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【三部開始】 Liebe   作者:
3部 1章 最高のイングランドの経験

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37話 前半戦

 ピッチの上では、すでに紅白戦が開始されていた。

 ベンチの硬いプラスチックの椅子のすぐ先には、完璧に手入れされたエメラルドグリーンの天然芝がフカフカと広がっている。

 雑草一つなく、イングランドの低い雲からこぼれた淡い光を吸って輝く、見渡す限りの広大なフィールドだった。

 その均一な緑の面は、遥か遠くの対角線上にあるタッチラインや、白く塗られたゴールポストの足元まで、一切の滞りなく滑らかに続いている。


 バシィィィン!

 選手たちが激突するボディコンタクトの鈍い音と、規格外のパワーで蹴り出されるボールの風切り音が、ベンチの屋根を震わせる。

 風が吹くたび、スプリンクラーの残した水飛沫が霧のように舞い上がった。

 ひんやりとした空気と共に辺りに漂うのは、むせるほどに濃い青々とした芝生の匂いが私の尾行にくすぐっていた。


 ピッチの中央では、水色の練習着を着た唯さんがパスを配給し、その鮮烈な弾道に合わせて、左右のタッチライン際を選手たちが激しく上下に駆け抜けていっていた。


 私も本当なら前半から出る予定だった。


「今日の紅白戦はAチームとB値0-無に分かれてもらうが、ユイはBチームで」

「わかりました」

 監督の隣にいる私はすごく目立っていたと思う。

「そうそう言い忘れていた。私の隣にいる子は」

「監督、言い忘れてるんじゃなくて、紹介するのが照れくさいの? もしかして、新しい恋人?」


 突拍子もない冗談に、静まり返っていたピッチが一気に沸いた。 

 声の主を探して私が視線を巡らせると、列の後方からひときわ背の高い黒人選手が、長い手足を揺らして進み出てくるところだった。

 カディサ・コニール。

 ジャマイカ女子代表にして、このチームの絶対的エースだ。

 テレビの向こう側でしか見たことのなかった世界屈指のストライカーは、豊かな唇をニヤリと歪め、私に向かってウインクしてみせた。


「私がそんなに特権を使用してるように思えるんだったら、私の不徳だな。なら特権を使用してバニーを休ませて他の選手にチャンスをあげてみるとしよう」

「冗談ですってば、その子は誰ですか?」

「ユイが日本から連れてきた1週間だけの練習生だよ。この紅白戦に出させてあげようと思ってね」

「へぇ~ユイがね。それは楽しみだよ」


 周囲の視線が集まってきているけど、そりゃそうなるよね。

 私は、そのまま自己紹介をして深くお辞儀をしてみた。

 そしたら、なぜか日本人以外の選手たちがドッと大笑いした。

 私が不思議に思っていると、カディサ選手が、大きな手足を揺らして前に歩き出し、私にガバッと抱き着いてきた。


「そんなにかしこまらなくていいのよ。ピッチに入ればみんな同じフットボーラーなんだから! ……中に入ったら、ライバルだけどね」


 彼女は確かに笑っている。けれど、私を覗き込む長いまつ毛の奥の目や、その肌からピリピリと伝わってくるオーラは、全く笑っていなかった。

 ゾクリと背筋に冷たいものが走った。

 そんな私に追い打ちをかけるように、ストラーム監督が告げた。


「アヤもBチームに入ってくれ」

 私は監督の指示に、ぐっと拳を握って首を横に振った。

「ストラーム監督、勝手を言って申し訳ないですけど、出来れば後半からお願いしてもいいですか?」

「わかっているのかい? 君のプレーを見せる時間が半分になるんだよ。それにこれは紅白戦だ。二十分ハーフだってわかっているのかい?」

「はい、もちろん。昨日提示されたあの条件でいいですので」


 私の覚悟を聞いた監督は、一瞬目を見張ったあと、愉快そうに肩を揺らした。


「ははは……いいだろう。日本人は本当にカミカゼが好きみたいだアヤは、後半Bチームに入ってくれ」


  バシィィィン!


 突如、ピッチから響いた激しいボディコンタクトの鈍い音が、私の意識を強制的に現実へと引き戻した。

 慌てて目を向けると、サイドライン際で激しいボールの奪い合いが繰り広げられている。


 並みの選手なら吹っ飛ぶような肩のぶつかり合い。

 バチバチと火花が散るような球際の攻防の中で、選手たちのスパイクが、天然芝を容赦なくえぐり、青い破片を宙に撒き散らしていた。


 そこへ猛然と突っ込んできたのは、やはりあの人だった。

 マークについていたディフェンダー二人を強靭な肉体ごとまとめてなぎ倒し、空中へ文字通りフワリと跳び上がったカディサ選手が、激しい風切り音を立てて落ちてくるボールをその額で完璧に捉える。

 バチィン、と鈍い破裂音が響いた瞬間、彼女のヘディングシュートはゴールネットを破壊せんばかりの勢いで中央へと突き刺さっていた。

 ディフェンスは完璧に守っていたのに物おじしない体幹に安定したヘディングシュートは教科書の見本のように、前に飛ばすのではなく叩き落す感じの破壊力抜群だった。


「――ゴール!!」

 ベンチのすぐ目の前で、選手たちのどよめきと歓声が上がった。

 Aチームの先制点。凄まじい破壊力、あれがジャマイカ女子代表のエースの力だ。

 ベンチのすぐ目の前で、選手たちのどよめきと歓声が上がった。

 ゴールを決めたカディサは、無邪気に味方とハイタッチを交わしながら、ベンチに座る私の方をチラリと見た。

 その目は、さっき抱きついてきた時と同じだった。

 笑っているのに、全く笑っていない。

 まるで私に見本を見せているように感じてしまった。


「……っ」


 ベンチの椅子の肘掛けを、壊れそうなほど強く握りしめる。

 恐怖がないと言えば嘘になる。

 でもこれが世界トップクラスなんだ。

 私のいつものパスでも遅いのではないかと思うほど、速く、強く、そして組織的なチームだと思った。

 

 ピッチに、前半終了を告げる鋭いホイッスルが響き渡った。

 激しい戦いを終えた選手たちが、一斉にベンチへと引き揚げてくる。


「――綾ちゃん見てた?」

 汗を拭い、息を整えながら真っ先に私のところへ歩み寄ってきたのは、唯さんだった。

 私は彼女に近づき、あらかじめ用意していた唯さんのスポーツドリンクとタオルを渡した。


「どう? ベンチから見て、世界トップのスピードは」

「……凄いですよ。正直、テレビで見ているのとは全然違いました。私のイメージより、はるかにね」

 私がピッチを見据えたまま静かに答えると、唯さんはボトルのキャップを閉めながら、私の横顔を覗き込んできた。


「見学は終わったの?」

 その問いに、私は小さく息を吐き出し、唯さんの目を真っ直ぐに見返した。

「二十分でわかるものなら、サッカーは簡単なものですよ。私の意図がばれちゃってますか?」


 生意気とも取れる私のセリフに、唯さんは一瞬驚いたように目を見張り、それから、ニカッと子供がいたずらを成功させた時のような笑みを浮かべていた。


「さぁ、でも準備は終わったみたいね」


 唯さんは私の肩を強めにポンと叩くと、再び悔しそうなアスリートの顔に戻ってピッチを睨みつめていた。


「さすがレギュラーチーム。ディフェンスも完璧だったのに、バニーのヘディングには完敗だよ。私には一生できないからね」


 唯さんは自嘲気味に笑いながら、自分の小柄な頭をぽんぽんと叩いてみせた。

 世界トップクラスの司令塔である唯さんであっても、あのカディサの圧倒的な高さと体幹だけは、どうしようもない物理的な壁なのだ。

 身を持ってそれを体感した唯さんの言葉には、重い実感がこもっていた。


「あぁ、でも一点のビハインドなんて本当に悔しい」


 ボトルをベンチのケースに手荒く戻しながら、唯さんは小さく、だけど本気で床を蹴った。

 紅白戦でも、こうやって本気で悔しがれるからこのチームは世界最高峰のチームって言われてるんだ。

 実際に唯さんだけじゃなくて、ベンチの周りではみんなが悔しがっていたり、さっきの失点の対策を各自英語で激しく話し合ったりして、次の二十分のために対応していた。


「ローレンはアウトで、アヤはインしなさい」


 ストラーム監督の短い指示が、私の背中を強く押した。

 深呼吸を一つして、私はとうとう、生まれて初めて芝のピッチへと足を踏み入れた。

 サッカーをしている人間なら、世界中の誰もが一度は立ちたいと願う、あの『ムーンシティ』のピッチだ。


 フカフカとした天然芝の感触をスパイクの裏に感じながら、私は白線をまたいでセンターサークルへと向かった。

 その隣には、今回は真ん中のポジションを取っている唯さんが、いつもと変わらない頼もしい佇まいで立っていた。


 ハーフタイムの静寂を破るように、カディサ選手を含めたAチームの面々が、一斉に私の方へと視線を向けてくる。

 けれど、日本では決して感じることのなかったこの痺れるような視線が、今の私には酷く気持ちよかった。


 ふいに、誰もいないはずの背中をポンと押されたような感覚がした。

 耳の奥に響いたその声は、今頃日本で、ドラマの収録に全力を注いでいるだろう栞の声だった。

『綾さん、がんばって』

 多分、昨日の夜にメールが届いていたからだろう。

 向こうにとっては朝の時間帯のはずなのに、びっくりするほど大量のメールが送られてきていたのだ。


 今日何を食べたとか、イングランドはどうだとか、そんな他愛のないメールを三十分もかけて読んだ。だから、彼女の声が頭に聞こえた気がしたかもしれない。

 返事は一応、礼儀上のものだけを返信しておいた。

『来たばかりでよくわからない、明日は紅白戦。栞もドラマ頑張って』


 けれど、本当に不思議だった。

 もっと緊張していてもおかしくないガチガチの状況なのに、栞のことを思い浮かべたら、なんだか自然とリラックスが、出来た気がした。

 私は一度足元のボールを見てから、隣の唯さんに向けて一回、深く頷いた。


 ――ピーーーーーッ!

 後半戦のホイッスルが、広大なピッチに鳴り響いた。

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