40話 プレシーズンマッチ前半戦
私がロッカールームのドアを押し開けた瞬間だった。
静かに振動していたスマホが、ぴくりと震え、すぐに着信音を響かせた。
通知画面に表示された名前は、当然のように「栞」だった。
「アヤ、携帯は使用禁止になるから、今のうちに見ておいた方が良いわよ」
隣で着替えていたバニーが、にこやかに声をかけてくる。
「バニーそうなの? 初めて知った」
「そういえばアヤは、そういうの全く知らないよね」
「そうそう、スポブラの存在も知らなかったし」
「さっきも自分の荷物、自分で持とうとしてたよね」
「しかも普通に歩いてスタジアム行こうとしてたし」
周囲からくすくすと、抑えきれない笑い声と突っ込みがあふれていた。
唯さんも小さく息を吐き、肩をすくめるように笑っている。
「だって、エティアス・スタジアムって近いじゃないですか」
「近いとか、そういう問題じゃないの」
……そういう問題じゃないって、どういう意味だろう?
首を傾げていると、唯さんが少し声を落として続けた。
「シティの選手が集団で歩いてたら面倒なのよ」
「……そういうものですか?」
正直、よく分からなかった。でも、ここで深く聞くのも違う気がして、私は素直に頷いておいた。
ロッカールームにスマホを持ち込めないので、急いでメールをチェックする。
スマホの画面に、栞からのメールが明るく浮かび上がっていた。
『綾さん。今日の試合頑張って。応援してるからね。昨日はごめんね。少し仕事が忙しくて返事できなかった。帰ってくるのを楽しみにしてるからね』
胸の奥が、ふわりと温かくなった。
栞も仕事が忙しかったんだ……。
以前の私だったら、きっと「まあいいか」で流していたと思う。
でも今は違う。どうしてこんなに栞のことが気になってしまうのか、自分でもよくわからない。
ただ、その気持ちが嫌ではなかった。
このメールを読めたことで、ようやく心の最後の引っかかりが解けた気がした。
これで、思いっきり試合に集中できる。
「綾ちゃん」
ロッカールームの向こうから、唯さんの声が飛んできた。私は慌ててスマホをロッカーにしまい、振り返る。
「どうしたのですか、唯さん」
「楽な時の突破はいいとして、ドリブルなどの個人での突破のチャンスは三回までね」
「どうしてですか?」
「言わなくてもわかるでしょ」
唯さんの視線は穏やかだが、芯の通った響きがあった。私は素直に頷いた。
「はい」
日本で唯さんに鍛えてもらったと言っても、期間はまだ一ヶ月にも満たない。
世界トップレベルの選手たちを前に、私の実力など到底及ばないことは痛いほど理解していた。
実際、紅白戦で通用した私の突破力も、練習を重ねるごとに通用しなくなっていた。
「多分、初見の三回までなら通用すると思うの。それ以降は、一人で戦わずに周囲を使うこと。約束できる?」
「はい」
唯さんの言葉に、背筋が自然と伸びる。
サッカーは個人技が目立つスポーツだと言われるけれど、ここ数日でようやく、本当の意味で「チームプレー」の重さを理解できた気がした。
自分の力だけに頼るのは、驕りでしかない。
そしてその驕りは、すぐにピッチの上で自分を苦しめる。
ミーティングが終わり、私の出番は前日言われた通り、後半からの出場となった。
最初は、反対意見もあるだろうと思っていたけれど、紅白戦の賭けのことをみんななぜか知っているらしく、納得してくれているようだった。
唯さんたちレギュラーメンバーは、花道で整然と並び、スタートの準備を整えていた。
私たち控え組は監督とともに花道を抜け、試合会場であるピッチの入り口に足を踏み入れた。
その瞬間。凄まじい歓声が、地鳴りのように全身を包み込んだ。
……なに、これ?
急激な大音量と、スタジアム全体を揺らすような楽器の響きに、私は思わず身体を硬くした。
肌がビリビリと震え、鼓膜が圧迫されるような感覚に息が詰まる。
「アヤ、どうしたの? ビビってる?」
守備の切り札と呼ばれるヴィエナ・ウィンターさんが、からかうような笑みを浮かべて声をかけてくれた。
「この歓声が凄くて……驚いただけです」
「私たちもここで試合をするのは滅多にないし、これだけの観客が入るのも珍しいわ。あんたは監督の賭けに勝ち。存在感を示した。この会場の雰囲気含めて楽しんでいきなさい」
「……なんかすみません」
悪くはないと、頭では分かっている。
でも、監督が提案した賭けで私が勝ったということは、つまり私が後半に出ることで、一人の選手の出場枠がなくなったということだ。
この舞台に立ちたいと誰もが思っているはずなのに、私はその権利を奪う形になってしまう。
「アヤ」
ヴィエナさんが、急に真剣な目で私を見据えた。
「あんたが少しでも後ろめたい気持ちを持ってたら、ビンタするわよ。貴女は監督が出した条件で、ちゃんと結果を出した。私たちの世界は、結果を出した者が強い。胸を張ってやりなさい」
「……はい」
なんだろう。
こちらに来てから、素直に「はい」と返事をする機会が格段に増えた。
日本にいた頃のように、ただ形だけで返事をしていた時とは、まるで違う。
ベンチに腰を下ろしていると、レギュラーメンバーが花道を通ってピッチに入場する様子を、すぐ目の前で見ることになった。
先ほどまで一緒に笑っていた仲間たちが、急に別世界の存在のように感じられる。
子供たちと手を繋ぎ、笑顔で記念撮影に応じている。
フラッシュが何度も光り、子供たちの歓声がスタジアムに響く。
白線のこちら側と向こう側――ただ一本の線を挟んでいるだけなのに、まるで果てしない距離のように思えた。
セレモニー全体を華やかに彩っている。
様々な演出が滞りなく終わり、ついに試合のキックオフが宣言された。
これまでレアルの試合を数試合、ビデオで見たことはあった。
でも、実際にこの会場で体感するのは全くの別物だった。
スピード感自体は想像通りだったが、迫力が段違いだ。
選手たちの疾走が空気を切り裂き、地面を震わせ、観客の大歓声と混じり合って全身に突き刺さってくる。
これに慣れなければ。いや、慣れなければならない。
私は一秒も見逃さないように、目を凝らしてピッチを見つめ続けた。
リサ・カセレス選手の高速ドリブルが、稲妻のようにピッチを切り裂いた。
一瞬のフェイントから股抜きを決めたかと思えば、次の瞬間にはキャサリン選手がロングレンジから強烈なシュートを放つ。攻撃の迫力に息を飲む。
唯さんからの絶妙なスルーパスを受けたバニーがシュートを放った瞬間も、鉄壁の守備陣が素早く反応し、キーパーのミリア・ロドリゴ選手がDFたちに鋭く指示を飛ばしながら「ここしか打てない場所」に誘導してキャッチしていた。
学校のサッカーとは、身体の使い方だけじゃない。
考える時間など、本当に一瞬もない。
少しでも頭で考えてしまったら、即座にボールを失う。
きっと何千回、何万回と反復練習を積み重ねて、身体と頭が本能で動くように鍛え上げているのだろう。
プロになること自体が凄いことなのに、こうして毎日練習を続け、実力を維持し続け、選手である限りさらに鍛え続けていく。
その姿勢が、本当にすごいのだと、心の底から思った。
前半終了まであと五分というところで、私はベンチを立ってウォーミングアップを始めた。
軽くジョギングし、ストレッチをしながら自分の体の状態を確認する。
自分では緊張していると思っていたのに、どうやらそれは杞憂だった。
体中が、早くこの大歓声の中でサッカーをしたいと、熱く叫んでいるみたいだった。
結局、前半終了間際――
リサ選手の強烈なシュートを山瀬さんがパンチングで跳ね返したボールを、キャサリン選手が素早く拾い、そのまま豪快に決められた。
前半が終了のホイッスルで終わる。
ホームなのに、シティの選手たちはみんな実力を肌で知っていたから、リードできると信じていたのに――結果は1点のビハインドで負けていた。
私はレギュラーメンバーたちと一緒にロッカールームへと引き上げた。
ゼリーを口に運びながら、監督の指示を集中して聞く。
どうやら交代で出るのは、藤沢あおいさんだった。
「綾、私たちが受けた衝撃を、世界に見せてきなさい」
「あおいさんの代わりはできないけど……私が今できることを、120%出します」
私は自分のロッカーを開け、用意されたばかりのユニフォームに袖を通した。
生地が肌に触れた瞬間、ふと昨日のやり取りを思い出す。
監督に「どの番号が着たい?」と聞かれたとき、この試合限定だと知りながら、咄嗟に頭に浮かんだ数字は「666」だった。
それを伝えると、監督は苦笑しながら「666は許可できないが、66番を用意しよう」と言っていたっけ。
そんな不思議な思いを抱きながら、監督の作戦指示を最後まで頭に叩き込み、準備を整えた。
みんなと一緒にロッカールームの扉を押し開け、通路へと足を踏み出す。
前を歩く唯さんたちの背中を追いながら、スタジアムの地下トンネルを進んでいく。
分厚いコンクリートの壁の向こうから、地鳴りのような大歓声が響き渡り、足の裏からじわじわと緊張が這い上がってきた。
トンネルの出口を抜けると、イングランドの冷たい夜風が一気に肌を撫でた。
私は白線をまたぎ、グラウンドの中へと足を踏み入れた。
練習場の芝とは明らかに違う、極上のピッチ。
踏みしめた瞬間、柔らかさと弾力が足裏全体に伝わり、心の奥底から熱いものが込み上げてくるのがわかった。
これから対峙するレアルの選手たちに視線を移す。
目が合ったメリー・メンデス選手は、私の顔を一瞬だけ捉えると、すぐにフイッと視線を逸らし、自分のマーク確認に戻ってしまった。
その瞬間、スタジアムの巨大スピーカーから、場内放送の興奮した声が響き渡った。
『……さあ、1点ビハインドのシティですが、後半頭からメンバーチェンジです! 20番・藤沢あおいに代わり、背番号66番、17歳の綿津見綾を投入してきました。公式名簿にもデータが一切ありません。完全なトライアウト生のようです。このメンバーチェンジをどう思いますか? マイクさん、どうです?』
マイクさんの声がすぐに続いた。
『ブランカスからすれば完全に未知の選手ですね。藤沢選手に代えてテスト生を投入するとは、プレシーズンとはいえ冒険が過ぎるようにも思えますが……解説のギルバードさん、いかがですか?』
『はったりでしょうか? 意図は分かりませんが、さすがに17歳の無名の少女を出したところで、百戦錬磨のレアルの守備陣が動じるはずもありません。守護神ミリア・ロドリゴを中心に、鉄壁の壁には一切の焦りが見えませんね。ミケル・ストラーム監督の狙いがどこにあるのか、甚だ疑問です』
ギルバードさんが、若干鼻で笑うような調子で答えている感じだった。
『さあ、不吉とも取れる『66番』を背負った少女がピッチに立ちます。この数字がもたらす混沌は、どちらのチームに降り注ぐことになるのか――運命の後半戦が始まります!』
再びメイン実況の声が大きく張り上がった。
スピーカーから降り注ぐ三人の実況と解説を聞きながら、私は自分の背中に刻まれた『66』の数字を、そっと意識した。
薄いユニフォームの生地越しに感じるその重みが、急に現実のものとして胸にのしかかってくる。
ここに来るまでに応援してくれた人たち。
パブで出会ったこのチームのサポーターたちの、あの熱い視線と声援。
柄ではないと思いつつも、私は心の中で静かに誓った。
全力を出して、証明してみせるよ。
栞も日本で頑張っているはずだ。
私も、笑顔で彼女に報告ができるように――この試合を、絶対に無駄にはしない。
全員がポジションにつき、スタジアム全体の視線がセンターサークルへと一斉に集まる。
私は一歩一歩、自分の戦場であるその円の中へと歩みを進めた。
足裏に伝わる極上の芝の感触が、まるで全身の神経を研ぎ澄ませていくようだった。
バニーの隣に並び、くるりと相手ゴールの方を向く。
「アヤ、最初に蹴らしてあげるよ」
バニーが小さく微笑みながら、そう囁いてくれた。
張り詰めた空気の中で、その言葉が胸に温かく染み込む。
主審がゆっくりと口元に笛を運ぶ。
次の瞬間――ピィィィッ!
後半戦の開始を告げる鋭いホイッスルが、エティアス・スタジアムに高く鳴り響いた。
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