり、静まり返っていくピッチをしばらく眺めていた私は、少しだけ感慨にふけってからロッカーへと戻ろうとした。その時だった。
「ヘイ、66番」
背後から番号を呼ばれ、私は思わず振り返った。そこに立っていたのは、あの劇的な同点ゴールを決めたルシア選手だった。
「本当に日本人はシャイだね。それとも私の英語がわからないのかな?」
「ルシアさん、英語はわかります。ただ……敵陣のベンチに突然来られたので、どうしたのかなと思って」
私がそう答えた、次の瞬間だった。
彼女は何の前触れもなくユニフォームの裾に手をかけると、そのままつるりと脱ぎ捨てて私に差し出してきたのだ。
露わになった彼女の肌は、まるで宝石のような美しい褐色だった。そこに浮かぶ一筋の汗がライトに反射して、息をのむほど綺麗に流れていった。
「あの、ご存じかと思いますけど……私はまだ、トライアウトの選手ですよ。だから、ユニフォームを渡していい立場なのか分からないのですが」
「たかがトライアウトの選手のために、わざわざ来るわけないじゃない」
南米の選手らしい、底抜けに陽気な笑顔が私に向けられる。
「日本人は冷たいね。このままの姿で私を風邪ひかせようっていうの?」
「いえ、ルシアさんが勝手に脱いだだけですよね」
「えーっ。これでもキャプテンやマノン、メリーとじゃんけんして、ようやく勝ち取った権利なんだよ? それを記念にくれないわけ?」
彼女は私のユニフォームを指さしながら、わざとらしく唇を尖らせた。
敵陣のベンチに目をやると、ルシアが口にしたメンバーたちと、ちょうど目が合った気がした。
私は、思わず軽く会釈をした。
向こうのベンチからは「次は叩きのめしてあげるからね」という無言のプレッシャーがひしひしと伝わってきた。
私は小さく一息つくと、自分のユニフォームを脱いでルシアに手渡した。
「ねえ、名前教えてよ」
「アヤ・ワタツミです」
「アヤね。いつこっちのリーグに来るかは分からないけど、また遊ぼうね。……なんなら、私たちのチームに来てくれてもいいんだよ? それじゃあね!」
彼女は言いたいことだけを嵐のように言い残すと、満足げにレアルのベンチへと戻っていってしまった。
「ライバル宣言、受けちゃったね」
「唯さん……そんなんじゃないですよ。ただ珍しかったからじゃないですか? 私はルシアさんとは逆のサイドでしたし、一度も直接対決はしませんでしたから」
「それでも、トライアウトの選手がレアルを相手に1ゴール、1アシストだよ? 明日のニュースの一面は貴女になっちゃうね」
「それは……バニーがいてくれたからです。周囲にも唯さんやメイヤーさんがいてくれたからで、私一人だったら完全に潰されて、自分の実力不足に絶望していたと思います」
「サッカーは個人技も必要だけど、チームスポーツだからね。周囲の力を借りるのも実力のうちだよ」
そう言って、唯さんは私の肩にそっと手を置いてくれた。
「そろそろロッカーに戻ろうか。……それとも、あそこに行きたい?」
唯さんが視線で指し示した先では、今まさにバニーがインタビューのカメラに囲まれているところだった。
私は小さく首を横に振る。
「それじゃ、戻ろう」
唯さんはそう言うと、私の肩をポンと優しく叩いて、ロッカーへと歩き出した。
ロッカールームに戻ると、みんなから手荒いほどの祝福を受けた。ひとしきり騒ぎが落ち着いた頃、ストラーム監督から声をかけられた。
「クラブハウスに戻ったら、唯と一緒に私の部屋に来てくれ」
監督が去った後、私は不安になって隣の唯さんを振り返った。
「……やっぱり、勝手にレアルの選手とユニフォームを交換しちゃったから怒られるんでしょうか?」
「ふふっ、そんなわけないじゃん」
唯さんはおかしそうに笑って、私の背中を優しく押した。
ムーンシティのクラブハウスに戻り、私は唯さんと一緒に監督室へと向かった。
自分で自分の顔は見えないけれど、きっと何が何だか分からない、ひどく強張った表情をしていたと思う。
明日は日本へ帰国する日だ。わざわざ呼ばれたのは、その手続きの確認だろうか?
それとも「一週間どうだった?」という感想を聞かれるため?
いや、それなら監督室にわざわざ呼ぶ必要はないはずだ。ロッカールームで軽く言葉を交わせば済む話なのだから。
私はドアをノックした。
室内から監督の落ち着いた声が響き、促されるまま中に入る。
ストラーム監督はデスクの前の席を勧めてくれた。
指示に従って椅子に腰を下ろす。
唯さんが私の隣に座る瞬間、監督の手元にある書類に目を留め、「やっぱり……」と小さく呟いたのが聞こえた。
「まずは一週間のトライアウト、お疲れ様。どうだったかな、我がチームの居心地は?」
「すごく、良い経験をさせていただきました。初めての海外で、しかもあのエティアス・スタジアムで試合ができるなんて思ってもみませんでしたし……レアルと戦えたなんて、今でも夢じゃないかと思っているくらいです」
「ふむ、日本人は本当に謙虚だね。そんな世界トップの相手に1ゴール、1アシスト。君は紅白戦でも2ゴール、1アシストを記録しているんだよ?」
「それは……私のプレースタイルを、相手がまだ知らなかったからだと思います。それに、今日の試合や紅白戦も、唯さんが完璧にフォローしてくれたおかげです。結果を出せたのは嬉しいですが、皆さんの助けがなければ、私は何もできずに潰されていたはずですから」
私がそこまで頑なに謙遜するのには、ちゃんとした理由があった。
日本にいる頃の私は、胸をしっかり固定するようなスポーツブラをつけずにサッカーをしていた。そのせいで、下を向いても自分の胸が邪魔をして足元が隠れてしまい、ボールを直接見ることができなかったのだ。
だから私のドリブルは、ほぼ『ブラインドドリブル』だった。ボールではなく周辺の景色を見て、そのズレ(周辺視)だけを頼りに手探りでボールを運んでいるに過ぎない。
そして、ムーンシティもレアルの選手も、国を代表するトッププレーヤーたちの集まりだ。対戦相手はすぐに私のそのいびつなプレースタイルを理解し、後半にはきっちりと対応を修正してきた。
私のハッタリが通用したのは最初だけ。その後は、3シーズン連続得点王であるバニーの圧倒的な攻撃力や、唯さんの後ろからの完璧な戦術眼、そして色々な選手たちがフォローしてくれたからこそ、あの結果が生まれたのだ。
「まあ、そこまでストイックに自分を追い詰める必要はないよ。今回の君の結果を受けて、僕たちはこれを君に提案しようと思う」
ストラーム監督から手渡された、一枚の書類。
そこに書かれたタイトルを目にした瞬間、私の心臓がドクリと跳ねた。
『アカデミー契約書』
私はその紙を食い入るように見詰めた。
16歳から最長で2年間、クラブの下部組織と結ぶことができる契約システムのようだ。
「でも……私は17歳ですから、公式試合には出られないですよね?」¥
「ああ、出られない。FIFAのルールだからね。当然だが君にはまだ目立った実績が全くない。本来なら、このアカデミー契約を勝ち取ることすら難しいのが現状だ」
「難しい、けど……?」
監督の言葉の続きを促すと、彼は穏やかに微笑んだ。
「君が留学ビザを取得して、現地の学校へ真面目に通いながら、うちの練習に参加すればいい。日本で普通に練習を重ねるより、ここで過ごす時間の方が何倍も実りが多いはずだ。……そこでなんだが、ユイ?」
「私が、綾ちゃんの保護者代わりになるんですね」
「できればその方が、アヤも安心してサッカーや日常に集中できるだろう?」
監督の言葉に、私は慌てて首を振った。
「そんな! 唯さんにこれ以上ご迷惑をおかけするわけには――」
「いいよ、綾ちゃんだったら大歓迎」
唯さんは私の言葉を遮るようにして、ふにゃりと優しく笑った。
「手もかからないし、何より、美味しいご飯も作ってくれるでしょ?」
私は深呼吸をして、真っ直ぐに頭を下げた。
「そこまで私を評価してくださって、本当にありがとうございます。ですが、私は今お世話になっている場所があります。そこに筋を通さず、自分の判断だけで決めることはできません」
「君の人生だろ? 君には夢をその足で叶える力があるんだよ」
「はい。それに私は、『明日帰るね』って約束しちゃいましたから。もし、それでも私に興味を持っていただけるなら、その時はまた、ゼロからチャレンジさせてください」
ストラーム監督は一瞬だけ目を見開いた後、隣の唯さんと視線を交わして苦笑した。
「どうやら唯の言ったとおりだったよ。今回は私たちが引き下がるとしよう。その代わり、冬の年明けにまたここへ遊びに来なさい」
「いいんですか?」
「あぁ。その時、また私たちをわくわくさせてくれ」
「はい! 頑張ります」
そう言って監督は、デスクの横に置いてあった大きな紙袋を私に差し出した。
「これは……?」
「プレゼントだよ。明日の朝は、できるだけ早くここ(ムーンシティ)を発った方がいい」
「どうしてですか?」
「君のことを聞き出そうと、早くも嗅ぎ回っている連中が多くてね。――いいから、それは持っていきなさい」
紙袋を覗き込むと、そこには今日の試合で使われたと思われる公式球が入っていた。
さらにその下には、チームのユニフォームと、何枚もの厳重なスポーツ用の下着が入っていた。
胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、私は監督に心からのお礼を伝え、唯さんと共に監督室を退出した。
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