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【三部開始】 Liebe   作者:
3部 1章 最高のイングランドの経験

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36話 チャンスと決断

 ロンドンから車に揺られること、約三時間。

 送迎車の速度が滑らかに落ち、重厚なセキュリティゲートをくぐったところで、私はようやく目を覚ました。


「綾ちゃん、着いたよ。ここが私たちのベースだよ」

 隣に座る唯さんの声に促され、まだ眠気の残る目をこすりながら窓の外を見上げた瞬間。

 眠気など一瞬で吹き飛んだ。


「……うそ、これ全部……練習場なんですか……?」

 声が震えてしまった。

 車窓の向こうに広がっていたのは、想像を遥かに超える光景だった。

 十面以上もの完璧に管理された天然芝のピッチが、地平線まで果てしなく連なっている。

 イングランドの夏の遅い夕陽が、柔らかな黄金色の光を芝生に浴びせ、まるで緑の絨毯が黄金に縁取られたかのように美しく輝いていた。

 風にそよぐ草の葉の一枚一枚までが、生きているように息づいていた。

 私は思わず身を乗り出し、唯さんの方を向いて小さな声で尋ねた。


「……あの、窓を開けてもいいですか?」

「ん? いいよ、開けて」


 唯さんが微笑みながら頷いてくれたので、私はそっと窓を少しだけ下げた。

 その瞬間、車内に流れ込んできたのは、濃密で瑞々しく、まるで極上の香水のような芝の香りだった。

 幼い頃、父親の仕事場で嗅いだ懐かしい草の匂いよりも、ずっと深く、ずっと贅沢で、肺の奥まで染み込んでくる。

 この香りだけで、胸の奥が熱くなり、身体の芯がぞわっと震えた。


 私は思わず顔を上げ、前方を見やった。

 車がゆっくりと近づくにつれ、重厚なガラスと石を組み合わせた威厳のある建物が、徐々にその全貌を現していた。

 高く吹き抜けたエントランスが、灯り始めた照明に照らされて、まるで高級ホテルのように優雅に輝いている。

 イングランドの夏の長い夕暮れが、ようやく夜の帳を下ろそうとしていた。空は徐々に深い藍色に染まり始めている。


「あそこに見えるのが、クラブハウスですか?」

「そうだよ」

「ここに男子トップ以外の人たちがいるんですよね」

「ここは女子専用だよ」

「嘘ですよね」


 唯さんはたまに私をからかう冗談を言うので、私は半信半疑で聞き返した。


 けれど、唯さんの澄んだ緑色の瞳は、冗談などではなく本気そのものだった。


「前シーズン優勝したから、オーナーがこれからの発展をねがって投資してくれたんだよ。だから、これ全部が私たちのための場所」


 唯さんは誇らしげに、でもそれが当然であるかのように肩をすくめた。

 嘘じゃなかった。

 この信じられないほど巨大で贅沢な施設すべてが、女子サッカーのためだけに作られたものなのだ。

 日本では考えられないほどの環境の差、そして「プロの世界」の本当の凄まじさを、私は建物に入る前から思い知らされることになった。


「さ、いつまでも突っ立ってないで降りる準備をして」


 唯さんに促され、私はまだ震えが止まらない足を踏み出した。

 自動ドアが開くと、目の前にはホテルのロビーと見紛うほどに洗練された大空間が広がっていた。


 静かにエントランスの前に車が止まった。

 大柄なSP兼ドライバーさんが素早く外からドアを開けてくれる。


 一歩、車外へ足を踏み出した瞬間、イングランドの冷たい夜風が吹き抜けた。

 同時に鼻をくすぐった匂いに、どこか懐かしさを覚えた。

 幼い頃に、お父さんの仕事場へ遊びに行った時と同じ香りだったからだ。

 それでも圧倒的にこちらの方が、スケールが大きいから、日本で嗅ぐものよりも圧倒的に濃い、極上の芝生の匂いだった。


 ここで、私は一週間過ごすんだ。

 この世界一の戦場で、世界のトップと交わるんだ。


 なぜサッカーをやっているのかわかった気がした。

 もちろんサッカーが好きなのはある。

 私にとってはあの幸せだった頃の家族を唯一私が実感できる物だったから。

 

 初めて、プロになりたいと思った。

 日本では多分叶わないだろう。

 殺人者の娘。

 このレッテルがある限り日本では表舞台には立てないだろう。

 ここで実力を示せば道が開けるいのだろうか?


「クス。時差ボケも心配なさそうね。今いい顔してるよ」

「変わりません。普段通りです。……ただ正直に言うと、少し圧倒されてはいますが、思いっきり、やりたいと思いました」


「綾ちゃん、行くよ。まずは監督に挨拶しに行こう」


 唯さんは、先ほどまでのお姉さんらしい柔らかい雰囲気から一転、グラウンドで戦う選手の鋭い瞳に戻っていた。

 その背中を追いながら、私はまだ少し震える足で巨大な自動ドアをくぐった。


 ロビーを抜けると、ガラス張りの長い廊下が続いていた。

 壁には過去の優勝トロフィーや、チームメイトたちの大きな写真がずらりと並んでいる。どれもが、輝かしい歴史を感じさせた。

 奥の応接室のドアを唯さんがノックすると、中から落ち着いた男性の声が返ってきた。


 唯さんに続いて長い廊下を進むと、奥の応接室のドアを唯さんがノックした。


「どうぞ」


 部屋に入った瞬間、私は思わず背筋を伸ばした。

 窓際に立っていたのは、背の高い男性だった。

 短く整えられたダークブラウンの髪に、冷静で知的なグレーの瞳。50代前半くらいに見えるが、姿勢が良く、選手時代に培った引き締まった体躯が今も残っている。静かな威圧感と、どこか穏やかな空気を同時に纏う人だった。


「ユイ、遅かったな。……こちらが君が連れてきたアヤ・ワタツミか」


 ミケル・ストラーム監督はゆっくりとこちらに歩み寄り、私の顔をまっすぐに見つめた。


 その視線は鋭いけれど、冷たくはない感じに見えた。

 しっかりと私を見定めようと観察している感じがする、深い眼差しだった。

「初めまして、ストラーム監督。綿津見綾です。本日からよろしくお願いします」

 声を少し震わせながら頭を下げると、監督は小さく頷いた。

「日本からよく来てくれた。ユイから話は聞いてるし、日本からの健康チェックも見させてもらった。君の公式のデーターは無かったけどね。ここでは『指示を待つ』だけでは成長しない。自分自身で考え、仲間と繋がりながら解決する力が必要だ。その覚悟はあるかな?」


 静かで、けれど重みのある言葉に胸が締めつけられた。

「……はい。覚悟は、できています」

 監督の口元がわずかに緩んだ。

「いい答えだ。それから君に質問をしようと思う。どちらを選んでも大丈夫だ」


 私は唯さんの方を見ると彼女は首を振っていた。

 彼女自身知らないことなんだろう。


 「君には二つの選択肢がある。一つは下の育成カテゴリーに混ざり、同年代と一緒にじっくりやる道だ。そしてもう一つは……明日のトップチームのミニゲームに出て、私に君の実力を示す道だ」


「――違いは、何ですか?」


「もし明日のピッチで君が『存在』を示せたなら、唯の眼が本物だったと認めよう。君を1軍の『特別練習生』として扱い、この一週間、世界最高峰の環境で徹底的に面倒を見る」


「でも監督。私はまだ高校2年生で、外国人です。FIFAのルールで、どうせ私はここの一軍の選手にはなれないんですよね?」


 私が投げかけた現実的な疑問に、監督はフッと不敵な笑みを浮かべた。

「その通りだ。君が14歳からここのアカデミーに所属していたのなら話は別だがね。今の君がこの国でプロの公式戦に出る手段はない」


 監督は人差し指を立てる。


「だが、今はシーズンオフでね。公式戦の登録ルールは関係ない。明日君が合格すれば、週末のプレシーズンマッチで一軍のユニフォームを着せてやる。本物のプロを相手に、君の価値を世界に証明するチャンスをあげよう」

「そういうからには、不合格だった場合のペナルティはあるんですよね?」

「……唯のゲストとして預かるだけだ。トップの練習はもちろん。アカデミーへの参加は認めない。見学は許すけどね」


「監督、話が違いますよ!」

「違ってはいないよ。連れてきたのなら短期間だけ面倒を見ようといっただけだよ。見学を見せるのも彼女にとってはいい勉強になるはずだよ」


 「わかりました。なら――明日のミニゲームに出してください」

 私の即答に、監督は満足そうに口元を綻ばせて唯さんは驚いていた。


 せっかく栞が背中を押してくれたのに、このまま見学だけで終わったのなら悪い気がする。

 渡英が決まってから、ずっと私に付き合ってくれた唯さんにも悪い。

 語学の勉強に、サッカーの練習にも付き合ってくれて、以前通っていたチームに頭を下げてくれて健康チェックもしてくれた。

 沢山の人が私の渡英を応援して背中を押して

 それに、私だけの問題だったら、それが今の実力だったんだと信じられる。

 私の実力が無いと思われたら、唯さんの立場が、悪くなる可能性がある。

 身内びいきだと思われるのは嫌だ。

 それにこれはチャンスだ。

 これに失敗すれば、こんどこそ本当に諦められる。

 でも合格したのなら、私はプロになると決断をしよう。

 

「ユイ、こういうのをサムライ魂って言うのかい」

 監督が楽しげに目を細めて言った。

「監督楽しんでますね」

 唯さんが少し困ったような、でも親しげな笑みを浮かべて返す。

「私は、これでも君の目を信じているんだよ」

 監督は穏やかに微笑みながら言葉を続けた。

 「いきなり無名の日本人がトップの練習に参加なんて、周囲が納得しないのは当然だと思わないかい。いくらユイが連れてきたと言ってもね」

 そこで少し間を置き、監督は私を真っ直ぐに見つめた。

 「ならば、同じサッカー選手なんだ。足で証明してみた方が速いし、私も判断しやすい。そしてチーム全員に自己紹介にもなって、一石二鳥じゃないか」


 監督は紳士っぽい柔らかな笑顔を浮かべながら、唯さんに向かってそう言っていた。


 その声にはからかいと信頼が混じっていて、どこか温かみさえ感じられた。

 この人は、なぜか信頼できると思ってしまった。


「私には問題があります」

 だから、隠さずに言わないといけない。

 私は深く息を吸い、拳を強く握りしめた。喉がからからに乾いているのがわかった。

「私の母は父を殺しました。私は加害者の娘であり、被害者の娘です」

 言葉にした瞬間、部屋の空気が一瞬で重くなった気がした。


 監督は静かに私を見つめ、ゆっくりと頷いた。

「君は君だろう? 君が犯罪を犯したのかね?」

「いえ、有りません」

「なら関係はないよ」

 監督の声は穏やかだったが、目は一切ブレていなかった。

 「ただし君が存在感を出せないのなら、悪い事は書かれるかもしれないね。そういう覚悟はあるのかい?」


 私は一瞬、目を伏せた。胸の奥が痛く締めつけられる。

 それでも顔を上げ、監督の目を見つめ返した。

「もちろんです。私は何を言われても構いません。チャンスをくださるのなら」

 監督は少しの間、私の顔をじっと見つめた後、静かに言った。

「いい返事だ。期待してるよ」


 監督は静かに頷くと、わずかに表情を和らげて続けた。

「君のホテルを用意しようと思うのだが」

「私の家に止まるので構いませんよ監督。さすがに海外に出た若い子を一人にはしませんって」

 唯さんが明るく、でもきっぱりとした声で答えると、監督は小さく笑った。

「ならよろしく頼むよ。ユイは、あしたは午前自由、昼はグラウンドで、アヤは朝一にここへ来なさい。最終メディカルチェックをするので」

「はい」


 部屋を出た後、私は無意識に拳を強く握りしめていた。

 まだ何も始まっていない。

 でも、確かに大きなチャンスをもらったという実感が、胸の奥で熱く脈打っていた。


 応接室のドアが静かに閉まる音が背後で響いた。

 長い廊下を唯さんと並んで歩き始めると、夜の静けさの中で私たちの足音だけが小さく反響していた。

 少し歩いたところで、唯さんがふっと息を吐き、柔らかい声で言った。


「規律には厳しいけど、しっかり対話して、どういうサッカーをしたいのかをきちんと伝えてくれるいい監督だよ」


 ……応援してくれた人をがっかりさせないように。

 そして私のために、明日は思いっきり頑張ってみよう。


 日本で背負ってきたすべてのレッテルも、ここでは関係ないのかもしれない。

 ここで、私は変われて、やっと栞と対等な関係になれるかもしれない。

 そんな思いが、心の奥底からふと浮かび上がってしまった。


 日本から遠く離れているのに、どうして今、彼女のことをこんなに強く想うのだろう。

 この一週間が終わったとき、彼女に会ったとき、その答えはわかるのだろうか。

 ……でも、せめて前を向いて、ちゃんと笑顔で彼女に報告ができるように会いたい。


「 Liebe」をお楽しみいただけましたか?


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皆さんの応援が、次の話の執筆を進める力になりますので、どうぞよろしくお願いします!

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