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【二部完結】 Liebe   作者:
3章 綾の過去

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第35話 同じ星の下、違う風に吹かれて (第二部 完)

 巨大な鉄の塊が、轟音と共に滑走路に叩きつけられた瞬間、機体全体が骨の髄まで震えた。

 十五時間にわたる長旅の疲労を、分厚いアルミの皮膚で必死に受け止めながら、ボーイングは長い誘導路を重々しく滑走していく。

 窓の外に広がる灰色の滑走路と、霧に煙るイングランドの空が、ようやく「現実」として綾の網膜に焼き付いた。


「着いたよ、綾ちゃん。ここがイングランドの玄関口、ヒースローだよ」


 唯の声が、耳の奥に柔らかく溶け込むように響いた。

 綾は、震える指先でシートベルトを外した。

 カチリ、という小さな金属音が、なぜか機内の静寂の中で異様に大きく響いた。

 ドアが開いた瞬間、機内の乾燥した無機質な空気が一気に掻き消された。

 冷たく湿った、土と石と古いレンガの匂いを孕んだ異国の風が、頰を優しく、しかし容赦なく撫でる。

 まるでこの国が、深く低く囁いているようだった。

「ようこそ、遥かなる東の娘よ」と歓迎してくれてる感じがした。


 ビジネスクラスから優先的に降りた二人は、時差ボケの残る体を鉛のように引きずりながら、果てしなく続く通路を歩き始めた。

 ヒースロー空港のターミナルは、巨大な迷宮都市そのものだった。

 天井高く吊るされた無数の照明が、白く冷たい光を降り注ぎ、磨き上げられた石の床がそれを鏡のように反射している。


 ところどころに浮かぶ黄色い『Way Out』の看板と、ほとんど存在しない日本語表記が、改めてここが遠い異国であることを突きつけてくる。

 綾の胸の奥で、小さな鼓動が速くなっていた。


「入国審査、緊張する?」

 唯が歩調を合わせ、そっと横顔を覗き込む。

 柔らかな茶色の瞳が、心配と優しさと、少しの興奮を同時に湛えていた。

「……はい」

 綾は小さく息を吸い、淡々と、しかし声の端をわずかに震わせながら答えた。

「上手く話せるかどうか……実践はほとんど初めてなので」

 唯はすぐに微笑み、綾の肩に温かな手を置いた。

 その手のひらのぬくもりが、冷えた異国の空気の中で、唯一の確かな支えのように感じられた。


「大丈夫。短期留学の書類も全部揃ってるし、最悪私が横にいるから。それに今も完璧な英語だから、自信持っていけばいいよ」


 唯の声は柔らかく、けれど確かな強さを含んでいた。

 綾の緊張した肩に、そっと指先が触れる。その温もりが、心の奥まで染み渡るようだった。


 入国審査場は、世界中から集まった人々の熱気と緊張で煮えたぎっていた。

 さまざまな肌の色、言葉、香水の混じり合う空気、疲れた吐息と期待のざわめきが、巨大なホール全体を濃密に満たしている。

 赤ちゃんの泣き声、誰かの苛立ったため息、遠くで響くアナウンス——すべてが異国の現実を、容赦なく綾の肌に突き刺した。


 しかし、日本のICパスポートを持つ二人は、自動ゲートを驚くほどスムーズに通過できた。

 機械がパスポートを読み取り、静かな電子音と共に緑のライトが点灯した瞬間、綾は胸の奥で小さく、長い息を吐いた。

 まるで体内に溜まっていた固い氷が、一瞬で溶けたような安堵だった。


 手荷物受取所では、優先タグのついた二人の大型キャリーケースが、ベルトコンベアの先頭近くに、まるで待ち構えていたかのように現れた。


 綾は自分の身長の半分以上もある重いケースを両手でしっかりと掴み、ハンドルを握りしめた。

 掌に伝わる冷たい金属の感触と、車輪の小さな振動が、現実をより鮮明に、容赦なく刻み込む。

 税関のゲートを抜け、自動ドアが左右に静かに開いた瞬間——そこは、まるで別世界だった。


 到着ロビーは出迎えの人々で埋め尽くされ、熱気と期待と疲労が入り混じった濃厚なざわめきが、波のように渦巻いていた。

 さまざまな国の言葉が重なり合い、名前を書いたボードを高く掲げる人々が壁のように立ち並んでいた。

 甘い香水の残り香、雨に濡れたウールのコートの湿った臭い、コーヒーと汗と空港独特の消毒臭。すべてが綾の五感を同時に刺激し、軽いめまいすら誘った。

 その圧倒的な光景に思わず一歩、体を引いてしまった綾の耳に、唯の落ち着いた声が優しく届いた。


「あ、いたいた。ほら、あそこ」


 人混みの少し先に、ネイビーのスーツを完璧に着こなし、背筋の伸びた大柄な男性が立っていた。

 銀縁の眼鏡の奥の目は、プロフェッショナルな落ち着きと温かさを湛えている。

 彼が掲げるタブレットには、白と水色の洗練されたロゴマークと共に、『YUI HASEGAWA & AYA WATATUMI』の文字が、明るく輝いていた。


「ムーンシティの送迎の人だよ。さあ、行こう」


 唯が短く告げると、迷いなくその男性のもとへ歩み寄った。綾も慌ててその背中に続く。

 男性は唯に向けて深く丁寧に会釈をすると、彼女の荷物を預かりながら、穏やかで低く響く声で言った。


「おかえりなさい、唯。お荷物をお預かりします」


 続いて男性は綾の方へ視線を移し、柔らかな微笑みを浮かべながら右手を差し出した。


「こちらが練習生の綾さんですね。ようこそイングランドへ。お預かりしましょう」


 その落ち着いた声と言葉に、綾は少しだけ肩を強張らせながらも、大きなキャリーケースを彼に託した。

 男性の大きな手が、まるで羽のように軽々と荷物を扱う様子に、思わず目を丸くする。

 彼は左右の手に一つずつ、二人分の重い荷物を軽々と提げ、先導するように歩き出した。

 広い背中が、頼もしく、けれど優しく二人を導いていく。


  唯の背中を追って自動ドアをくぐった瞬間、イングランドの冷たい風が二人の髪を力強く、まるで抱擁するように揺らした。


 外の空気は重く湿り気を帯び、肺の奥まで染み込むような冷たさだった。

 遠くから聞こえる車のタイヤが濡れた路面を走る低く鈍い音と、夜の闇に溶け込むかすかな雨の予感が、肌にまとわりつく。

 ヒースローの外壁に反射する橙色の街灯が、アスファルトに長く尾を引いて揺れている。


 綾は無意識に手のひらを広げ、自分の掌を見つめた。

 飛行機の中で汗ばんだ跡が、まだ薄く残っている。

 ゆっくりと指を折り、きゅっと拳を握りしめる。

 爪が掌に食い込む小さな痛みが、今この瞬間を確かに現実のものだと教えてくれた。

 そして前を行く唯の細い背中を、その先にある見知らぬ国の空を見つめた。


 ここから始まる、一週間の魔法。

 まだ見ぬ「ムーンシティ」で、何が待ち受けているのか。胸の奥で小さな期待と、不安が同時に震え、絡み合うように脈打っていた。

 指先がわずかに冷たく、けれど心臓は熱かった。

 その瞬間、ヒースローの喧騒を背に、綾の新しい物語が、静かに、けれど確かに幕を開けた。




 一人は海を越えた異国の地で、一人は眩しい照明が降り注ぐ日本の片隅で——二人の舞台は、それぞれの速度で動き始めている。


 見上げる空の色も、肌を撫でる風の温度も、決して同じではない。

 遠く離れた二人が、この一週間で何を信じ、何に迷い、再び巡り合う瞬間に何を思うのか?


 加速する送迎車の窓の外を、ぼんやりと見つめる綾。

 見知らぬ街の灯りが、雨粒のついたガラスに滲みながら流れていく。

 オレンジと白と青の光が、まるで遠い星のように瞬いている。


 一方、日本では。

 眩しいスタジオの照明の下、栞は静かに息を呑んだ。カメラの赤いランプが点滅する中、彼女の瞳はわずかに揺れていた。

 二人が辿り着く場所は、今はまだ、誰も知らない。


 ――第二部 完――

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