33話A 渡英前夜
今日の仕事も終わり、夜の宿題も片付けた。
リビングのソファに深く腰を下ろすと、静かな夜の空気が肌にまとわりつく。
窓の外では、マンションのライトが柔らかく街を染めていた。
栞のおかげで、最近は本当に時間がゆっくりと流れている気がする。
以前は夜遅くまでバイトに追われ、睡眠時間を削って勉強をしていた日々が嘘のようだ。今はサッカーの練習にしっかり時間を割けるし、勉強もゆったりとできている。
すべて、彼女が与えてくれた。
夏休みの住み込みという名の贈り物のおかげだった。
……でも、なぜだろう。
栞は私にここまで良くしてくれる。
倒れていた彼女を保護したお礼だけでは、到底説明がつかないほどの優しさ。
まるで、私の存在そのものを必要としてくれているかのように。
その温かさが、胸の奥をくすぐるように嬉しい。
なのに、同時に冷たい棘のような不安も刺す。
人に必要以上に踏み込めば、いつか必ず悲しいことが起きる。
私はここ数年で、それを痛いほど学んだはずだった。
過去の事で、近づけば近づくほど、裏切られたときの痛みは倍増する。
それなのに、なぜか栞の前ではその理屈が溶けていく。信じたくなる自分が、怖い。
私は無意識に、自分の額に手を当てた。
先月、熱中症で倒れた私を、栞は必死に看病してくれた。
あのときの彼女の指先の冷たさと、震える声を今でも覚えている。
明日から渡英の準備は、すでに完璧に整えた。
正直、プロになるつもりなんて最初は毛頭なかった。
クラブに迷惑をかけるだけだと思っていたから、長谷部唯さんの誘いも、きっぱり断るつもりだった。
いろんな人が、私の背中を押してくれた。
だから、最後かもしれないけど、一度だけ自分のわがままを通してみたいと思った。
イングランド。
ムーンシティWFCの練習に、仮とはいえ一週間参加できるなんて、夢のまた夢のような話だ。
ピッチの芝の匂い、スタジアムの熱気、世界レベルの選手たちとボールを蹴る感覚——想像しただけで、胸の奥が熱くなる。
私はそっと息を吐き、膝の上で拳を握りしめながら、……ふと、この数日間のことを思い出していた。
この数日で、私は確かにうまくなったと思う。
はせ……唯さんだった。
彼女の「我」は、思った以上に強かった。
「長谷部さん? 長谷部さん?」
「これから、プライベートでは、長谷部さんって呼んでも返事しないから」
「えっと……?」
「唯でいい」
「唯」
「そこは、さん付けぐらいはしなさい」
「長谷部さん、わかりました」
その後も名字で呼んでも完全無視だった。唯さんは徹底していた。
いろいろと沢山教えてもらった。
亡くなったお父さんのノートを隅々まで見て、修正を入れてくれた。
十数年前に通用していた考え方を、今の最新の戦術理論にアップデートしてくれたり、ポジショニングやプレスのタイミング、スペースの作り方……私が向こうでちゃんと通用するように、本気で叩き込んでくれた。
もう一つ、彼女が決めたルールがあった。
二人きりのときは、必ず英語で話すこと。
英語は苦手ではなかったけど、唯さんの前では発音も抑揚も、文法の細かいところまで何度も直された。
彼女の低い甘い声で「もっと感情を込めろ」と注意されるたび、背中が熱くなったのを覚えている。
……そんなことを思い出しながら、寝る準備をしていたら——
コン、コン。
控えめなノックの音が聞こえた。
私は部屋のドアを開けた。
そこに、栞が立っていた。
「……どうした?」
私が声をかけると、栞は少し肩をすくめて小さく首を振った。
「あ、ごめん。晩御飯が足りなかったとか?」
「綾さん。私そんなに食べる方じゃないよ」
「どうしたの?」
明日の朝の仕込みはもう済ませてあるし、サンドイッチの材料も買って冷蔵庫に入れてある。
時計を見れば、もう深夜零時を回ろうとしていた。こんな時間に何の用だろう。
栞は、廊下の柔らかな照明に照らされ、黒髪を指でいじりながらもじもじと視線を泳がせている。
幼げな顔が、いつもよりさらに小さく見えた。
「えっと……」
珍しく言葉を濁す彼女に、私は少し首を傾げた。
トイレに一緒に行ってほしい……とか?
さすがに、それはなさそうだけど。十日以上一緒に暮らして、そんなお願いは一度もされたことがない。
「はっきり言って、出来る範囲はするから」
私がそう言うと、栞はようやく意を決したように顔を上げた。
頰がほんのり桜色に染まっている。
「えっと……一緒に寝てくれないかな?」
「は?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
一緒に寝るって……つまり、そういうこと?
女同士だけど、性欲はあるし、他人がいれば創育気もちになっても仕方がないのか。
私は雇われてるだけだし、別に構わないと思った。
「違うって……そういうのじゃなくて」
栞が慌てて両手を小さく振った。
耳まで真っ赤になっている。
「初めて会った時みたいに、一緒の布団に入って……添い寝みたいな……だめかな?」
……ああ、そういう意味か。
私は胸の奥で小さく息を吐いた。
明日から私がイングランドに行くから寂しいのか。
それとも、彼女自身も明日から一週間のロケが入っているから、不安が募っているのか。
確か芸能界には、物心つく前から言ってたから、それはないのか。
断る理由なんてない。
「……いいよ」
私は扉を開けっぱなしにしたまま、部屋に戻ってベッドの端に腰を下ろした。
シーツの端を軽くめくり、隣のスペースを空ける。
しかし、栞は廊下に立ったまま動かない。
両手を前でぎゅっと握りしめ、裸足の爪先をもぞもぞと動かしている。
どこか恥ずかしそうで、頼りなくその場で立っていた。
髪を軽くかき上げ、私は静かに彼女を見つめた。
「……来ないの? そこにいたいんだったら気にはしないけど」
「いいの?」
「その為に、ベッドに戻ったんだけど」
栞の顔がぱっと明るくなった。
今にも飛び上がりそうな勢いで、ぱたぱたと小走りにベッドに近づいてくる。
薄い部屋着の裾がふわりと翻り、細い太ももが一瞬露わになった。
彼女は私の隣に滑り込むと、すぐに布団を頭までかぶって身を寄せてきた。
小柄な体が、すっと私の胸元に収まる。
柔らかい髪が銀髪に絡まり、甘いシャンプーの香りが鼻をくすぐった。
少しだけ他愛ない話をした後、栞はすうっと寝息を立て始めた。
私はそっと彼女の頭を撫でた。
こんなに小さな体で、毎日あの芸能界で戦ってるなんて……本当に頑張ってるよね。
お疲れ様、栞。
そう思った瞬間——。
むにゅっ。
突然、栞が私の胸に顔を埋めるように抱きついてきた。
柔らかく、熱い感触がTシャツ越しに直接伝わってくる。
彼女の小さな手が、無意識に私の左胸をぎゅっと掴み、むにゅうと形を変えるように揉みしだいた。
「……っ」
思わず声が漏れそうになった。
柔肉の弾力と、指先の無邪気な力加減に、背筋がぞくりと甘く震える。
女同士なのに、こんなに敏感に反応してしまう自分が少し恥ずかしかった。
「綾さん……大好き……頑張って……」
熱い吐息と共に、甘えた寝言が耳元に落ちてくる。
その言葉に、胸の奥がきゅうっと締めつけられた。
私は反論するのをやめ、代わりに彼女の背中にそっと腕を回した。
小さい体を優しく抱き寄せ、抱き枕のように自分の胸に預ける。
栞の柔らかい胸が私の腹部にぴったりと押しつけられ、太ももが私の脚に絡まるように重なる。
温かく、湿った吐息が首筋にかかるたび、甘い疼きがゆっくりと全身に広がっていく。
……わたしこそ、いつも助けてくれてありがとう。
栞と出会ってから、毎日が少しずつ色づいていく。
君がくれた温もりを、どう返せばいいかわからない。
でも今は、少しだけこの夢みたいな時間を味わっていたい。
私は目を閉じ、彼女の銀髪に指を絡めながら、静かに夢の世界へと落ちていった。
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